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2018年7月10日 (火)

古事記と日本書紀の「日本武尊の東征経路」

文字では書かれていても,なかなか地図でイメージしにくい
古事記と日本書紀の「日本武尊の東征経路」。
どこで「吾妻アヅマ~」と呼んだかで,イメージも大きく変わってくる場面は,
やはり地図入りでないとね。

和田明美著『古代東山道・園原と古典文学』愛知大学綜合郷土研究会ブックレット,800円+税
という本に,『静岡県史 通史編1 原始・古代』「大和武尊東征経路」として引用されていた。

青い古事記での経路は,赤い日本書紀の経路に拡大されたのだろう。
おそらく九州王朝系の史料の入手によって。

そして,和田さんの指摘によると,
「古事記は東海道をアヅマ,日本書紀は東山道をアヅマと考えていたのではないか」
とのことだ。

その成否はわからないが,もし九州王朝系の史料に東山道の説話などが出ていたとしたら,
「東山道は九州王朝が作った古代日本ハイウェーである」という証拠になるのではないかと思った。

古事記の場合の改訂版

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コメント

肥さんへ
『古事記』では浦賀水道を渡り上総・下総・常陸・甲斐・科野となっていますが、水色の線が千葉に行ってないようですが・・・浦賀水道を渡った個所は次のようにあります(岩波文庫版です)。

自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后、名弟橘比賣命白之、妾易御子而入海中。御子者、所遣之政遂應復奏。將入海時、以菅疊八重、皮疊八重、絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
  佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母(二五)
故、七日之後、其后御櫛依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

本当ですね。地図に線が入っていませんね。
本文には「→上総→蝦夷→相模」と出ていたので,
原図の間違いをそのままコピーしてしまったということですね。
そして,私もそれを再コピーしてしまいました。(。>0<。)

肥沼さんへ
 「古事記」の、浦賀水道を渡ったあと、七日後に弟橘比賣命の櫛が流れ着いたという海辺は、現在の川崎市高津区橘にある橘樹神社付近だと言われています。つまり当時は東京湾がもっと北に入っていて、多摩川河口は、高津区溝口付近にあったのではないかと考えられています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

当時と今では海岸付近の地形は,かなり違っているでしょうね。

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