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『君たちはどう生きるか』についてのある書評

先日『君たちはどう生きるか』と仮説実験授業を対比させて,
高崎サークルでスタート講演をしたが,
今検索したら,こんな書評が出ていたので,紹介したいと思う。
なんと『君たちはどう生きるか』には
「どう生きるべきか」について書いていない,というお話だ。
まるで,「「国分寺」はなかった!」みたいな話だと思った。
(これをきっかけにして多元的「国分寺」研究は始まった。)

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■■斉藤次郎・森毅『元気が出る教育の話』(中公新書)==========■

 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(読書猿36号で紹介)のどこがすばらしいか
といえば、そのタイトルにも関わらず、「どう生きるべきか」ではな
「(君たちが生きる世の中は)どうなってるか」しか書いてないとことである。
(だからこれをもう一回やりたいと思った伊東光晴は戦後『君たちが生き
る社会』というそのまんまの本を書いた)。

 もう普通の本は思想統制で出せなくなっていた戦時中、その一方で「どう生きるべきか」
の押し付けばかりが吹き荒れたその時代というのを勘定にいれると、
その抵抗は「際立ってる」ということになるが、今読んでも「際立ってる」のだとしたら
どういうことになるのか。

 森毅がどこかで、戦後(民主主義)というのは、前だったら軍隊の中に閉じ込められてた
いろんなものが、軍隊がなくなった後に社会全体に希釈されて(薄められて)広がったことだ、
と言っていた。近代国家ではいつも軍隊と学校は一対のものだった。
だからこれは「学校的なもの」が社会全体に広がったということでもある。

 教育論といえばいまも「~すべきだ」ばっかりで、『君たちはどう生きるか』はだから
今でも新鮮で際立ってる。けれど「こうなってる」だけでなく、
「だったら、どんな手があるのか」という次の話だってある。
「~すべきだ」は常にたった一つしか提示しないが
(おまけにそれが「唯一」なのだと言い張るが)、
「どんな手があるのか」はそんなのでは間に合わない。

 この対談は、森毅ならそれだけで1本エッセイを書いてるようなネタを何百か使った、
生ネタとエピソードの応酬で、ますます学校化する社会に対して
「だったら、どんな手があるのか」の膨大なカタログである。

加藤清史郎,コベル役を熱演

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180501-00000302-oric-ent

(テレビでの「君たちはどう生きるか」のシーン)

Dscn1900

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