« 見れども見えず~王都のありか | トップページ | 「はじめまして、ばぁちゃん。」という歌 »

2018年5月12日 (土)

高安城は,九州王朝が建てた城ではないか?

通りすがりの素人さんの質問に答えてみたくなった。
ここまで来たら,「論理の導く所へ」行っちゃうぜ。(そういうノリか?)

取りあえず,ウィキペディア「高安城」で検索してみた。

高安城

https://ja.wikipedia.org/wiki/高安城

「高安城が築かれた標高487メートルの高安山は、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する。
山の南の大阪湾に注ぐ大和川は、奈良盆地を遡り、支流の飛鳥川は宮都の飛鳥京に至る[1]。
山頂周辺は、大阪平野側の西斜面は急峻で、
東斜面は標高400メートルほどの多数の尾根が谷を抱える地形である[1]。
また、山頂部の眺望は良好で、大阪平野・明石海峡ほかの大阪湾と、飛鳥京ほかの奈良盆地が視野に入る。
高安城は、史書にその名がみえるものの、明確な遺構・遺物は未発見である。

1978年(昭和53年)、「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見し、一躍注目される存在となる。
発見された礎石建物跡6棟のうちの、2号と3号の礎石建物の発掘調査は、8世紀前期の建物と推定される。
その後も、大阪府や奈良県が推定地内で発掘調査を実施しているが、明確な遺構は確認されていない。
また、高安城の外周城壁ラインの推定範囲を最初に提示した関野貞の他、城の範囲に諸学説があり、
古代山城の高安城の具体像は、まだ解明されていない[5]。」

大阪側が急峻で,奈良県側が緩やか・・・どこかで聞いたことがあるぞ。
そうだ,3年前に服部さんが『古代に真実を求めて(古田史学論集第十八集)』に書かれた
「関から見た九州王朝」の竜田関の話を思い出したのであった。

そうか,「大和に近いからついつい高安城は,大和を守っているに違いない」と信じてしまった。
高安城もまた,竜田関と同じく,生駒山地に九州王朝が作った山城と考えるべきであった。
となると,高安城も奈良県側のなだらかなところに建っているはずである。

             生駒山地

             - -
           -      -  竜田関 (高安城も?)
         -            ー  
   (急峻)-                  -   (緩やか)
       ー                        -
      ー                              ー

大阪平野                               奈良盆地

ドキドキしながら,そして半分ほどの自信を持ってそのサイトに行ってみた。
(どうか奈良県側にありますように!)

高安城倉庫址礎石群

www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1257

やったあ!やはり高安城も竜田関と同じ奈良県側にあった。
ということは,外敵にも内敵にも対応すべく,城が作られたのであった。

年代の判定や,前期難波宮が九州王朝の副都かどうかという議論は,
私にはまだよくわからない。
しかし,高安城を九州王朝が作ったと考えると,
「大和を守るのは高安城だけ」という変な物語ではなく,
「すべて山城は最初に九州王朝を守るために作られた」などという,
すごい仮説が生まれるかもしれない。(o^-^o)

ちなみに,「大宝元年(701年)8月:高安城を廃(と)め、
その舎屋、雑の儲物を大和国と河内国の二国に移し貯える。」
という『続日本紀』の記事がある。
「自分たちを見張っているような不愉快な城は,一刻も早くなくしたい」
そういうことではないか。

« 見れども見えず~王都のありか | トップページ | 「はじめまして、ばぁちゃん。」という歌 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

簡単な質問です。九州王朝が建てたものなのに、神護石形式でないのは何故ですか?

上城さんへ
コメントありがとうございます。

〉 簡単な質問です。九州王朝が建てたものなのに、神護石形式でないのは何故ですか?

よくわかりません。逆に,質問させて下さい。
九州王朝は,すべての山城を神籠石形式で作ったのですか?

肥沼さんへ
 「高安城は九州王朝が建てた」との仮説が成り立つにはこれを支える事実が必要です。
 今のところこの城は本当に城だったのかどうかが不明。第一山城であるための防備施設が見つかっていません。見つかったのは倉庫跡だけ。それも廃城にしたとの記録の後の物なので、その性格が不明です。九州王朝の山城であるためには神籠石と同じ技術で作られていなければいけませんが、そもそも山頂を囲む環状列石が出ていない。
 今わかっているのは、書紀の高安城をつくったとの記録と、続日本紀に廃城にしたとの記録があるだけ。この程度の史料で論じることは不可能だと思います。
 難波宮九州王朝副都説支持派にとっては、肥沼さんの仮説は魅力的に見えると思いますし、肥沼仮説が出てきた背景には、この難波宮九州王朝副都説がすでに提出されているという事実があります。そうでなければ、この肥沼仮説は生まれない。
 思い付きで物を言わないで、仮説を思いついたときには、これを支える条件となる史料事実があるかどうかをまずは確認することが必要だと思います。

※追伸:なぜ瀬戸内を取り囲むように山城が点在するのか。ここは当時の日本国の中枢地域です。西は九州王朝の都を中心とした畿内地域。東の端はその有力な分王朝近畿天皇家の畿内地域。その中間には同じく分王朝の吉備国の中枢地域。そして瀬戸内にはその北岸に東山道が通り、南岸には東海道が通る陸路の中枢だし、海路はこの地域の物資を運ぶ最大の流通路。九州王朝はその畿内だけではなく、それ以外の地に多くの屯倉を設け、そこからも大量の税を九州に運んでいた。瀬戸内はまさにその全国の税を九州に運ぶ流通路です。ここを唐に占領されたら国は亡ぶ。
 こう理解すれば瀬戸内を囲むように山城が分布する理由は一目瞭然です。
 こうした状況証拠を背景とすれば
 高安城は(九州王朝配下の)近畿天皇家が作った、と理解することもできるし、九州王朝が直接作ったと理解することもできます。
 そして近畿天皇家が作っても九州王朝が作ってもその築城技術は同じではないでしょうか。一つの王朝なのですから。これは全国に作られた寺院が同じような瓦を持ち同じような伽藍配置でつくられていることと同じだと思います。
 だから築城技術の違いで建設主体を区別するのもできないのではないでしょうか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

(1) 年号制定で,大化・白雉・赤鳥という九州年号の一部を出して,九州王朝の業績を自分たちのものと見せかけたように,築城についても,金田城・屋嶋城・高安城という築城の一部を出して,九州王朝の業績を自分たちのものと見せかけているのではないか,と考えます。

(2) 外敵に対しては「神籠石」までやる必要があるでしょうが,内敵に対してはそこまでやる必要はなかったし,むしろ敵愾心をあおることになるのではないか,と考えます。

(3) 一番言いたいことは,「〈高安城は,大和を守るための城〉という考えを1度外してみてはいかがか」ということです。

肥沼さんへ
 書紀の築城に関する記事と、高安城に関する記事を抜いてみました。

●書紀天智紀

六年十一月、是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。
八年秋八月丁未朔己酉、天皇、登高安嶺、議欲修城、仍恤民疲、止而不作。
八年十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。
九年二月、造戸籍、斷盜賊與浮浪。于時、天皇、幸蒲生郡匱迮野而觀宮地。又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。

※天智紀に出てくる築城記録は以上。
 大和(高安城)・讃岐(屋島城)・対馬(金田城)・長門に城一つ・筑紫に城二つ。
 これは現在発見されている古代の朝鮮式山城総数から見るとほんの一部だ。これらの記事が白村江以前の記事を後ろに動かしたのでないのなら、白村江以前に、太宰府など九州王朝の中枢を守るために作られた多くの城の築城記事は、書紀には採用されなかったことになる。
 つまりここに出てくる築城記事はすべて白村江以後の話。
 倭国(正しくは日本国)は別に唐王朝に占領されたわけではないから、この時期に防備を固めるために諸国で築城してもおかしくはない。
 たとえば讃岐の国には屋島以外にもう一つ国府のすぐ西側に朝鮮式山城がすでにある。これは白村江以前だから当然建設主体は九州王朝。日本国の経済の中枢である瀬戸内を守る城として作られたのだと思う。

 天智八年に高安峯に登り城を修理しようとして辞めたのは「天皇」と主語を明記しているから天智だ。他の記事は主語が明記されていないから、建築および修理主体は九州王朝天子と考えざるを得ない。まだこの時期は九州王朝から近畿天皇家に主権は委譲されていないから、あくまでも大義名分上の主権者は九州王朝天子。でも実際に築城したのは、今や最大の実力者である天智ではないのか。
 こう考えると高安城を作った名目上の主体は九州王朝であっても、実態は近畿天皇家。
 やはり高安城は大和(倭)を守るための城で良いと思う。
 この山は河内側が急峻で大和盆地側がなだらかな山。主たる敵は河内側から攻めてくることを想定している。

●書紀天武紀上

時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉、皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方、自大津・丹比兩道軍衆多至、顯見旗旘。有人曰、近江將壹伎史韓國之師也。財等、自高安城降以渡衞我河、與韓國戰于河西、財等衆少不能距。

※ここは壬申の乱の中での近江朝廷軍と天武軍の戦闘の場面での高安城。大和盆地側からなら攻め落とすのは容易だったのではないか。やはりこの城は大和川を遡って大和盆地に攻め入ろうとしている敵を山頂から見つけて急襲するための城ではないのか。そして平時においては、龍田の関を通って大和に入る人々を監視する場所。龍田の関の詰城だ。つまり河内側から龍田の関を押し破って大和に押し入ろうとする軍勢があれば、それを山頂から見つけ、関に入る前に上から急襲するための城。
 関は坂を上りきった上に作るものだと思う。つまり平坦地に。箱根の関所もそうでしょ。そして関は防備のために作るものじゃない。交通路の遮断と通行人の検断が主たる任務。防備なら城がいる。

●書紀天武紀下

四年二月、丁酉、天皇幸於高安城。

※高安城に御幸した主体は「天皇」と明記しているから天武。

●書紀持統紀

三年冬十月庚戌朔庚申、天皇幸高安城。

※ここでも高安城に御幸したのは「天皇」と明記しているから持統。

 書紀の高安城記事を精査してみると、これは白村江以後の築城で、名目的には命令を発したのは九州王朝だが、建設主体は天智の近畿天皇家だと思う。目的は大和の防備。仮想敵国は唐。
 だが実際に使われたのは内戦において(壬申の乱)。
 壬申の乱は九州王朝から近畿天皇家への主権移譲の前。まだまだ何が起こるかわからない。
 だからそのまま維持されたのではないか。
 701年に廃止されたのは、主権移譲も終わって唐との関係も良好だから、大規模な山城など必要なくなったからではないのか。
 発見された倉庫群はその礎石の下から出土した遺物から720から730年代とある。
 ということはその後再び、高安城が見直され、その必要性が再認識されたからではないか。

 まだ朝鮮式山城としての石組みが発見されていない中での議論ですが、文献を中心に見ての私の考え方です。

>(1) 年号制定で,大化・白雉・赤鳥という九州年号の一部を出して,九州王朝の業績を自分たちのものと見せかけたように,築城についても,金田城・屋嶋城・高安城という築城の一部を出して,九州王朝の業績を自分たちのものと見せかけているのではないか,と考えます。
 これは上に示したように、白村江以前の記録だと思い、九州王朝事績の一部盗用ではない。

>2) 外敵に対しては「神籠石」までやる必要があるでしょうが,内敵に対してはそこまでやる必要はなかったし,むしろ敵愾心をあおることになるのではないか,と考えます。
 こう言ってしまうと、九州王朝にとって近畿天皇家は敵との認識がベースにあると思います。敵の大軍をわざわざ筑紫の地に招請し、唐との戦に備えるなどということがあるでしょうか。このとらえ方は難波京が九州王朝副都だとの説に引っ張られています。

>(3) 一番言いたいことは,「〈高安城は,大和を守るための城〉という考えを1度外してみてはいかがか」ということです。
 外してみることは賛成です。でもそのあとはここの地形や地政学上の位置から考えて、何のための城かを考えることと、やはり書紀記事の精査が必要です。精査してみての結論は上に示しました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 まだ朝鮮式山城としての石組みが発見されていない中での議論ですが、
文献を中心に見ての私の考え方です。

お時間を取らせてすみません。
『よみがえる古代山城』の中に,築城記事に「倭(大和)国高安城」とあるのに,712年の高安烽廃止記事では「河内国高安烽」とあり,城域推定のヒントとなるかもしれない,と書いてあります。そして,「高安城は大和国側と言うことになるわけだが,従来の諸説は「いずれも高安山西南方や高安霊園付近で大きく奈良県側入り込む大阪府域を含時の国境線は明らかにできないが,この点でも従来説は見直しが必要と考えられる」とも。また,カナド池南方には土段状の土累線らしき遺構も見られるとあり,まだ可能性ありと思います。

金田城については,7世紀半ばところと末のころの須恵器が多いそうです。
「半ば」がいつを指すか不明ですが,667年では唐の占領下になってしまうので,
650年代に九州王朝が唐・新羅の攻撃に対抗するため作ったのだと思います。

〉  たとえば讃岐の国には屋島以外にもう一つ国府のすぐ西側に朝鮮式山城がすでにある。
これは白村江以前だから当然建設主体は九州王朝。
日本国の経済の中枢である瀬戸内を守る城として作られたのだと思う。

讃岐城山城のことですね。(日本書紀では,九州王朝の山城があることを暗示されていた。山田郡)
ということは,讃岐国の国府のすぐ西側にあるということからして,
九州王朝の国府の役人たちが敵(仮想敵国・大和)の襲来を恐れて,
逃げ城を作っておいたということでよろしいでしょうか。


肥沼さんへ

 あいかわらず、古田史学の会の古賀さんたちの説に無批判に乗って論を展開していますね。
>金田城については,7世紀半ばところと末のころの須恵器が多いそうです。 「半ば」がいつを指すか不明ですが,667年では唐の占領下になってしまうので, 650年代に九州王朝が唐・新羅の攻撃に対抗するため作ったのだと思います。

 この「唐の占領下」という捉え方。古田さんに始まるものですが、これをいったん除外してみてはいかがでしょうか。唐軍はわずか2000人ですよ。これで九州王朝を占領統治下に置けるのでしょうか。古田さんはアメリカ軍の占領統治を例にして少数でも可としましたが、現代の例を無媒介に古代に適用するのは如何なものかと思っています。
 須恵器の編年で七世紀半ばということは通常編年は25年を一幅にして、第一四半期・第二四半期・第三四半期・第四四半期とします。七世紀半ばということは、七世紀の第二四半期と第三四半期にまたがると考える。年代を入れれば625年頃から675年頃という幅ですよ。
これなら書紀が記した天智六年・667も十分含まれる。
 これを肥沼さんが排除したのは、「唐の占領下」との捉え方だけが根拠です。この解釈を基準にして書紀の記述を否定しているわけです。仮説で史料事実を否定するのは、実証的歴史学では根本的な誤りです。

>讃岐城山城のことですね。(日本書紀では,九州王朝の山城があることを暗示されていた。山田郡)ということは,讃岐国の国府のすぐ西側にあるということからして, 九州王朝の国府の役人たちが敵(仮想敵国・大和)の襲来を恐れて, 逃げ城を作っておいたということでよろしいでしょうか。

 ここでも近畿天皇家が九州王朝の敵であったという古賀さんらの「仮説」を前提にして考えてしまっています。
 一度近畿天皇家が九州王朝の敵だという「仮説」そのものを自分で再検証なさってください。先にも述べましたが、唐との決戦にあたって、近畿天皇家は斉明を先頭に「全軍をあげて」筑紫に赴いています。結果的には斉明の死によって近畿軍の大半は大和に引き上げて唐との戦闘に参加していないようですが、「(仮想)敵」の大軍を首都に引き入れるでしょうか。
 この私の疑問を一度ご自身で検証なさってください。
 肥沼さんは他人の仮説をそのまま引き継いで(表面的にはわからない・判断できない)としながら、実際としてはその仮説を基礎にして考えています。これでは歴史学ではないです。
 厳しい言い方をしますが、ここあたりが古田史学系の方々の弱点・根本的欠陥です。

 高安城の場所について。書紀では「大和国」とし続日本紀では「河内国」としている。要するに国境ですからね。ここは。そして国境はしばしば動きます。ここを頭に置いて、山城の遺構調査がなされるべきというのは、その通りだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 先にも述べましたが、唐との決戦にあたって、
近畿天皇家は斉明を先頭に「全軍をあげて」筑紫に赴いています。

「全軍をあげて」について,質問させて下さい。(川瀬さんも「 」付きですが)
これで私が思い出したのは,昔のシンポジウムの記録にある古田さんの発言です。
「2万人も待機状態」ということが本当なら,とても「全軍をあげて」とは言えないと思うのですが・・・。

「ところが、これも結論から申しますが、どうも、近畿天皇家側は、斉明・天智側は本気で戦う気持は無かったようです。と言いますのは、それを示します文献上の証拠は、『風土記』にございます。逸文の中で、備中の国の風土記の断片がひとつだけ残っています。そこに、非常に興味深いことが書かれています。今の岡山県ですが、そこに邇磨(にま)の郷(さと)という箇所、そこだけが残っています。それは、斉明天皇の時白村江の戦いがあるというので、軍勢が集められた。二万人集まった。ところが、少し待っておれというので待たされていた。そのうちに朝倉宮で斉明天皇が亡くなられた。そこで、その後、中大兄皇子が、もう軍勢を解散していいと、こういうことで、結局解散してしまったので、白村江には行かなかったと。こういう話が述べられておりまして、その二万というところから、邇磨という名がついたということです。最後のところはオチみたいなもので、地名説話の常であり、コジつけでありますが、そのコジつけの基礎になっているのが、白村江の話です。

 そこで不思議なのは、「斉明天皇が亡くなったから、もうよろしい、解散しよう」は結構なのですが、その後に白村江の戦いは行なわれているのです。大激戦が。「斉明天皇が亡くなられた。喪に服するから戦争を止める、だから解散する」なら分かるのです。ところが、戦争は続行どころか、大激突が行なわれているのです。にもかかわらず、その大激突の時には、いわゆる近畿側で招集した備中の二万の軍隊、かなりの軍隊は解散させられているのです。要するに、白村江の時には、近畿天皇家側は戦う意思を持っていないわけです。この風土記、逸文ですけれども、風土記の中では非常に信憑性の高いものです。それが引用された時期が、他のいかなる風土記よりも早い時期に引用されて、それで残っている文章なのです。それに述べられている。このことは、別の状況からも裏づけできます。

 これは、わかりきったことなのですが、近畿天皇家の、斉明や中大兄などの周辺の誰も、主だった臣下は戦死していないのです。大和朝廷の、大和界隈の豪族は。あの辺に登場する蘇我氏も。藤原鎌足もいますし、藤原氏一族もいるでしょう。ところが、ああいう人達で白村江で死んだと書いてあるのがありますか、まったく無いでしょう。つまり、大和界隈の、言わば、斉明・中大兄の、鎌足に最も近い人達は、誰一人死んでいないのです。戦死していないのです。しかも、それが些細な戦いだから死ななかったのだ、と言うことはできません。大激突で、中国側の歴史書や『三国史記』側に詳しく書いてあるように、本当に火の出るような大部隊、大軍船の大衝突であった。それは、見事にという言葉は変ですが、倭国と百済の連合軍は完敗をして、それこそ、負傷者多数どころではなくて、海の底に多く沈み、捕虜にもたくさんなった。第一、筑紫君自身が捕虜になっているわけです。にもかかわらず、涼しい顔をしているのが大和朝廷側で、誰も戦死したり捕虜になったりした気配がないわけです。これは不思議な話なのです。

 しかし、それは、今のそれを直接伝えた資料というべき、備中の『風土記』を見れば、その秘密、カラクリがわかる。つまり、大和朝廷側は実際には“降りて”いたのです。なぜ“降りた”のかと言うと、これもわかってきました。それも、細かい論証は抜きにして結論のところだけ申しますと、『隋書』イ妥国伝、普通倭国伝と言われていますが、イ妥国=タイコクと言うのが本来の原文です。ところがその最後に、結びに、「この後ついに絶つ」と。つまり裴世清がやってきて、多利思北孤と交歓、非常に歓迎されたとあって、倭国の使いを伴って帰るという話があって、その結びが、「この後ついに絶つ」と、この後両者の国交は無かったと、こう書いてあるわけです。ところが、『日本書紀』では、その後大いに天皇家は中国側と交際、国交を結んで、唐の使いなどを歓迎しております。だから、あれを見ても、「日出づる処の天子」多利思北孤が推古天皇では困る、聖徳太子では困るわけです。

 さて、その直後、唐の初め、唐初に、唐側は推古天皇に国書を送っています。これは『日本書紀』に載っております。その国書に曰く「倭皇」と。倭国の倭と天皇の皇、「倭皇」と、こういう名で推古天皇を呼んでいます。あなたの方から朝貢を持って来た、我々は非常に歓迎する、ということが書いてあります。完全に朝貢外交です。中国から見て、いわゆる臣下と見て「倭皇」と扱っているのです。これに対し、喜んで、またその答の国書を送った。その国書も『日本書紀』に載っております。部分ですが。ということは、「九州王朝」に対しては、“「日出づる処」と「日没する処」の天子どうし”というようなことでは、中国側では相手にできないわけです。「二人の天子」という概念は無いのですから。

 だから、そういう相手に対して、“偵察のため”の裴世清を遣わした後、「国交断絶」といいますか、「国交無し」の状態に陥ったのです。そして、その後、偵察してきた時にわかったのでしょうが、東の方に有力な、実際、実力においては大古墳が示すように、九州王朝以上に強大な勢力を持った豪族がいると。分家ではあるけれど、母家から出て、母家以上の勢力を築いている。これに対して国書を送って、「これからは、アナタを我々中国は『倭皇』とみなす。」そういう国書を送っている。朝貢と書いてあるのに、これに対して天皇家側は、喜んで応じたわけです。「日出づる処」と、「日没する処」の「天子」だったら、「朝貢」ということはあり得ないのです。九州王朝はそれを拒否した。そこで「対等を要求する九州王朝とは、もう平和的交渉無し」と。だから、白村江の戦いに至るのは、論理必然だったわけです。それに対して、近畿の天皇家は「朝貢関係」を受諾したのです。

 だから、聖徳太子の「対等外交」なんて大嘘でして、『日本書紀』がはっきり示しておりますように、聖徳太子は「朝貢外交」を展開したわけです。そこに重大な布石があった。推古天皇・聖徳太子の布石というのは非常に重要だったのです。「朝貢外交」を受け入れたという。その後ずっと、舒明紀の高表仁の来日などかが示しますように、近畿天皇家側は大唐国と友好関係にあったわけです。ところが、九州王朝は「天子対天子」の立場ですから、ついに白村江の戦に突入したわけです。ところが、同じ倭人であり倭種でありますから、分家でありますから、近畿天皇家側は、いわば“応援”という形をとったのです。しかし、先ほどの備中の『風土記』が示しますように、また近畿天皇家の誰も主だった者が死んでいない事実が、何よりも雄弁に語りますように、実質上は“降りて”いたのです。だから、倭国側の大敗戦、「筑紫君」が捕虜になると。これは、ある意味では、近畿側にとってはチャンス到来といいますか、予想どおりの展開が出てきたわけです。」

肥沼さんへ
 古田さんが以前示した論ですね。
 これがうろ覚えであったから「全軍で」とカッコ書きにしたのですよ。
 でもここで示された風土記の記述は備中の2万ですよね。ではそれ以外の、近畿天皇家の畿内軍はどうなったのでしょう。
 総司令官の斉明も、そして実質的な司令官の中大兄も筑紫難波に行っているのですから、近畿天皇家の畿内軍は筑紫難波に入っているのではないでしょうか。書紀には具体的に記述がないですが、主力軍に待機させておいて、九州王朝には顔は立ちませんね。
 そしてこの主力軍は斉明の死とともに大和に引き上げられたと考えるべき。
 古田さんがいっている唐と推古朝との通交は、私は隋と推古朝との通交と捉えるべきだということは、古田史学の継承のためにの中のコメントでの大下さんとの議論の中で展開しています。 
 古田さんと私のどちらが正しいかは置いても、近畿天皇家は唐とは戦うつもりではなかったということは、私の論考「書紀斉明紀を精査する」で明らかにしたと思います。
 近畿天皇家が明らかに九州王朝とは別の路線を取り始めていても、九州王朝がこれを敵と認識していたとは思いません。敵ならその軍は一兵と言えども筑紫には入れないはずですから。
 近畿天皇家は隋・唐と通交しそれに朝貢する路線をとっていても、本家の九州王朝に敵対する行動はとっていません。言ってみれば局外中立。でも唐との決戦を控えて軍を援軍として向かわざるを得なかった。でも全面衝突はしたくない。だから畿内軍以外は待機だったのでは。そして「幸いにして」斉明の急死によって主力軍を「喪に服する」との名目で大和に戻すことに成功した。こういうことだったのでは。
 この意味で古田さんが言った白村江での大敗北は、近畿天皇家にとっては自らの外交路線を貫徹させ、列島支配権を本家から奪い取るチャンスだったわけですが。
 近畿天皇家が九州王朝の敵との認識は、古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説にはじまり、これを補強するようにして出てきた冨川さんの「河内戦争論」によって、従来の近畿天皇家の畿内地方のほとんどが九州王朝の直轄地となっているとの認識によって支えられたものです。そして服部さんの龍田の関の論考も、近畿天皇家を仮想敵扱いしている。
 これらは全部仮説であり、史料の理解を間違ったものだと私は考えます。

川瀬さんと肥沼さんの応答。良い応答ですね。論点が明確です。7世紀の九州王朝と近畿天皇家の関係は、まだまだ明確になっていません。ですから、まずは、その点を考えてみるのが第一歩だと思います。古賀さんのように決めつけるのは危ないと思います。歴史を線でとらえにくくなります。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

なんだか「お釈迦様の掌の中を飛び回って,
「柱」と思った指におしっこをひっ掛けている孫悟空」の存在ような気もしますが,
そういうことでも何かのお役に立っているとしたら幸いです。

肥沼さんへ
 議論が止まりましたね。
 一旦元に戻します。
>金田城については,7世紀半ばところと末のころの須恵器が多いそうです。 「半ば」がいつを指すか不明ですが,667年では唐の占領下になってしまうので, 650年代に九州王朝が唐・新羅の攻撃に対抗するため作ったのだと思います。

 対馬の金田城の年代を考えるときに肥沼さんは天智六年(667)では唐の占領下だとしてこの書紀記事を排除されました。
 でも調べてみると、唐の「占領軍」2000人が来たのは、天智八年(669)が最初で、次が天智10年(671)です。
 元記事を示せば、
★天智八年(669年)。是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。
 この年の記事として、小錦中河內直鯨等を遣唐使として送ったことや、百済遺臣を近江国に移した記事とともに「大唐遣郭務悰等二千餘人」が出てきます。

★天智十年(671年)。十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」
 対馬国司からの通報として、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人の倭国軍捕虜(の将校)の送還のために合計2000人の唐軍を載せた兵船47隻が対馬の港に着いたと。

 こうやってみると「唐の占領」は早くとも天智八年(669年)。「築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。」は天智六年(667年)11月。まだ「占領」されてない。
 その前の天智四年九月に唐使が来ているがその時の人数は254人。とても占領軍ではない。
 各地の築城はみなこの天智八年より前ですね。
★天智三年。是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
★天智四年。秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。

 「占領」の後にあるのは、
★天智九年 ※又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。
 だけです。

 質問です。肥沼さんは「唐占領」は、いつ始まりいつに終わったものだと認識されているのでしょうか。
 質問2。この時期の唐使来航の記事については古田さんは「年紀が三年後ろに移されている」と論じています。つまり天智三年五月の「朝散大夫郭務悰等」の来航も、天智四年九月の「朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人」の来航もすべて白村江以前のことと解した。したがって白村江直後の使いの到来が、天智六年11月の「熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等」が、遣唐使の「大山下境部連石積等」を「筑紫都督府」に送還したのが、白村江以後の唐使の初めての来航になります。
 このように古田さんはこの時期の記事を軒並み三年遡らせて理解しているので、これも基づけば「唐占領」の開始時期も動きます。
 ここを肥沼さんはどう認識されているのでしょうか。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 見れども見えず~王都のありか | トップページ | 「はじめまして、ばぁちゃん。」という歌 »

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ