平曲「宇治川」「那須与一」の裏話
昨日は川瀬さんの平曲を聴きに行った訳だが,
演目の「宇治川」と「那須与一」にはなかなか興味深い裏話があって,
単に拝聴するだけでなく,歴史の勉強(人間の勉強?)にもなった。
「宇治川」・・・先陣争いで有名な話だが,実は増水した川を鎧を着て
しかも当時の小柄な馬一頭で渡って行くのは大変無謀であり,
集団で渡河する作戦にも触れるおそれがあり,危険極まりないものだった。
そこには,二人の武士の「頼朝の寵愛をめぐる近臣間のメンツ」があった!
それを知っていると,この「宇治川」の内容が「勇ましさ」より「武士の辛さ」に思えるんだな。
矢の攻撃 → 宇 ← 馬(佐々木高綱) 先陣・畠山重忠軍500騎による
敵の平氏側 治 「馬筏」の集団渡河作戦だった。
矢の攻撃 → 川 ← 馬(梶原景季) 「お~い,人の手柄を取るなよ!」
「那須与一」・・・十一番目の子なので,「十余一」ということで,「与一」と名付けられた。
これにまず驚くが,そのうえ彼の素性が明らかでないというのにも,驚く。
ということは,中学の国語で習い,みんながよく知っている那須与一は,「無名中の無名人」だった。
しかも,扇が掲げられてすぐ矢を放ったのでなく,二人の人(上司の武士と与一の兄)が
病気やけがを理由に断った(だって,失敗したら源氏の恥として語り続けられるだけでなく,
自らも責任を取って自害だろうから)後で,「お前がやれ」と回ってきたのが,与一だった。
もちろん与一も断ろうとしたが,夕暮れが迫り「誰も名乗り出ない」という「プレバト」状態。
そんな中,もう破れかぶれで放ったのが,見事命中したのが例の話だったそうだ。
「南無八幡大菩薩・・・」以下の長い祈りの言葉だったし,80m先の扇の的(直径30cm)だから
おそらく目をつぶって射たのではないかと思う。(かなりの山なりに射ないと,届かないから)
(最高点)
→ →
↗ 矢 ↘
↗ ↘
↗ ↘
与一 扇に命中!
実は,「前日の戦いで,平氏が少人数での源氏の襲撃に慌てふためいて敗走し,
恥を掻かされた」というのも,その裏にあるらしい。
つまり,その仕返しで「逆に源氏に恥を掻かせてやろう」という訳である。
もしビビって「矢を射る者が源氏側から出て来ない」となれば,それはそれで恥だし,
「もし矢を射って的を外せば切腹が待っている」となれば,またつらい。
きっと誰も名乗り出ないであろう・・・・。(しめしめ恥を掻かせられる)
おそらくそういう計略が働いて,ジャーンと扇の的の登場という訳である。
もっとも,戦いの合間に行われた余興とも考えられるという。
今でもオールスター戦の試合の前に,ホームラン競争というのを行うでしょ。
しかし,余興で切腹では,本当に「男はつらいよ」ならぬ「武士はつらいよ」だが・・・。
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肥沼さんへ
私の平曲会の様子と、「宇治川」「那須与一」についての解釈のご紹介。ありがとうございます。
一点誤りがあります。「那須与一」のところ。
>実は,「前日の戦いで,平氏が少人数での源氏の襲撃に慌てふためいて敗走し, 恥を掻かされた」というのも,その裏にあるらしい。
「前日の戦い」ではなく、「その当日の朝から夕方にかけての戦い」が正しいです。
義経の屋島急襲は、2月18日の早朝です。
義経軍70騎あまりの急襲に驚いた平家は屋島の内裏を捨ててあわてて沖の軍船に逃げ遷ります。義経が屋島の内裏に隣接した高松の在家に火をかけて、あたかも源氏の大軍が急襲したかに見せかけたためです。逃げた後で驚いた平家は源氏軍が100にも満たない小勢であったことに気が付き、能登守教経を大将として数十の兵船(つまり数百の兵)を繰り出して上陸し源氏軍と激戦を演じ、少数の源氏軍は苦戦を強いられ、大将義経をかばった佐藤嗣信が戦死。それでも能登守の童・菊王丸を打ち取るなど源氏軍が奮戦し、次第に四国勢で源氏に味方する兵があつまって源氏軍も300余騎になって互角の戦になる。そんな中で夕暮れが迫ってきたので一旦休戦状態になった折に行われたのが扇の的を射るという話。
ここは「那須与一」のすぐまえの「嗣信最期」と「勝浦」の三句を通しで読むとよくわかります。
投稿: 川瀬 | 2018年5月14日 (月) 12:29
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
「前日の」ではなく,「早朝からの」の間違いでしたね。
「十七日の動き(戦いはなかったが,現地の武士数十騎を得て,総勢70・80騎となっていった)」
というのが私の中で抜けていて混線しました。戦記では戦いのない日は日付は書かれないのですね。
18日早朝に急襲・・・驚いて平家軍は全軍沖の兵船に逃げ移る・・・平氏が攻めて膠着状態で夕方に
18日の1日の間に早朝からいろいろなことが起きての夕方でした。書き出してみるとわかりました。
投稿: 肥さん | 2018年5月14日 (月) 13:34