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2018年6月29日 (金)

筑前国分寺の塔も「二重基壇」

古賀さんの「洛中洛外日記」に観世音寺の塔の「二重基壇」の話が出ていた。
大越さんの考えに山田さんの発見をプラスすると,うまく筋が通りそうだとのこと。

さらに古代に九州王朝が建てた建物には「二重基壇」という特徴があるとすると,
これまた次につながる可能性が出て来る。

実は筑前国分寺の塔の基壇も「二重基壇」なのだそうだ。
もうすでに『国分寺の研究(西海道)』には出ている話だが,そのページを写真付きで紹介しておく。

(写真をクリックすると拡大します)

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古賀達也の洛中洛外日記
第1694話 2018/06/19
観世音寺古図の五重塔「二重基壇」

 5月25日に開催された東京古田会の講演会で、大越邦生さんが「よみがえる創建観世音寺」というテーマで、いくつかの重要な仮説を発表されました。その中でわたしが最も注目したのが、観世音寺の五重塔にはⅠ期とⅡ期の二つがあり、発掘調査で発見された礎石はⅠ期の上に再建されたⅡ期のものであり、Ⅰ期は更に大きな規模であったとされました。
 これは基壇の一辺が15mもあるのに、建物は一辺6mであり、両者のバランスがとれていないという構造上の問題点を根拠とした仮説で、考古学的出土事実に基づいた合理的な推定と思われました。他方、観世音寺の五重塔が再建されたとする史料はなく、発掘調査からも礎石などに再建の痕跡は発見されていません。すなわち、大越さんが提起された仮説を積極的に実証できる史料や出土遺構が見あたらないという問題がありました。
 ところがこの問題を解決できるかもしれない発見を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で発表されました。山田さんは、有名な「観世音寺古図」に描かれた五重塔を拡大して見ると、塔の基壇が「二重基壇」として描かれていると指摘されたのです。
 わたしもこの「観世音寺古図」を幾度となく凝視し、論文でも取り上げた経験があるのですが、この塔の「二重基壇」には気づきませんでした。正確に言えば、気づいていてもその持つ意味を理解していなかったのです。ところが、基壇と建物の規模のアンバランスという大越さんの指摘を講演会で詳しく知ることになり、「二重基壇」の持つ意味に気づいたのでした。
 塔の基壇が二重であれば、下部の一辺15.0mの基壇の上に一回り小さな基壇があり、塔の建物はその上部の小さな基壇の上に建てられたことになり、面積規模のアンバランスは発生しません。従って、大越さんが指摘された疑問はこの「二重基壇」構造により説明可能となるのです。そうであれば、出土事実や文献との整合性も問題ありません。
 そこで、近年の観世音寺研究の成果をまとめた九州歴史資料館発行の『観世音寺 考察編』を読み直してみると、なんとこの「二重基壇」の可能性について記されていました。

 「(前略)基壇外縁から建物までの距離が4.5mと想定されることから基壇一辺の長さが15.0mという数値は、一重基壇にしては大きすぎるきらいがあり、二重基壇であった可能性を指摘しておきたい。」(小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代について」1頁。『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)

 小田さんのこの論文は何度も読んでいたのですが、「二重基壇」の可能性に触れたこの記事の持つ意味に気づいていませんでした。ですから、大越説との出会いにより、多くの知見を得るとともに認識を深めることができたのです。大越さん、山田さんに感謝したいと思います。
 古代寺院における「二重基壇」は、現存するものでは法隆寺の五重塔・金堂に採用されています。従って、九州王朝は法隆寺や観世音寺に「二重基壇」を採用したことになるのですが、「観世音寺古図」の金堂も塔ほど明確ではありませんが、「二重基壇」として描かれているように見えます。この点、引き続き調査したいと思います。 なお本稿の当否にかかわらず、大越説は仮説として成立(基壇と建物の規模の不対応を説明できる)しており、今後の研究の進展(新史料や考古学的新知見の発見など)によっては最有力説となる可能性も有していることを付言しておきます。
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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 とても興味深い話題ですね。
 実は私は観世音寺の絵図に書かれた伽藍は、もともとここにあった建物が近畿に移設されたあとに作られた伽藍の絵だと理解しています。塔の規模も金堂の規模も、移設された先と考えられる法隆寺のものより小ぶりですから。
 つまり観世音寺の塔の二重基壇は、元の大きな塔を移設したあとで、規模の小さい塔を建てるために、もとの基壇の上に一回り小さいものを作って塔を建てたと考えます。
 また筑前国分寺の塔が二重基壇となっている理由。
 これは報告書を正確に読まないとわからないのですが、もとは少し小ぶりの五重の塔だったのを聖武詔によって大きな七重塔にするために、基壇を拡大したあとではないかと。
 この国分寺の二重基壇の可能性は、武蔵国分寺でも指摘しましたし、たしか安芸国分寺でも二重基壇の可能性が指摘されていました。
 だから九州王朝が二重基壇を採用したのではなく、移設・増設に伴って二つの基壇が重なったと考えてはどうかと思っています。
 ただこれだと法隆寺が二重基壇だというのが理解できません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私も前に七重塔への「増築の証拠」を探していましたが,
「もしかしたら最初から二重基壇だったのではではないか」というように
考えを変えつつあります。仮説まで行かない,思いつきですが・・・。

肥沼さんへ

国分寺の塔の中にある二重基壇について
>「もしかしたら最初から二重基壇だったのではではないか」というように
考えを変えつつあります。

 となった理由をお聞かせください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

先日「大人の遠足」というので,多摩湖という人造湖に行きました。
耐震工事が行われていて,その規模がものすごく大きかったのです。
それに比べると,それに比べるとですが・・・,
五重塔 → 七重塔の工事はどうなんだろう・・・と思ったのです。
重さはどれくらい違うのだろう?1mくらい基壇の幅を広げたくらいで基礎の強化になるのだろうか?
そう考えたら,最初から「二重基壇」で建てたのではないか,と。
また,主権者の建てた建物なので,何か特別な意匠がほどこされてはいないのだろうか?
たとえば,「二重基壇の建物を作ることができるのは,主権者の特権だった」とか。
これも「思いつき」の域を出ませんが,頭の片隅に置いておいても良いかと・・・。

肥沼さんへ

 単なる思い付きですか?
 てっきり古賀さんが「九州王朝が二重基壇を採用した」と断言したことに影響されたのかと。
 この古賀説は間違いです。
 法隆寺はおそらく寺院の建物としては九州からの移築でしょうが、実際に建てたのは近畿天皇家。元の寺院の基壇がどうであったかはわかりません。したがって二重基壇を採用したのは近畿天皇家。
 そして観世音寺古図は、これがこの寺の創建当初の姿を描いたかどうかは不確定。そうだというのは根拠のない古賀さんの断定。むしろ大城さんのようにいろんな情報をあとでまとめて後世のものと断定した方が良いとも思う。私自身は、観世音寺の元の伽藍群(寺院名は不明。元興寺かとも)を根こそぎ移築してしまった後で、そこに新たに天智が観世音寺という新しい寺院を建てたのだと思う。その新しい寺院の姿がこの古図だと思っています。ということはここの塔の二重基壇を採用したのも近畿天皇家。
 大城さんが観世音寺の創建当時の塔は資材帳にある一辺6メートルのものではなく、もっと大きいとしたのは、発掘された基壇が一辺15メートルだから。つまりこの上に一回り小さい基壇を作ってそこに小さい五重の塔を建てたと。だがこの小さい基壇は発掘されていない。基壇の大部分は削り取られていて、南側と西側がかろうじてのこっていただけ。そこに基壇の石積みが見つかったが一辺15メートルでは資材帳の建物からみると大きすぎるので、発掘担当者が「二重基壇かも」としただけ。
 大城説を裏付ける記録などあるはずもない。近畿天皇家が九州の大寺院を移築したとの記録は一切ないのだから。文献記録がないことをもって大城説は証明できないとするのは、近畿一元史観だ。
 古賀さんは観世音寺は670年創建という続日本紀の記事を盲信しているから、寺院の建物を根こそぎ移築と考えない。でも発掘された塔の基壇は資材帳の記録とあわないので、発掘担当者と同じように二重基壇だと考えると自説に矛盾が生じないから採用しただけ。大城説を否定するためだ。

 筑前国分寺の塔が二重基壇であること。
 この理由は当時は二重基壇が一般的だったからではないか。こう考えることも可能です。
 「二重基壇」でネット検索したら、近畿天皇家が建てた唐招提寺の金堂も創建当時は二重基壇だったことが最近の発掘でわかっていますし、もっとすごい情報は、飛鳥寺の三つの金堂が同じく二重基壇だった。しかも下層基壇にも礎石がある特異な形。
 この下層基壇に礎石があるかたちは韓国の5世紀から10世紀の寺院には多いとの論文もあった。
 そして下層基壇の礎石は、建物本体の礎石ではなく、裳階(建物を保護するための庇)の礎石で、裳階が建物本体と一体になるとともに、下層基壇に礎石が置かれない形式になり(これが二重基壇の一般的形)、さらに下層基壇が省略された単層基壇へと変化したのではないかと考察されていた。
 飛鳥寺も二重基壇。そして唐招提寺も二重基壇。さらに東大寺の二月堂も二重基壇だし、大仏殿とほぼ同じ時期の新薬師寺の金堂も二重基壇であったことが発掘でわかってきた。
 つまり6世紀から8世紀まで金堂や塔の基壇は二重基壇が一般的だったのではないかと推定できます。

 こう見ていくと筑前国分寺の塔が二重基壇であることは、塔を大きくしたこととは無関係な一般的なものであったと判断可能です(奈良文化財研究所のデータベースで見ても、上下二段の石組みが出土したことは事実ですので)。

 武蔵国分寺の塔の基壇で拡大の跡と判断したものは上下の二重基壇ではなく、基壇の法面を保護した石を外したうえで、そのまわりに1から2メートルさらに版築法で基壇を拡大した後を見つけたこと。だから五重の塔を七重塔に改造したとすればその痕跡は、上下ではなく、水平に拡大されている。
 これは五重より七重の方が建物が大きいからだ。基礎を強化するためではない。

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