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2018年7月10日 (火)

「風土記」もなかった!

瀧音能之著『風土記から見る日本列島の古代史』
平凡社新書,820円+税の上記の本を買ってきた。

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すでに古田史学では,古田さんの『『風土記』いた卑弥呼』をはじめとして数々の研究があり,
そこに私が何か付け加えるということもないとは思うが,私風の味付けくらいできないかと考えた。
まあ,他の方と「ちょっと違う角度」から見ることはできないかということだ。

国分寺について,741年の「国分寺建立の詔」(続日本紀)には「国分寺」という言葉はなく,
「七重塔を建てよ。そうしたら,金泥の経を納めよう」というのが趣旨であるということの指摘から,
多元的「国分寺」研究は始まった。それと同じようなことはないだろうか?

もちろんすでに「県(あがた)風土記」が九州王朝によって作られていたらしいことがわかっているので,
「続日本紀にはどう出ていたっけ?」と気になったからだ。
そうしたら,風土記の作成の出発点も,こんな感じで「なし崩し的」に始まっていた。

『続日本紀』和銅六年(713年)五月二日条

「畿内七道諸国の郡郷名は,好(よ)き字を著(つ)けよ。
其(そ)の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物は具(つぶさ)に色目を録し,
及び土地の沃瘠(土篇),山川原野の名号の所由,また古老の相伝ふる旧聞異事は史籍に載せて言上せよ」

これらは,宣命という形式の文章だ。
「そういうことで,風土記が作られることになった」と言いたいわけであるが,またそう言わざるを得ないのだが,
ここでもやはり「風土記」という言葉が1回も出て来ないということに,もっと注目してもいいだろう。
(国分寺と,同じパターンなのだ)

では,「風土記」という言葉の初出はいつのことなのだろうか。
それが,なんと!約200年後のことである。
914年,三好清行によってまとめられた「意見封事十二箇条」の中に出て来るのだという。

総じていえば,他の制度や書物とともに,九州王朝のスタートさせた事業を,
大和王朝は自分が始めたかの如く装って記録しているということだ。
地名も,「一字・三字 → 二字」に改定されたようで,
風土記の中には,三刀矢→三屋,伊鼻志→飯石,種→多禰,支自真→来島などの例があるそうだ。
「私たちは,ただ九州王朝の万葉仮名で音を当てているだけではなく,
意味のある〈二字に揃える〉という美的改善をしましたよ」と自慢しているのだろうか。

最初に誰がやったか分からないのに,自分が何か付け加えて,
あたかも昔から自分たちが始めていたように装う。
これは大和政権の常套手段で,これまでにも
「古代日本ハイウェー」「国分寺」など枚挙のいとまがないほどだ。
(古事記→日本書紀,九州年号→大和年号,評制度→郡制度,大嘗祭,式年遷宮・・・)


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コメント

>畿内七道諸国の郡郷名は,好(よ)き字を著(つ)けよ。
>其(そ)の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物は具(つぶさ)に色目を録し,
>及び土地の沃瘠(土篇),山川原野の名号の所由,また古老の相伝ふる旧聞異事は史籍に載せて言上せよ」
畿内七道諸国の郡郷名は,好(よ)き字を著(つ)けよ。

「其(そ)の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物
土地の沃瘠(土篇),山川原野の名号の所由,古老の相伝ふる旧聞異事」

このところが面白いですね。名前もこんな感じでつけられたのかと感心しました。


〇〇〇さんへ
コメントありがとうございます。

これまで,歴史・歴史でちょっと頭が固くなってきたので,
地理方面から行ってみることにしました。
脳にとってはなかなかいい方法かもしれません。

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