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2018年7月12日 (木)

講演会のためのシナリオと「映写物」第2次案

山田さんがご自身のサイトで,着々と
9月1日(日)の古代史講演会へ向けての努力をされている。
かくいう私は,なかなか「生木に火が付かない」という体で,
暑さにぐでぐでしている有様だ。

しかし,脳科学的に言って,あるいはパソコン作業的に言って,
「ちょっと作業を始めておくことが大切」というのは,私にもわかっている。
そこで,もうすでに『発見された倭京~太宰府と都城と官道』には掲載済みだが,
小見出しを書いてみることによって,少しでも予備作業をしておきたい。

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古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?

                             東京市 肥沼孝治

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道路というと,どんな道を思い出しますか?
自分の家の前の道でしょうか。それとも通勤で使う道でしょうか。あるいは,また,高速道路でしょうか。
さらにその道幅はどれくらいでしょうか。

江戸時代の旧箱根街道の絵が残されていまして,こんな感じです。

Photo

江戸時代の道がこれくらいの規模だと,古代ならもっと道幅が狭かったように思います。
実際古代道の研究者たちも「けものみち」程度のものと考えていたようです。
ところが,1970年台から実際に発掘されてきたのは,江戸時代の道幅の2倍もあるような,
しかもかなりの距離が直線的な,驚くべき官道だったのです。

Dscn2655

「これは東の上遺跡という,埼玉県所沢市立南陵中学校の校庭の改修工事の際発見された古代官道です。
東山道武蔵路の一部で,北は群馬や栃木に,南は武蔵国府のある府中に続いています。
あまりの衝撃的な発掘だったので,雑誌の表紙を飾ったわけです。

この道は南下して東村山駅の近くを通り,武蔵国分寺と国分尼寺の間を抜けて,
府中の武蔵国府あたりに至る訳です。
道路の道幅や直進性が建物の大きさと相まって伝わってくる写真です。

Dscn2722_2

Dscn2717

ところで,私はこれを〈古代日本ハイウェー〉と呼んでいますが,それは5年あまり前に観た
NHK・BS2の番組名から来ているのです。」

それがなんと,全国6300kmに渡って張り巡らされていた。現在でも6500kmといいますから,
何かそこになければ,1300年も前に作られることはなかった訳です。

Photo_2

これが古代官道の予想図だったのですが,実際には現代の高速道路網と同じような長さだったという訳です。

Dscn2690

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2012年(初回放送は2009年)NHK・BS2
「古代日本ハイウェー~1300年前の“列島改造”」

 【番組のあらすじ】

飛鳥時代から奈良時代にかけて総延長6300kmにも及ぶ巨大道路が使われていた。
その時代に、なぜこんな広い道が必要だったのか?どのようにして作ったのか?
一体どれだけの人が動員されたのか?1300年前の巨大なプロジェクトは謎に包まれている。
日本考古学協会の会員でもある俳優の苅谷俊介さんと
大学で古文書の解読を学んだタレントの大澤亜季子さんが、
古代日本のハイウエーの謎とその背後の歴史に迫る。

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これで「あとはこの番組の映像を視て下さい」というと私は楽なのですが,
このあとの山田さんの話につなげる役を果たさなくてはなりませんので,
私の書いた「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」について,
かいつまんで説明して,山田さんにバトンを渡そうと思います。

なお,私は「~軍用道路か?」と最後に疑問符を付けておりますが,私の題名の付け方の問題で,
ほとんど確かだと思うけど,あなたもそう思いませんか?という意味で使っています。
最初から道幅12mの直線的な道など,庶民にとっては必要ないものです。
第一作るのに大変な労力が要りますし,いつでも使えるように維持しおくのもこれまた大変です。
なので,ローマ街道や秦の時代の「馳せ道」のような「軍用高速道路」と考えていました。
私の近所にある「行政道路」と呼ばれる道も,横田基地と入間基地を,ほぼ南北で直線に結んでいます。

ただ,私の段階では,古代官道全体と言うより,東山道武蔵路を中心に考察した官道の意味で,
太宰府が中心地ではあるにしても,そこからどのように古代官道が結びついてくのか等については,
5年前の段階では考えていなかったことを告白しておきたいと思います。

たとえば,これは服部さんからアドバイスしていただいたのですが,
推古紀十六年に「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客」
と飾り騎75頭を連ねて唐客を出迎えたとあります。戦国時代の馬揃えのような光景です。
これを時代も国も違うのですが,兵馬俑でイメージしていただくとこんなふうになります。

Photo

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★太宰府と吉野ヶ里をつなぐ高速道路

軍隊を大量に高速で移動させるためには?幅広で直線(最短距離)

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★古代ハイウェーは廃棄された~吉野ヶ里遺跡の建設と廃棄

親魏倭王=「反呉倭王」である。

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★白村江の戦いと唐の占領軍の来日

占領軍の前には,倭国王墓はもちろん,水城や神籠石遺跡や古代ハイウェーが!

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★研究前史その1~狭山市に食い込んだ奇妙な土地の話

宝の持ち腐れだった2万5000分の1の地図

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★研究前史その2~灯台もと暗しの「東山道武蔵路」の授業

どうせ大和政権が奈良時代に作った道だろうという思い込み

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★「日本古代ハイウェーの建設と廃棄」の仮説

(1) 唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である
「日本古代ハイウェー」の建設を命じた。(7世紀半ば)

(2) 662年か663年白村江の戦いで倭国(九州王朝)が大敗北。

(3) 九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。
そして,律令制の衰えによって,地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)

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★古代史解明のヒントとして(おまけ)

それの起源がはっきりしていないのに,大和政権が改定したり,変更したり,廃棄したもの。
そのもともとの主体は,九州王朝ではないかと,疑ってみる必要がある。
(その一例が,「日本古代ハイウェー」で,その事例は他にもたくさんある)

古事記 → 日本書紀(続日本紀に「古事記」なし)
倭国風土記 → 大和風土記(713年の宣命に「風土記」なし)
倭国万葉集 → 大和万葉集(最初の勅撰和歌集は古今和歌集。雑から始まる)

評制 → 郡制(701年に[「郡制開始の詔」なし)
九州年号 → 大和年号(日本書紀の3つの年号「改元」と続日本紀の701年の大宝「建元」)
国府寺? → 国分寺(741年の国分寺建立の詔に「国分寺」なし)
         ※ これをきっかけに多元的「国分寺」研究サークルが始まる(2015年~)

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(武蔵国分寺・・・塔は南北軸なのに,金堂や講堂は7度西偏)


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

江戸時代の街道の幅を出していただいたことで、
古代官道はどうしてこんな幅が必要で直線なのだろうという疑問をさそい、
しかも現在の高速道に匹敵するほどの距離をつくっていたという驚きから、
その目的を考える導きの糸とする狙いは流石です。

これで「軍用道路か?」というテーマが明確になり、
私の「軍用道路だ」という断定に繋がりましたね。

ぜひPowerPointをつくってみてください。気づくことがありますよ。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

視覚的にいろいろな時代を比べられる良い,
というのは服部さんにアドバイスいただきました。
あと,服部さんからのアドバイスで,時代も国も違うのですが,兵馬俑の写真を入れようかと思っています。

〉 推古紀十六年に「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客」
と飾り騎75頭を連ねて唐客を出迎えたとあります。戦国時代の馬揃えのような光景です。
この記事より、倭国でも(始皇帝の兵馬俑にあるような)兵士の隊列行進がイメージできます。
こういう絵も肥沼説へ当然のように導くに有効かと思います。(服部さんのメールより)

ある程度進んだら,今度は関係の薄い部分のそぎ落としもするつもりです。

肥さんへ

兵馬俑の写真、すばらしいですね。推古紀十六年の情景をほうふつとさせます。

時代も国も違いますが、中央集権的軍用道路の始原は秦の始皇帝の「馳道・直道」からと考えられますので、「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」には相応しいというかびったりなことがらですね。

わたしへのバトンタッチが「いたれりつくせり」になっています。ありがとうございます。

肥沼さんへ
 東山道武蔵路の写真を使われるのなら、国分寺市教育委員会発行の「古代道路を掘るー東山道武蔵路の調査成果と保存活用」という冊子が良いと思います。遺跡の全体写真(今の建物も写っていて巨大な幅がわかる)や現在の保存地区の写真もあって、はば12mの巨大官道のイメージがくっきりすると思います。武蔵国分寺資料館で売っています。2017年3月刊です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

兵馬俑は1人ひとりが個性がありすぎて,アップだとなかなかいいものがありませんでした。
しかし,軍団として写っているものが見つかったので採用することにしました。
それを山田さんにも賛成していただけてうれしいです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「古代道路を掘るー東山道武蔵路の調査成果と保存活用」は,
明日涼しいうちに買いに行ってみようと思います。(笑)
昼間あの炎天下の道をあるくのはいやですものね。

南陵中学校の写真の次に映し,「この道はその後,国分寺でも発見されました。
現在地下に保存され,地上には色違いのアスファルトで道と側溝を示してあります」
などと説明しようかと思いました。

肥沼さんへ
>南陵中学校の写真の次に映し,「この道はその後,国分寺でも発見されました。
現在地下に保存され,地上には色違いのアスファルトで道と側溝を示してあります」
などと説明しようかと思いました。

 これが良いと思います。
 少ししつこいですが、東村山駅のそばからも同様の幅の道がでていることを、「瓦塔のある風景」の中にある写真を使って説明すれば、武蔵国府のすぐ北側とそこから東村山・所沢と各地に道路のあとが出土していることがわかり、これに東山道武蔵路全体の地図を合わせて提示すれば、単なる連絡路にすぎないのにこれほど大規模な道路であることが理解できると思います。
 となる主要幹線道路である東山道や東海道などはどんなものであったかと想像が膨らむと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 少ししつこいですが、東村山駅のそばからも同様の幅の道がでていることを、「瓦塔のある風景」の中にある写真を使って説明すれば、武蔵国府のすぐ北側とそこから東村山・所沢と各地に道路のあとが出土していることがわかり、これに東山道武蔵路全体の地図を合わせて提示すれば、単なる連絡路にすぎないのにこれほど大規模な道路であることが理解できると思います。

確かにしつこいですね。(笑)
ただ,せっかく出すのですから,出すべき場面で出すのが効果的かとも思います。
やってみましょうかね,三連発の東山道武蔵路。

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