皇宋通宝
郷土研究会のОさんの資料の中に,
「皇宋通報」という渡来銭らしきものが出てきた。
東村山駅近くの東山道武蔵路から発掘されたという話だった。
「皇宋通宝」
http://tragan.lolipop.jp/hokusou/hokusou/kousou.htm
平安時代の後半に輸入された渡来銭のようで,
東山道武蔵路の建設とは関係ないが,
平安時代にもこの道が使われていた証拠にはなるだろう。
もっともその頃は,道幅も12mよりかなり狭くなっていたと思われるが・・・。
ちなみにコイン屋さんでの販売価格は,200円ほど。
これでも1000年前の古いお金なのだが,
それだけ大量に使われたということなのだろう。
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肥沼さんへ
「皇宋通宝」。初めて知りました。こんな名前の通貨があったのですね。
ネット検索してみると、日本で出てくる渡来銭の第一位が皇宋通宝なんだそうです。
http://nippon.nation.jp/COIN/Toraisenn/1to10/1to10.htm
なんと一番よく知られた「永楽通宝」はなんと第六位。この明銭よりも上に唐銭の「開元通宝」が第五位と上にあり、そしてその上の第四位から第一位が全部「宋銭」とは。
つまり宋の時代が一番日中貿易が盛んであったということであり、日本が大量の貨幣を必要とした時代であったということでしょうね。
宋時代とは、960年~1126年。宋が金に滅ぼされた翌年1127年南京に南宋成立。1279年に南宋が元に滅ぼされる。
第一位から第四位の宋銭が作られたのは、
第1位 皇宋通宝(宋銭):1039年―後朱雀朝 藤原頼通の時代。
第2位 元豊通宝(宋銭):1078年―白河朝
第3位 熈寧元宝(宋銭):1068年―後冷泉朝 藤原教通の時代。
第4位 元祐通宝(宋銭):1086年―堀川朝
平安末期のいわゆる院政期。このあとが平家の時代です。ここが一番日中貿易が盛んで、日本に大量の宋銭が輸入され通用した時代なのですね。武士の時代は銭の時代でもあったのだ。
興味深いことを教えていただきました。
投稿: 川瀬 | 2018年6月15日 (金) 11:44
追伸です。
同じサイトの別の項目。
http://nippon.nation.jp/COIN/Toraisenn/index.htm
ここを見ると、出土した渡来銭の総数は353万枚。その77%が宋銭だそうです。参考文献は、鈴木公雄著『銭の考古学』と。
興味深いです。
投稿: 川瀬 | 2018年6月15日 (金) 11:49
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
「もしや古い時代の銭か!」と期待したのですが,
残念ながらそうではありませんでした。
しかし,第一位とは驚きです。
「平家物語」に詳しい川瀬さんにも,
新知見を贈呈出来ましたね。
投稿: 肥さん | 2018年6月15日 (金) 12:16
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
面積グラフで表すと,こんな感じですね。
これを日宋貿易の授業の時に使いたかったですね。
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋宋宋宋
宋宋宋宋宋 宋宋〇〇〇
〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇
投稿: 肥さん | 2018年6月15日 (金) 12:33
肥沼さんへ
本当にありがとうございます。
清盛の時代以前にすでに日宋貿易がそれほど盛んになっていたのなら、平氏が博多と肥前神崎郡(おそらくここには吉野ヶ里遺跡のある港・吉野があるので、博多に嵐などで入れないときはこちらに船を回したのでは)を支配下に置いて膨大な利益を上げてこの金力を背景にして政界で伸して行ったという事実と、さらに日宋貿易を盛んにするために、福原の港を開き、途中の難所の瀬戸を開削し、さらにはその福原に都を移そうとしたということの歴史的背景がよく理解できました。
したがって鎌倉三代将軍実朝が鎌倉に港を作って宋船を呼び込もうとしたことの意味もよくわかります。
本当に日宋貿易の箇所で扱いたい事実です。『銭の考古学』。読んでみようと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年6月15日 (金) 23:17
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
Oさん → 肥さん → 川瀬さんの連携で,
今回は「皇宋通宝の再発見」ができました。
今後ともよろしくお願いいたします。
Oさんもこの「夢ブログ」の読者のお一人ですので,
喜んでいただけたと思います。
投稿: 肥さん | 2018年6月16日 (土) 00:32
肥沼さんへ
大事なことを一つコメントするのを忘れていました。
それは東山道武蔵路から発見された皇宋通宝の状態です。
前記のサイトをみると、皇宋通宝は「状態の良いものは少ない」とあります。つまり長期間使われて欠けたり文字が不鮮明になったりしたものが多いということです。
したがって発見された皇宋通宝が状態の良いものだったときは、この年代は輸入された時期に近い、平安末期か鎌倉時代になり、この時代まで東山道武蔵路が使用された証拠となります。逆に状態の悪いものだったときは、これは輸入されてかなり年代がたって通貨として長期間使用された後のものとなります。
たしか明銭の永楽銭が大量に輸入された背景には、数百年にわたって使用された宋銭が摩耗・破損して使用に耐えられなくなっていたことが背景にあったと思うのです。ということは宋銭は永楽銭が輸入される1500年代初めまでは使われたということになります。
ウィキペディアで永楽銭と引いてみると、関東では宋銭に代わって大量に使われたが、西日本では相変わらず摩耗した宋銭が使われたそうです。
ということはもし東山道武蔵路で発見された皇宋通宝が破損・摩耗したものであれば、その年代は下限としては室町時代まで下ってきて、この時代にもまだこの道は使用されていたとなります。
できれば東山道武蔵路で発見された皇宋通宝の状態を確認したいものです。
投稿: 川瀬 | 2018年6月16日 (土) 13:24
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
Oさんの資料によると,「平成12年,土方医院改築の際,地表下から幅12mの道路遺構や
銅銭「皇宋通宝」が発見された。」とありました。
東山道武蔵路の発掘調査の報告書にあたれば,出土状況が書いてあるかもしれませんね。
投稿: 肥さん | 2018年6月17日 (日) 00:02
肥沼さんへ
「東山道武蔵路 東村山」で検索をかけたら、この遺跡のことがありました。
https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/rekishi/furusato/tenji/h12/sinhakken4/tousandou.html
東村山市本町2-5とのこと。グーグルマップで見ると、東村山駅のすぐ北側の踏切のそばのようです。市教委の文化課にこの住所で「土方医院」をキーワードに聞いていると報告書の所在が分かると思います。
さらに東山道武蔵路から「皇宋通宝」が出たとの記録が記憶に有ったので調べてみたところ、『古代道路を掘る』国分寺市教育委員会2017年3月刊(国分寺資料館で購入)に、書いてありました。
西国分寺駅そばの、例の東山道武蔵路が保存されているところ(泉町二丁目遺跡)に出てきたと写真がありました。すごく文字もくっきりしたものでした。これも発掘報告書を見ればどこからどんな状態で出土したかわかりますね。
さらに「東山道武蔵路 皇宋通宝」で検索をかけたところ、埼玉県深谷市の幡羅遺跡の発掘報告書に、この銭が出ているとの記録がありました。この遺跡は幡羅郡衙あととみられ、大規模な正倉が出ています。この正倉遺跡のすぐそばの溝から出ていたと記録されていますが、この溝が何なのか考察が不明ですが、この幡羅郡衙のすぐ横を東山道武蔵路は通っているので関係があるかもしれません。
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/22/22504/1585_1_幡羅遺跡.pdf
以上東山道武蔵路に関係する遺跡三か所から皇宋通宝が出ていることがわかり、これらからこの道の終末期も推定できそう。東山道武蔵路に関する遺跡を全部調べてみれば、さらに検出されるかも。
また「古代道路を掘る」を読むと、この道の第四期(平安末に消滅か)は、幅9mの規模を持っていますが蛇行していて、当初のまっすぐの道が維持できなくなったあとは、地形にそって維持可能な場所に道が移された可能性が指摘されています。つまりのちの鎌倉街道が、もとは東山道武蔵路だったのでは?という推定です。
「東山道武蔵路 所沢」で検索すると所沢市下富の柳野遺跡(鎌倉街道堀兼道が通る場所)から2012年にこの道の跡が見つかったとの記事を見つけました。
http://michis27.main.jp/kakuchi/?p=499
東山道武蔵路の全遺跡を調べ踏破してみるのも面白いと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年6月17日 (日) 13:12
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
いろいろな場所で「皇宋通宝」が出土しているのですね。
それによって当時の状況も探れるのが素晴らしい。
柳野遺跡については,私も数年前に行ってきました。
所沢市から北の狭山市に向かうアンテナのような土地が,
(フラワーヒルと呼ばれる高級住宅街)
東山道武蔵路そのものだったということなのでした。
昔は「ユニークな土地が市境にあるね」なんて
ノーテンキなコメントを授業でしていたのですが・・・。
投稿: 肥さん | 2018年6月17日 (日) 13:55
肥沼さんへ
>柳野遺跡については,私も数年前に行ってきました。
所沢市から北の狭山市に向かうアンテナのような土地が,
(フラワーヒルと呼ばれる高級住宅街)
東山道武蔵路そのものだったということなのでした。
たしかこの話。夢ブログの中で読んだことがあると、記憶に残っていました。
投稿: 川瀬 | 2018年6月17日 (日) 17:30
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
発掘をした時に間に合わなくて,少ししてから行きました。
だから,5年前くらいかもしれません。
もう埋め戻されて,駐車場になっていましたが・・・。
投稿: 肥さん | 2018年6月17日 (日) 17:58