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2018年6月 3日 (日)

綿貫伊勢遺跡と綿貫牛道遺跡

昨日高崎サークルを行った青年センターの近くには,
綿貫観音山古墳という遺跡があって,
盗掘を防ぐために横穴式の墳墓を作るなど知恵者がいたようだ。

道路を挟んで北側には広大な遺跡が発掘されるようで,
バイパスを作るための緊急発掘の模様。
どんな遺跡かちょっと「綿貫 発掘 高崎」で検索してみた。

綿貫伊勢遺跡と綿貫牛道遺跡

www.gunmaibun.org/remain/iseki/hakkutu/2009/20090519.html

綿貫観音山古墳

https://ja.wikipedia.org/wiki/綿貫観音山古墳

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

>綿貫観音山古墳という遺跡があって,
盗掘を防ぐために横穴式の墳墓を作るなど知恵者がいたようだ。

 横穴式の墳墓って「盗掘を防ぐため」なのでしょうか? 竪穴式よりも逆に盗掘しやすいのでは?そもそも横穴式は、「追葬」可能な埋葬様式。玄室の内部が広いし、入り口の戸を開ければ入れる。そもそも家族墓として追葬可能な様式として始まったのでは?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

博物館の豪華な副葬品を見て,逆にそう思ったのです。
「よくこれが盗掘されなかったものだなあ」と感心して・・・。

>「よくこれが盗掘されなかったものだなあ」と感心して・・・。
ということであればよくわかります。
なぜ盗掘に会わなかったかが逆に不思議です。

 有名な高松塚古墳も盗掘を受けていたので副葬品はほとんどなく(わずかな断片だけ)、残っていたのは例の壁画だけ。
 竪穴式石室は地面のした数mにあり、しかも石室の天井石はものすごく大きく重いので持ち上げるのは大変。石室が無くて木棺直葬だと盗掘は簡単。
 おそらく石室をつくるということが盗掘を減らそうとの動きかも。
 横穴式石室の場合には入り口に大きな石を置いて蓋をして、さらに土で埋める。盗掘者は土をほって蓋の石に至る。ここから盗掘するには蓋の石に大きな穴をあけて中に侵入する。これもかなり大変。
 それでも飛鳥の石舞台古墳などは盗掘を受けて中は空っぽ。

 観音山古墳が盗掘を受けなかった理由が本当に知りたくなりますね。
 もしかして被葬者の子孫が長く上野国の郡の大領として、さらにはこの地の有力武士として続いたからでしょうか?有力者の先祖の墓なら盗掘できないように守りますからね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  観音山古墳が盗掘を受けなかった理由が本当に知りたくなりますね。
 もしかして被葬者の子孫が長く上野国の郡の大領として、さらにはこの地の有力武士として続いたからでしょうか?有力者の先祖の墓なら盗掘できないように守りますからね。

そうなんです。そこで,この綿貫観音山の北にある「綿貫伊勢遺跡」と「綿貫牛道遺跡」のことが
クローズアップされてくるという訳です。

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現在綿貫伊勢遺跡・綿貫牛道遺跡では、国道354号線(高崎玉村バイパス)の建設に伴う発掘調査が行われており、場所は高崎市の綿貫観音山古墳の北側になります。昨年度からの継続調査となっており、それぞれ隣り合っている「綿貫伊勢遺跡」・「綿貫牛道遺跡」共に、4月から調査を開始しています。西側に位置する綿貫牛道遺跡では、主に中世の火葬墓、中近世の溝・土坑などが、また古墳時代から平安時代にかけての住居が検出されています。前の時代は住居だった場所に、後になって同じ場所に火葬墓が作られている様子も観察することができ、興味深い遺構の検出状況がみられます。一方、東側に位置する綿貫伊勢遺跡では、古墳時代から平安時代の住居が100軒以上、確認されています。重複が著しい状況であることから、各時代にわたり大規模な集落が継続していたことがわかります。今後は、現在発掘している調査区に隣接した場所を発掘していく予定ですが、同様の規模の集落が展開していることが想定されます。

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この2つの遺跡に住み続けていた人たちが,「古墳を盗掘から守る役割をした」と言っても
過言ではないような気がします。

>この2つの遺跡に住み続けていた人たちが,「古墳を盗掘から守る役割をした」と言っても
過言ではないような気がします。

 つまり肥沼さんは、この綿貫観音山古墳のすぐ北側にある古墳時代から近世まで続く集落に住んでいた人々が、この墓の守り人だったと考えておられるのかな? 天皇陵で言えば「陵戸」。治部省諸陵司の管理を受けて陵墓の守衛の任を果たす人々。養老令以後は賤民身分だった。
 綿貫観音山古墳はその立地と規模からは上毛野君の墓と思われる。上野・下野・武蔵北部という広大な王国の王の「陵墓」。天皇陵の「陵戸」のようなものが置かれた可能性はゼロではないが・・・・・。この二つの遺跡はグーグルマップで見ると、観音山古墳のわずか北側200mほどの場所なので、無関係とは思えない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまり肥沼さんは、この綿貫観音山古墳のすぐ北側にある古墳時代から近世まで続く集落に住んでいた人々が、この墓の守り人だったと考えておられるのかな? 天皇陵で言えば「陵戸」。治部省諸陵司の管理を受けて陵墓の守衛の任を果たす人々。養老令以後は賤民身分だった。

いやいや,そんな大それたことは考えていませんが・・・。
ただ,「200m」という距離がまったく繋がりがないという方がかえって不自然かな,と。
だって,古墳自体の全長が97m。その北のすぐ見えるところに大集落ですから。     
「気がつ記」・「思い付き記」的に書いたまでです。

肥沼さんへ
 いやいや。鋭い的を得た思い付きかもしれませんよ。
 王の陵を守る守衛人。通常は天皇および皇族の陵しか考えませんが、それは天皇が至尊の君になってからの話。律令制が敷かれて国土の全体が天皇の物という大義名分ができてからの話(7世紀の初めから中ごろのこと・もちろん九州王朝時代)。
 それまではそれぞれの地域を治める「豪族」はみな「王」だったのですから、天皇と同じようにその陵を守る守衛人を持っていたはずです。天皇も豪族の一人にすぎないのですから。ましてや上毛野君。関東の大王ですよ。きっと陵の守衛人を持っていたはず。それも集落を作って代々守衛していた。
 天皇を至尊の君と考える常識からは、出てこない発想です。
 ただしこれを史料で確かめることができるかどうか。ここが問題です。
 ネットで「陵戸」を検索していたたら神武天皇陵の陵戸の後裔が明治まで続いており、江戸時代に定められた神武天皇陵の場所が違うという話が、当該の後裔の村には今でも伝えられているという話がネットにありました。
  http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm
 もしかしたら綿貫観音塚古墳についても、「○○王の墓」とか「昔昔の長者様の墓」とかの言い伝えが現地に残っていて、それを守る「陵戸」の後裔もまた続いていた可能性はありますよ。江戸時代に編纂された地誌などにそうした痕跡がないか調べてみるのも面白いかもしれませんね。
 ネットで確認すると確かにこの古墳の玄室は盗掘されていなかったそうです。
 その理由は、玄室の壁が壊れて玄室内に天井石や土砂が大量に入っていたからということしか説明はありませんが、「守り人がいた」という発想は、このあたりの不思議を解いてくれるかもしれません。

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