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2018年6月20日 (水)

勝呂廃寺の軒丸瓦

埼玉県坂戸市に勝呂廃寺(すぐろはいじ)があり,
ここからは下のような軒丸瓦が出土している。

Photo

明らかに「単弁」と思われるものもあるが,
「素弁」では?と思われるものもある。
いかがでしょうか?


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 勝呂廃寺は武蔵国分寺との関連が以前から問題になっている古代寺院ですね。
 写真の下段左側の軒丸瓦が武蔵国分寺の創建瓦とそっくりだと以前から指摘されているもの。
 写真にある軒丸瓦のうち、上段の一番左と真ん中があきらかに単弁蓮華文軒丸瓦です。花弁の付け根のところに明らかに高く盛り上がった筋があり、これが子葉だと判断できます。
 逆に素弁軒丸瓦だとすぐわかるのが、上段右側のもの。
 下段右側はなんでしょうか。花弁と思しきものの間に、細い盛り上がりがいくつもあるからこれが子葉かな?
 問題は下段左側のもの。武蔵国分寺の創建瓦とそっくりなもの。
 これは花弁の外側にもう一重の盛り上がった細い線で縁取られ、その中に花弁状で盛り上がったものが。
 先日国分寺市史の武蔵国分寺の項をコピーしてきましたが、ここでは素弁と判断されていた。
 ところが国分寺市発行の「国分寺のはなし」ではこれが単弁と判断。文書を読んでみると「花弁の中央の盛り上がりがかろうじて子葉と判断された」と記されている。つまり当初は素弁と判断されたが、それでは聖武の国分寺詔と年代があまりにかけ離れるので、これに近づけるために単弁と判断を変えたのでしょうね。
 ところが長年武蔵国分寺を発掘してきた福田氏の「鎮護国家の大伽藍・・・」で福田氏は素弁と当初の判断に戻されている。これは福田氏が先年肥沼さんと私の質問に答えて「創建塔は明らかに真北を軸にした建物。尼寺も同じ。両者は東山道武蔵路に平行に建っているので、当初創建塔を中心とした真北を軸とした伽藍があった可能性がある」と語っておられたことと関係があるかと思いますね。
 先日国分寺資料館を訪ねた折、居合わせた若い学芸員に、「国分寺のはなし」の軒丸瓦の判断と福田さんの著書の判断が異なることを当該の本の当該の箇所を示して質問したら、「人によって判断はいろいろ」と答え、当館の展示は国分寺市史の分類に沿って行われていると答えました。
 そこで国分寺市史を見て当該の箇所を見たところ、なんと素弁だった。市史では軒丸瓦の大部分が素弁であり単弁は少なく、複弁はまったく出土していないと記してあった。
 おそらく素弁か単弁かで武蔵国分寺創建伽藍の年代観がまったくことなってくるので、国分寺市教育委員会文化課や担当者の間で激しい議論になっているのかもしれません。
 残念ながら武蔵国分寺発掘報告書のまとめの刊行が、「遺構編」で止まり、「遺物編」つまり大量の瓦の分析が含まれたものが発行が二年遅れているのは、このあたりの判断で執筆者全体の合意ができていないのかもしれません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  おそらく素弁か単弁かで武蔵国分寺創建伽藍の年代観がまったくことなってくるので、国分寺市教育委員会文化課や担当者の間で激しい議論になっているのかもしれません。
 残念ながら武蔵国分寺発掘報告書のまとめの刊行が、「遺構編」で止まり、「遺物編」つまり大量の瓦の分析が含まれたものが発行が二年遅れているのは、このあたりの判断で執筆者全体の合意ができていないのかもしれません。

なるほど,「遺物編」がなかなか発行できないのは,そういう事情かもしれませんね。
でも,かなり大きな年代観の差ですから,なかなか合意するのは難しいでょうね。

肥沼さんへ
 僕の推測が当たっているとすると、遺物編の瓦をまとめるのはかなり大変ですね。
 ところで、国分寺市史の武蔵国分寺の項の瓦の部分。70数ページですのでコピーしてお送りしましょうか?A3版にすれば40枚弱です。ただし瓦の後半の窯ごとの分類は省略しました。

追伸:先だって問題になった東山道武蔵路の遺跡から皇宋通宝を出土した、東村山市の本町二丁目遺跡の写真が、先日頂いた「狭山丘陵からみた古代の東村山 瓦塔の建つ風景」の5ページに掲載されていました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ところで、国分寺市史の武蔵国分寺の項の瓦の部分。70数ページですのでコピーしてお送りしましょうか?
A3版にすれば40枚弱です。ただし瓦の後半の窯ごとの分類は省略しました。

もし可能なら,急ぎませんのでお願いします。

〉 追伸:先だって問題になった東山道武蔵路の遺跡から皇宋通宝を出土した、東村山市の本町二丁目遺跡の写真が、先日頂いた「狭山丘陵からみた古代の東村山 瓦塔の建つ風景」の5ページに掲載されていました。

おお,それには気が付きませんでした。

肥沼さんへ

 国分寺市史の武蔵国分寺瓦の章のコピーできるだけ早急に送るようにします。

 一つ確認したいことがあります。
 それは以前肥沼さんが紹介された、有吉重蔵編著『古瓦の考古学』(ニュー・サイエンス社,3000円+税)の中で有吉氏が、Ⅳ.瓦研究の課題と方法の中で武蔵国分寺の瓦の変遷について書いておられます。ここで有吉氏は武蔵国分寺の軒丸瓦を素弁・単弁・複弁のどれに分類して論じているのかを確認してほしいのです。
 理由は、武蔵国分寺の軒丸瓦についての見解が近年急に変わっているからです。
1:国分寺市史(1986年刊):瓦の項執筆は有吉氏。素弁が圧倒的。ただし蓮弁が盛り上がる形。単弁少し。複弁無。
2:新修国分寺の研究(1991年刊):滝口氏執筆。素弁が圧倒的。蓮弁が盛り上がる形。単弁少し。複弁無し。
3:武蔵国分寺のはなし(2014年刊):執筆者不明。蓮弁が盛り上がる形は単弁と見なせる。これが創建瓦。再建期も単弁で以後に素弁瓦が現れる。複弁は無し。

 1と2では創建瓦も素弁と判断され、再建期も素弁と判断されていたが、3では急に創建瓦を単弁と見なし、再建期も単弁とし、多くの単純な形式の素弁を平安時代に位置づけています。

 そして2008年刊の福田氏の著書でも明確に創建瓦も再建瓦も素弁としています。
 3の国分寺市教育委員会発行の書籍がいきなり瓦の分類を変更したのはなぜなのか。素弁だと国分寺創建の年代観が聖武詔とあわないので、小手先で変更したのではないかと疑います。
 この点で2018年3月20日発行の有吉氏の著書はどうなっているのか。
 有吉氏は福田氏と同様、最初期から発掘に携わった考古学者です。彼が当初からの分類の見解を維持しているのか変更しているのか。彼も変更していないとすれば、3での変更はとても政治的なものと思われるのです。つまり考古学者の科学的な事実認識を、文献史学の定説に合わないからという理由で、政治的に変更した結果だと判断できるのです。

 ということで有吉氏の本での分類をご確認ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

有吉氏の本の中で,武蔵国分寺については30ページあまりにわたって書いてあります。
創建期の鐙瓦として,一応「素弁または単弁の八葉蓮華文を中心的な文様意匠とし,
他に素弁七葉・九葉・十一葉のものがある」などと書かれています。

しかし,六系統の生産地があったりして単純ではないので,有吉氏の論文をコピーして
送りますね。

肥沼さんへ

 武蔵国分寺の鐙瓦については、この勝呂廃寺の瓦の写真で言うと、下段左側の瓦を素弁とするか単弁とするかが大事なところです。これが武蔵国分寺創建瓦とされているもの。
 従来はこの瓦を素弁としていた。
 しかし「武蔵国分寺のはなし」ではこれを単弁とした。外側の細い盛り上がりの線を蓮弁と考え、その内部の盛り上がった部分を子葉と考えたのです。
 だが上段の左側二つの明らかに単弁と判断できる瓦の子葉の形と比べてみれば、これは蓮弁です。子葉と考えるのは無理がありますよ。
 あともう一つ上げれば再建期とされる軒丸瓦。これは平城宮系と命名されているのですが、これも細い盛り上がりの線で蓮弁の外側を表わし、その内部に盛り上がった形で蓮弁全体を表現。創建瓦よりは蓮弁が細身であることが違いです。これも「武蔵国分寺のはなし」では盛り上がった部分を子葉と見なしています。
 
 ここを写真で確認すれば有吉氏の見解の検討は終わりです。

 コピーをお送りくださるようなので自分で確かめてみますが。

肥沼さんへ

 早速コピーをありがとうございます。
 写真はなかったけど拓本があるので判断できました。
 有吉さんが遅くとも2001年までに、創建瓦・再建瓦の中心部分の軒丸瓦を、「素弁」⇒「単弁」と分類を変えたのだということがこの論文でわかります。「棒状の子葉をもった単弁」と、細い畝状の線で縁取られた蓮弁の内部が盛り上がった形の軒丸瓦(創建期も再建期も少し異なるが同じ)のことです。
 盛り上がった花弁を単弁だと強引に変えたのですね。
 おそらく理由は、瓦の年代を確定するのに、歴史書に塔が焼けて再建された時期が確定しているので、これを元に塔(創建塔・塔1)が焼けた時期を歴史書にある年代にあてはめ、その前の創建期を聖武詔に合わせたとはっきり書いてあります(ここは新修国分寺の研究の記述と同じです)。この年代は複弁瓦の時代ですからいくらなんでも素弁では年代観に齟齬がでます。そこで平城宮の瓦に「リバイバルとしての単弁」があるのをヒントに、この単弁瓦が武蔵国分寺の同じように蓮弁が盛り上がった再建瓦とよく似ているので、これを単弁とし、少し太身だけど同じ形状の創建瓦も単弁だとしたのだと思います。
 おそらく正しくは平城宮の「単弁瓦」(これも単弁のリバイバルと言われています)も「素弁瓦のリバイバル」だったのだと思います。
 前に理由は推定しましたが、聖武天皇は曾祖父天武崇拝者ですから(根拠は聖武の血統。彼の血統は母方が正統な王者ではないので、父方の王統の祖である天武を崇拝した。だから、天武の難波宮の焼け跡の中庭に、焼け跡の柱をそのままにして、遺跡にぶつからないように少し小ぶりの難波宮を建設していること)、そしてこの天武の正統性も、兄天智とともに、その母皇極・斉明を継ぐということであり、この母の正統性もまたその父舒明を継ぐことなので、舒明の時代の素弁瓦をリバイバルしたのだと思います(たしか難波宮は瓦葺ではなかったと思いますが)。
 じっくり読み解いてまたコメントします。
 早速動いて頂けてありがとうございます。

 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 写真はなかったけど拓本があるので判断できました。

それは良かったです。

〉  じっくり読み解いてまたコメントします。

どうぞよろしくお願いいたします。m●m

〉 早速動いて頂けてありがとうございます。

それだけが私の得意とするところです。(笑)

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