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2018年7月28日 (土)

さらに大収穫の「ふるさと府中歴史館」

昨日も上記の歴史館に行って,調査書のコピーを取った。

最初に「作戦会議」。
どうも当初狙いを付けた幸町は遺跡が乏しい。
道の様子からしても,ここが国府というには無理そうだ。
そこで,もっと武蔵国分寺に近い栄町や新町を探してみたらどうか
と言うことになった。

そこで,栄町をリストアップしてきた川瀬さんのパソコン検索力と
多元的「国分寺」研究の際鍛えた私のコピー取り力(?)を合体させ,
7つの遺跡の報告書をゲットすることが出来た。

Dscn2888

特に上段中央の「栄町二丁目アパート」「栄町第二アパート」の報告書が
期待出来そうで,今後が楽しみだ。

Dscn2891

周囲を外堀(深さ1.8m)で囲まれている建物がありそうで,ワクワクする。
また,出土している渡来銭は平安時代(1000年代)のものなので,中世というより古代だし,
「こんなところに国衙があるはずがない」という思い込みが
「寺院集落」というまとめ方をさせているのではないかと思った。
府中の教育委員会では,中世以降のものと判断しているようで,
まずはそれを突破しないといけない。

次回は来週水曜日ということで,私は名古屋に行っている日なので
川瀬さんにコピーをしておいていただくことになる。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 昨日もお疲れ様でした。やはり二人だと早いですね。一人が報告書を確認してどこをコピーとるか選び、もう一人がコピーする。
 わずか2時間で(最初に前回のまとめをしたので実質は1時間半)で、欲しかった16の報告書のうち13個を確認(うち6個は国分寺関連遺跡の報告書なのでここにはなかった)、7個をコピーした。残りは3個。この3個の中に国分寺参道口の発掘報告書がある。
 この3個の最後の報告書は、東京都府中市栄町2-21-22の遺跡で、肥沼さんが注目した2つの遺跡(「栄町二丁目アパート」「栄町第二アパート」)の北側で、東八道路に面したところ。ここからは「柱穴5」が出ているので掘立柱建物かもしれませんんね。期待できます。
 ただ「栄町二丁目アパート」遺跡の東側にある深さ1.8mほどの溝(幅は3mほど)ですが、区画溝と考えてみて、国分寺の区画溝や、大国魂神社東官衙遺跡(いわゆる国衙遺跡)周辺の区画溝と比べてみると形状が違います。
 区画溝はU字型ですが、この溝はV字型です。
 そしてこの溝に向かって西側から東西方向の何条かの浅い溝が(10m間隔)溝に接続しています。この風景どこかで見たなと思ったら「よみがえる古代武蔵国府」のP96にある古代の畑のあととそっくりでした。こちらは大溝も浅く、接続する浅い溝が1m間隔と狭く、古代の畑と判断されています。
 とするとこのV字型の大溝とここに接続する浅い溝は水田ではないでしょうか。このV字型の堀は「薬研堀」と呼ばれるもの。
 この遺跡の場所を参謀本部が明治13年に作成したこの付近の地図と照らし合わせてみました。
 この遺跡のすぐ西側にある都立府中高校の場所は水田でその東側に水路付の道が北の国分寺村から伸びている。その東側のこの遺跡のある場所も林となった場所ですが南側の道路(横海道)の南側にこの遺跡の溝と同じ傾き(真北に対して西に10度)の水路と思しきものがありますので、明治以前にはこの水路が道路を超えて北側の地にも伸びていた可能性がありますね。
 ということで「栄町二丁目アパート」の遺跡地は屋敷地ではなく水田。
 そしてそのずっと東にある「栄町第二アパート」の地とその道路を挟んだ東側の明星高校の地は、明治13年の地図では「林」になっていますが、この林にもいく筋かの水路が南北に通っていますので、ここも畑か水田ではないでしょうか。ここからは中央のN字状にまがった溝から17世紀前半の志野焼の平椀がでているのでこの溝の年代下限を近世初期としたものです。始まりを特定できる遺物はここからは出ていません。
 二つの遺跡の年代は発掘報告書では「中世後期から近世初」としていますが、始まりはもっと遡っても良いと思います。
 報告書の年代観は、大溝から出た銅銭で、その中の一番新しいのが中国明の永楽通宝(初鋳1408年)だから中世後期としたわけ。でも一番古い銅銭は皇宋通宝です。これは中国北宋の貨幣で初鋳は1038年。あと二つ出ていた元豊通宝も北宋の貨幣で1078年の初鋳。
 これなら中世初期、平安時代末です。
 この皇宋通宝はたしか東村山の東山道武蔵路遺跡から出土していますね。つまりまだ武蔵路が11世紀には生きていた証拠です。
 この年代にこの大溝は存在した可能性があります。
 ですからこの大溝は少なくとも平安時代末にはすでにあり、中世を通じて存在した。
 そして年代下限の近世初は、志野椀が出土したからです。

 そしてこの大溝から出た布目瓦が国分寺使用のものと判断されたのは、平瓦の布目が付いた裏側に「荏」の字が刻印されていたのが理由。つまり「荏原郡」で焼かれたということで、国分寺には武蔵の国の多くの郡で焼かれた瓦が集まっていたから、国分寺で使用した瓦と判断したのだと思います。
 ただ武蔵国の各郡で焼かれた瓦が集まった場所はもう一つ、大国魂神社東遺跡(いわゆる武蔵国衙遺跡)あります。
 だからこの大溝から出た文字瓦はこれだけでは国分寺使用瓦か国府使用瓦かは特定できません。

 ということでこの「栄町二丁目アパート」「栄町第二アパート」遺跡の性格は畑か水田であり、年代は平安末から江戸初と判断できます。
 ただしこれで国府がこの付近にあったという仮説が否定されたわけではないです。
 文字が刻印された布目瓦。これが国府のものなら近くに国府遺跡が眠っている可能性がまだ残されています。
 まだ確認していない最後の報告書「 武蔵国府の調査44」所収の武蔵国分寺跡・関連遺跡第1513次調査の柱穴5個を確認してから結論を出そうと思っています。

追伸:印象としては栄町2丁目付近に国府があったとの想定は薄まりました。やはり府中刑務所とその南側の晴見町が有力です。この町と東山道武蔵路を挟んだ西側の地、今は東芝町となっているところは、江戸時代の字でいうと「拷掛」であり処刑場がかつてあった場所です。しかしその年代は江戸時代ではありえないと思います。国分寺村からも府中宿からも数キロ離れた人里離れた田んぼと林の地。ここの処刑場を置いて見せしめとして囚人の遺体をさらす意味もありません。はやりここに処刑場があったのは古代ではないでしょうか。
 したがって東山道武蔵路を挟んだ反対側の晴見町は国府の有力候補地です。
 昨日お話しした、国府と道路の接続関係を他の国府で確認してみようと思っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この3個の最後の報告書は、東京都府中市栄町2-21-22の遺跡で、肥沼さんが注目した2つの遺跡(「栄町二丁目アパート」「栄町第二アパート」)の北側で、東八道路に面したところ。ここからは「柱穴5」が出ているので掘立柱建物かもしれませんんね。期待できます。

そうであることを,祈っています。

〉  ただ「栄町二丁目アパート」遺跡の東側にある深さ1.8mほどの溝(幅は3mほど)ですが、区画溝と考えてみて、国分寺の区画溝や、大国魂神社東官衙遺跡(いわゆる国衙遺跡)周辺の区画溝と比べてみると形状が違います。
 区画溝はU字型ですが、この溝はV字型です。
 そしてこの溝に向かって西側から東西方向の何条かの浅い溝が(10m間隔)溝に接続しています。この風景どこかで見たなと思ったら「よみがえる古代武蔵国府」のP96にある古代の畑のあととそっくりでした。こちらは大溝も浅く、接続する浅い溝が1m間隔と狭く、古代の畑と判断されています。
 とするとこのV字型の大溝とここに接続する浅い溝は水田ではないでしょうか。

えーっ,あんなに大規模な区画溝が,田畑のものだとは・・・。ちょっと信じられません。
1.8mと言えば,大の男がすっぽり入ってしまう深さですから。
国衙後はまた,7月の土用のうなぎのように,するりと私たちの手から逃げていきましたか・・・。

〉 したがって東山道武蔵路を挟んだ反対側の晴見町は国府の有力候補地です。

こうなったらもう,「母を訪ねて三千里」じやなくて,「国衙を求めて三千里」。(笑)
まだ可能性のある晴見町へと歩みを進めることにしましょう。

肥沼さんへ
>えーっ,あんなに大規模な区画溝が,田畑のものだとは・・・。ちょっと信じられません。
1.8mと言えば,大の男がすっぽり入ってしまう深さですから。

 私の家の横に江戸時代初期に掘られた田畑に水を供給するための用水路があります。今は洪水を出したので(50年前)拡幅されて深く掘られてコンクリートで補強されましたが、昔は幅は3mほどで深さは2mほどだったと聞いています(いまでも深さは3mほど)。
 二ケ領用水新川です。我が家に来るときは久地駅からこの用水沿いの道をあるきますね。
 江戸時代初期でも用水の幹線はこれくらいの規模があったのです。この幹線水路から蜘蛛の巣のようにもう少し細くて浅い水路が田んぼや畑の間をめぐらされていました。
 用水路の規模を侮ってはいけないと思います。

>こうなったらもう,「母を訪ねて三千里」じやなくて,「国衙を求めて三千里」。(笑)
まだ可能性のある晴見町へと歩みを進めることにしましょう。
 いやいやまだ栄町をあきらめたわけではないですよ。
 柱穴が5つ見つかった遺跡が少し北にある。これは大きいですよ。

 そして晴見町はまったく調査されていないのでヒントとなる遺構がないことを念頭に置いてください。せいぜい状況証拠しかありません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 私の家の横に江戸時代初期に掘られた田畑に水を供給するための用水路があります

水田の「区画を作る溝」と思ったので驚きましたが,「用水路」ならわかります。
水田を作るためにわざわざ掘ったのかと思ってしまいました。
じゃあ,用水路なら畑ではなくて水田なのでしょうね。

〉 いやいやまだ栄町をあきらめたわけではないですよ。
 柱穴が5つ見つかった遺跡が少し北にある。これは大きいですよ。

どういう配置で,柱穴が並んでいるのでしょうか。
道路沿いに掘立柱建物があったということですかね。

〉  そして晴見町はまったく調査されていないのでヒントとなる遺構がないことを念頭に置いてください。せいぜい状況証拠しかありません。

「千里の道も一歩から」ということですかね。

肥沼さんへ追伸
 報告書の精査の続きです。
 「栄町アパート」遺跡のV字型の大溝の年代。中世末期からと報告書が結論付けた理由がわかりました。平安時代末から室町時代中ごろの、つまり北宋から明の時代の銅銭の出土状態が理由でした。
この銭5枚は大溝の底の方からほぼ固まって出土しているので、ほぼ同時に埋納されたと報告書は見ているのです。だから一番新しい永楽銭の年代で時代を判断したわけです。
 となるとやはりこの大溝の年代を平安末にあげることは無理ですね。
 薬研堀という堀も中世末から近世のものですので。
 ということで栄町の二つのアパート建設で見つかった遺跡は、中世末から近世にかけての水田と畑の遺構と結論づけて良いと思います。

 それより別の報告書で気になるものを見つけました。「メゾンKAWAI地区」。
 この最後のまとめの所にこの付近の発掘一覧地図があるがここにいくつも気になるものが。
1:1045次の門柱状遺構が出た遺跡のすぐ南にある821次。ここにも道路遺構があるようですが、その道路の向きです。ほぼ南北を向いている。1045次の道路は西に7度傾いたもので、これは西に7度傾いた金堂を中心とする伽藍に対応しています。ではこの南で見つかったほぼ北を向いた道路は何に対応したものなのでしょうか。もしかして真北向きの塔を中心とした創建伽藍に対応したものではないのか。とすると創建伽藍があった時代の国府は、この寺の真南にあって、この道路はこことの連絡路ではないのか。こうした疑問が出てきます。
 いま発見されている国分寺参道は西7度の金堂を中心とした伽藍ができたときに国府との連絡路としてできたもの。したがって創建伽藍の時代の国府の場所を推定するには使えないのではないか。
 以上考えてみると、国府は最初の想定の府中刑務所付近。晴見町となります。
 この遺跡を確認してみます。
2:同じくこの地図には南北・東西向きの溝がいくつも出てきます。右の方の344次とすぐ南の遺構の南北溝。Aとあるのは514次の都営アパート建設の時のでしょうか。530次・523次のすぐ北にも南北と東西の水路にかもまれた区画があります。そしてこれは東山道武蔵路付近にも。145次には東西と南北が組み合わさったLの字型の水路も。
3:さらに南北向きの掘立柱建物が145次の左隅に。

 栄町2-21-22の柱穴5個が出ている1513次の遺跡とともに確認してきます。

川瀬さんへ
追伸コメントありがとうございます。

〉 それより別の報告書で気になるものを見つけました。「メゾンKAWAI地区」。
 この最後のまとめの所にこの付近の発掘一覧地図があるがここにいくつも気になるものが。

〉 栄町2-21-22の柱穴5個が出ている1513次の遺跡とともに確認してきます。

はい,よろしくお願いいたします。
「塔はほぼ南北なのに,主要伽藍は西偏7度」という
多元的「国分寺」研究との絡みも出て来て,望みがまたつながりましたね。

8月1日の調査報告です。

1:栄町2-21-22の柱穴5個が出ている1513次の遺跡
 たしかに柱穴なのだが、間隔は等間隔でもなく、発掘範囲が狭すぎで何の柱穴なのか判明せず。しかも年代を判定できる遺物もない。土層は古代。

2:1045次の門柱状遺構が出た遺跡のすぐ南にある821次。
 たしかに南北方向の道路であるが、年代を表わす遺物なし。土層はたしかに古代のもの。そして真北にある1045次の調査区域にはこの道路の延長と思われる遺構がないので、途中で曲がっている可能性。国分寺創建伽藍時代の参道跡という想定は外れです。

3:344次とすぐ南の遺構の南北溝。
 すぐ南のAとある遺跡は環状八号道路建設の遺跡。344次の南北溝もAにある溝も堆積土層から古代のものであることは確かだが、年代を示す遺物なし。

 以上栄町の遺跡を調べましたが、ここに国府・国庁があった痕跡は皆無。
 やはり国庁候補は府中刑務所を含む晴見町。ここは江戸時代の小字は「木刈道末」と「木刈道」。雑木林の地帯で、畑の堆肥のための落ち葉や薪にする枯枝をとる場所。ここは平坦な土地だが、晴見町の南部は「小久保」「天久保」「雨久保」という窪地。1045次の参道口がでた遺跡調査報告書には、晴見町の南側には谷状の窪地があると書いてあった。国分寺尼寺からの参道は農工大を通る谷状窪地に沿っているのだが、その窪地の南側にもさらに谷状窪地がある。
 ということはおそらく晴見町の中の平地部分、すなわち府中刑務所のある晴見町三丁目ととなりの四丁目、さらにその南の一丁目と二丁目の北部が先にみた「木刈道」「木刈道末」にあたり、ここなら方500mほどの国庁ならすっぽりはいります。
 でもここはまったく掘られていないので直接証拠は見つかりませんね。

 武蔵国府は今の大国魂神社東官衙遺跡ではなくその北の南北道路の先にあるという私の仮説を証明するために、その道路の先の幸町・栄町を探索しましたが、ほぼ空振り。当初の想定の晴見町しかないことが確定しました。

追伸:1045次の参道口がでた遺跡調査報告書を精査してみると、門柱遺構の穴のそこには国分寺で使用した丸瓦と平瓦が土止めとして入っていた。分類してみると、国分寺創建期と再建期の瓦が入っていたということで、この門柱遺構の成立年代を平安時代9世紀以前としていました。つまり国庁への連絡路が南に延びるのではなく、東南に延びて大国魂神社東官衙遺跡前に延びる南北路につながっているということは、すでに平安時代9世紀には国庁は国分寺の真南の晴見町付近ではなく、もっと南の大国魂神社東官衙遺跡、つまり多摩郡衙周辺に移っていたということです。
 もっともこの年代は国分寺創建を741年以後とし、再建を塔が焼けたあとの再建記録に基づいたものですから、瓦の編年が変われば変化します。
 確実なことは、金堂を中心とする国分寺伽藍ができたときにはすでに、国府・国庁は国分寺伽藍の真南の晴見町付近にはなく、ずっと南の多摩郡衙付近に移っていたということです。
 国分寺瓦の編年の再検討をやってみて、この年代を確定したいと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  武蔵国府は今の大国魂神社東官衙遺跡ではなくその北の南北道路の先にあるという私の仮説を証明するために、その道路の先の幸町・栄町を探索しましたが、ほぼ空振り。当初の想定の晴見町しかないことが確定しました。

それは残念でした。でも,「当初の想定の晴美町」が浮かび上がってきたとも言えますね。

〉 確実なことは、金堂を中心とする国分寺伽藍ができたときにはすでに、国府・国庁は国分寺伽藍の真南の晴見町付近にはなく、ずっと南の多摩郡衙付近に移っていたということです。
 国分寺瓦の編年の再検討をやってみて、この年代を確定したいと思います。

移動した理由は,「窪地」ということもあったのでしょうか。先日の水田の用水路の規模を考えると,
湿地帯のようになってしまうのではないかと考えました。
国分寺瓦の編年の再検討がうまくできるといいですね。

肥沼さんへ
 
 私が国府・国庁の場所として挙げた晴見町ですが、南部の江戸時代の字でいうと小久保口とか天久保とか雨久保は窪地で、ここには西から東南にむく縄文時代の埋没谷が存在していたようなので、国府・国庁建設地として不向きですので外してあります。だから晴見町1・2丁目ではなく、府中刑務所のある晴見町3丁目とその東の4丁目。

 ところで再度1066次調査のメゾンKAWAI地区の報告書にある周辺調査区の地図を見ていたら、大きな発見がありました。結論から言うと「国庁」あとではないかと思える遺跡が。
 それは、東山道武蔵路のすぐ東100mのところにある第145次の遺跡。遺跡の西北の端に南北棟の大きな掘立柱建物の南半分があり、それを囲むように南に東西の溝、東に南北の溝があります。この溝に対応するものがないか見ていたら、その北の東八道路遺跡のB地区に東西の溝があった。これらの溝を一体のものと仮定すると、東山道武蔵路をその西側の区切りとする、東西100m南北100mの方形の区画が浮かび上がり、先にみた掘立柱建物はその中央東北よりに南北に建っている。南北の長さは20mほどでしょうか。とするとその西側に同規模の南北20mの掘立柱建物がちょうど空白域に入り、さらに両者のさらに北側に東西20mほどの掘立柱建物を想定することが可能です。つまり南面したコの字型の建物群。
 これ国庁あとではないでしょうか?
 そもそも国府は幹線道路に沿って作られるはず。
 武蔵の場合はそれが南北路だ。ということは東山道武蔵路に接してすぐ東側か西側に作られるはず。もしかしたら両側に官衙が建設されて、東山道武蔵路は武蔵国府の中を南北に通っていたかもしれない。
 この145次遺構を見ているとそんな姿が想像できます。
 この頭で福田さんの著書『鎮護国家の大伽藍 武蔵国分寺』のP56・57の地図を見ていると、この想定国庁は武蔵国分尼寺と武蔵国分寺の南側の寺院地区画溝が東山道武蔵路に接した地点からおよそ150m南の地点だった。区画溝には当然道が付随していたはず。ということはもしかして、この寺院地区区画溝は武蔵国分寺創建伽藍から国庁に至る道であったかもしれません。塔1の南側にまっすぐ南に延びる古い道があるので、ここがこの道に接続していたかも。
 こう考えると国庁は国分寺創建伽藍の西南にあたる。
 さらにこの地図をよく見ると、145次遺構の東山道武蔵路を挟んだ西側にほぼ正方形をした正倉と思われる掘立柱建物群が見える。場所は府中市武蔵台だ。
 つまり国庁の西側、200mほど離れた高台に国府の正倉が作られ、東山道武蔵路を中央に挟んだこの国庁と正倉も含めた東西600mほど(おそらく南北も同規模)が武蔵国府だったのではないでしょうか。
 こう考えると先に見た、参道口遺跡のすぐ南にある821次の遺跡の南北道。ちょうど東山道武蔵路から東に300mの所にあります。もしかしたら武蔵国府の東限の道のあとであり、北側の参道口遺跡の地ではこの道の延長が見られないのは、すでに国庁が放棄されたあとなので、この南北道も削平されていたのかもしれませんね。

 栄町三丁目の145次遺跡と、この正倉と思しき武蔵台の遺跡を再度確認に行ってきます。
 武蔵国府は私の想定よりも少し北にあったのかもしれません。
 つまり栄町三丁目から晴見町三丁目にかけての地域がその東部。江戸時代の小字でいうと「横海道」と「国分寺前」「木刈道末」の地域です。
 例の「拷掛場」はその「横海道」のすぐ南側。「木刈道末」の西南にあたります。

 東八道路のすぐ南側の、東山道武蔵路の左右の遺跡を精査する必要がでてきました。
 来週の金曜日にまた府中ふるさと歴史館に行ってきます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ところで再度1066次調査のメゾンKAWAI地区の報告書にある周辺調査区の地図を見ていたら、大きな発見がありました。結論から言うと「国庁」あとではないかと思える遺跡が。
 それは、東山道武蔵路のすぐ東100mのところにある第145次の遺跡。遺跡の西北の端に南北棟の大きな掘立柱建物の南半分があり、それを囲むように南に東西の溝、東に南北の溝があります。この溝に対応するものがないか見ていたら、その北の東八道路遺跡のB地区に東西の溝があった。これらの溝を一体のものと仮定すると、東山道武蔵路をその西側の区切りとする、東西100m南北100mの方形の区画が浮かび上がり、先にみた掘立柱建物はその中央東北よりに南北に建っている。南北の長さは20mほどでしょうか。とするとその西側に同規模の南北20mの掘立柱建物がちょうど空白域に入り、さらに両者のさらに北側に東西20mほどの掘立柱建物を想定することが可能です。つまり南面したコの字型の建物群。
 これ国庁あとではないでしょうか?
 そもそも国府は幹線道路に沿って作られるはず。
 武蔵の場合はそれが南北路だ。ということは東山道武蔵路に接してすぐ東側か西側に作られるはず。もしかしたら両側に官衙が建設されて、東山道武蔵路は武蔵国府の中を南北に通っていたかもしれない。
 この145次遺構を見ているとそんな姿が想像できます。
 この頭で福田さんの著書『鎮護国家の大伽藍 武蔵国分寺』のP56・57の地図を見ていると、この想定国庁は武蔵国分尼寺と武蔵国分寺の南側の寺院地区画溝が東山道武蔵路に接した地点からおよそ150m南の地点だった。区画溝には当然道が付随していたはず。ということはもしかして、この寺院地区区画溝は武蔵国分寺創建伽藍から国庁に至る道であったかもしれません。塔1の南側にまっすぐ南に延びる古い道があるので、ここがこの道に接続していたかも。
 こう考えると国庁は国分寺創建伽藍の西南にあたる。
 さらにこの地図をよく見ると、145次遺構の東山道武蔵路を挟んだ西側にほぼ正方形をした正倉と思われる掘立柱建物群が見える。場所は府中市武蔵台だ。
 つまり国庁の西側、200mほど離れた高台に国府の正倉が作られ、東山道武蔵路を中央に挟んだこの国庁と正倉も含めた東西600mほど(おそらく南北も同規模)が武蔵国府だったのではないでしょうか。

おーっ,ついに武蔵国府跡の姿が現れてきましたね!

〉 東八道路のすぐ南側の、東山道武蔵路の左右の遺跡を精査する必要がでてきました。
 来週の金曜日にまた府中ふるさと歴史館に行ってきます。

来週の金曜日と言うと,10日ですね。
こうなったら,私もお供しますよ。

肥沼さんへ

 では10日の日。よろしくお願いします。私が歴史館に行けるのは午後2時半ごろです。
やることは
1:145次遺跡の発掘報告書を確認する。これは1045次の参道遺構についての報告書(「武蔵国分寺跡調査報告6」)に周辺遺跡の一覧があり、そこにどの報告書綴りにあるのかなどがまとめられている)。
2:武蔵台遺跡群の中の武蔵台一丁目の遺跡を中心に、正倉群の状況を確かめる。
の二つです。
 奈良文化財研究所の報告書抄録テータベースでみると「武蔵台」遺跡群の報告書は30ありました。その中から縄文時代や中世の遺構の報告書を除き、歴史時代(奈良平安時代)の遺跡群の発掘報告書10数個を抜いておきましたので、この中の掘立柱建物がある遺跡を中心に報告書を確認したいと思います。
 それにしても福田さんの著書の地図を見ると、武蔵国分寺の周りには、いくつもの正倉群と大型の掘立柱建物群があることがわかります。
 国分寺の西側の武蔵台二丁目付近。国分寺の北側泉町付近(ここは「駅屋」かもと言われている恋ヶ窪遺跡の東側です)。さらに国分寺の北東側にも。
 そしてなんと想定国庁のすぐ北側の東八道路の真ん中に20mは越す大型の掘立柱建物が一つ。この南北軸は、国分寺金堂などと同じ真北に西7度西偏。
 気になる遺構群だらけですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

了解いたしました。


〉  そしてなんと想定国庁のすぐ北側の東八道路の真ん中に20mは越す大型の掘立柱建物が一つ。
この南北軸は、国分寺金堂などと同じ真北に西7度西偏。
 気になる遺構群だらけですね。

この掘立柱建物の存在は,とても大きな発見のはずなのに,
「ここに国府があったという意識」がないと,
「なんでこんな国府と離れたところに大きな建物があるのだろう」ということになってしまうのでしょうね。
また,武蔵国分寺(金堂以下の主要伽藍)と府中熊野神社古墳の間にも「西偏7度」があるということは,
一時は「西偏7度の町づくり」が行われていた時期があったということなのでしょうね。
武蔵国分寺の「西偏7度」から始まった私たちの古代史の旅は,
また「西偏7度」に再会する時を迎えました。(o^-^o)

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