« さらに大収穫の「ふるさと府中歴史館」 | トップページ | 研究者としての浩宮さんと肥さんの共通点 »

2018年7月28日 (土)

「国司館」の見学

川瀬さんは,南武線の「鉄道のダイヤが乱れている」のでまだいらしていないと予想して,
JR府中本町駅の脇にある「国司館跡」に行ってみた。

まだプレオープンだそうだが,その規模を知るのには良いだろう。
ただし,「 」を付けたように,国司館なのか,郡司館なのかはまだわからない。
本当は武蔵国府はもっと北にあり,国司館はさらにその北にあるかも!?
そうすると.郡寺・多磨寺の近くにある「現国衙」は郡の役所であり,
国司も所在する位置がなくなってしまうのだ。
先日もその調査を川瀬さんとふるさと府中歴史館でしてきたところだ。
(川瀬さんは,最初幸町に国衙の位置を求められたが,
発掘調査の報告書からもっと北の栄町などの場所に求められる模様)

Dscn2882

Dscn2883

Dscn2884

Dscn2885

Dscn2886

Dscn2887

« さらに大収穫の「ふるさと府中歴史館」 | トップページ | 研究者としての浩宮さんと肥さんの共通点 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 この遺跡も興味深いですね。
 たしか解説によると、この「国司館」が一連の国府関連遺跡の中で最も古いものだとか。「よみがえる古代武蔵国府」の解説では7世紀後半から8世紀前半(P40)。
 これだと「大化の改新詔」で「国郡」の設置時期。むしろ九州王朝時代だ。
 肥沼さんがおっしゃるように今の「国衙遺跡」が「郡衙」なら、ここは「国司館」ではなく、「郡司館」だと思う。おそらく武蔵国造の乱で負けた国造の拠点としていたのがこの地で、その国造は九州王朝の直轄地(屯倉)の長官となり、やがて武蔵国ができてここが多摩評となった際には、多摩評督となり、この屋敷を拠点にして多摩評を治めたのではないのか。
 この古代からの有力者が拠点とした地点に武蔵国府は造られたのだと思います。評督がいる役所から少し離れた場所に。

追伸:電車が遅れて遅れたのではありません。私が出かけられるのはヘルパーさんとの関係で午後1時半ごろなのです。だから府中到着は2時少し前。そして昼食ととってから仕事にとりかかる。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  肥沼さんがおっしゃるように今の「国衙遺跡」が「郡衙」なら、ここは「国司館」ではなく、「郡司館」だと思う。おそらく武蔵国造の乱で負けた国造の拠点としていたのがこの地で、その国造は九州王朝の直轄地(屯倉)の長官となり、やがて武蔵国ができてここが多摩評となった際には、多摩評督となり、この屋敷を拠点にして多摩評を治めたのではないのか。
 この古代からの有力者が拠点とした地点に武蔵国府は造られたのだと思います。評督がいる役所から少し離れた場所に。

この遺跡を,見学者に正しくそのように正しく理解していただくためにも,
私たちの「真の武蔵国衙」捜索活動はぜひともやらなければならない仕事ですね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« さらに大収穫の「ふるさと府中歴史館」 | トップページ | 研究者としての浩宮さんと肥さんの共通点 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ