「おおざと」と「こざとへん」(2)
先日購入した『風土記から見る日本列島の歴史』をパラパラめくっていたら,
私が問題としている713年の宣命に「風土記」記載がないことはスルーしていたのだが,
「制度的には国ー郡ー郷ー里制になったのであるが・・・」という文章の「里」の字の横に,
小さい活字で「こさと」と振ってあった。
ということは,その直前の「郷」は当然「おおさと」ということになるだろう。
つまり,7世紀まで「国ー評ー里」だったのが,8世紀から「国ー郡ー里」とは
単純にはいかなかったらしいのである。
その一つの証拠に,例の713年の宣命にも「郡郷名に好字をつけよ」となっていて,
「郡里名に」ではないのであった。
九州王朝の「評」「里」は使わず,自前の「郡」「郷」を同じ発音だから使用させたかったのか?
ここで年表的に,整理してみたい。
700年まで・・・九州王朝の制度である「国ー評ー里」を使用
701年から・・・その後,ずっと大和王朝の「国ー郡ー里」と思っていたら,どうもそうではないらしく,
713年・・・「風土記」はなかった!(「郡郷名に好字をつけよ」の宣命)
715年・・・「里」の表記を「郷」にしようとした(「出雲風土記」にのみ記録されているらしい)
国ー郡ー郷(おおさと)ー里(こさと)
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【ウィキペディア=国郡里制】
※ 里は五十戸で構成された。その統率者が里長で末端行政を担った。
715年(霊亀元)に里は郷(ごう)と改称され、郷里制に変わった。
郷は2~3里に分かれ統率者は郷長であった。里には里正が置かれた。
740年(天平12)頃を境に里は廃止され郷制に移行した。
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なんだか,バタバタしているようだが,実はこの間「続日本紀」にも、別な形でバタバタが登場している。
3度に渡る「山沢亡命」記事である。
707年・・・「山沢亡命」記事(軍器)
708年・・・「山沢亡命」記事(禁書)
717年・・・「山沢亡命」記事(兵器)
政権は移り,評制は郡制になったとはいえ,
まだまだ九州王朝の残党が「山沢亡命」しているのが現実で,
それにともなって行政の表記も一定するまで時間がかかったということだろう。
これも九州王朝から大和王朝への政権変動があったからこそ起こった現象なのである。
この項ただ今勉強中なので,間違っていることがあったら教えて下さい。
(「九州王朝はなかった」というアドバイスは無視しますが・・・)
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