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2018年5月 1日 (火)

奈良時代までの担当国は,すべて大和王朝の国だった!

『続日本紀』(下)が届くのをワクワクして待っていた。
というのは,これまでユキ国とスキ国の担当国は,
すべて大和王朝の支配下の国だったからだ。
その「法則」が続く以降の天皇でも成立するか,それともどこで途切れるか,
それが(下)を見れば検証されると思ったからだった。

ついに分かった。
(下)の2人の光仁天皇と桓武天皇も大和王朝の支配する国だったのだ!
つまり奈良時代までの担当国は,すべて大和王朝の国だった。

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そして,ここで「主語有無の論証」によって浮かびあがってきた例の件。
天武と持統の時の「九州王朝の天皇」の大嘗祭の時も,
九州王朝を大和王朝が財政的に支えてきていたと考えられる。
そして,さらに「もしかしたらそれ以前も・・・」と。
それは史料がないので語りすぎだけれど。

大陸や半島との戦争(特に無謀だった白村江の戦い)に明け暮れた九州王朝に対し,
豊かな水田からの恵みである米で財力を付け,巨大古墳を作った大和王朝。
昔から政権を持つ九州王朝と財力なら負けない大和王朝。
その交代が,7世紀末・8世紀初頭についに起きた。

※ 光仁天皇以降は,別項を参照のこと。

※ 『続日本紀』では,701年に大宝を建元(初めて年号を作ること)したと言っている。
九州王朝の時代が終り,大和王朝の時代が始まったのだ。

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コメント

肥沼さんへ
 大嘗祭を支えた国々が「大和王朝の国々」だった。
 ・・・・だから天武以前もまた「近畿天皇家」が支配した地域が九州王朝の大嘗会を支えたのではないか。直接の史料がないから言い切れないが、そう考えたいというのが肥沼「仮説」ですか?

 肥沼さんがリンクした「レファレンス共同データベース」に興味深い記事があった。「八世紀末の光仁天皇からは、悠紀は東国、主基は西国から選ばれる慣例が定まった。」と。
 これは国を東西に分けたうえで、なるべくすべての国に分担させたいと考えたからではないか。その方が王権に奉仕する観念を強化し、支配を強化できるからだ。
 とすればこの考え方は、光仁以前からもあったのではないか。ここで東西に分けたのはちょうど都が列島のほぼ真ん中にあったから。
 でも九州王朝時代だと都が西の隅にあるから、東西に分けるということは無理。そして「近畿天皇家」が列島代表王朝となった8世紀以後は、全国が直轄地だったからこういうことができた。
 それ以前は列島はいくつかの王朝の連合だった。
 とすれば、それぞれの王朝の支配域に順繰りに大嘗会を支えさせたと考えてもおかしくはない。
 もしくは全国に置いた屯倉に大嘗会を支えさせたと考えてもおかしくはない。

 先の肥沼仮説は、たまたま天武以降の大嘗祭を支えた地域が、「近畿天皇家」の固有の支配領域(これも通説的理解であって、たしかなことは言えない)であったことからきたものではないでしょうか。
 たしかに書紀で一番最初に大嘗会が出てくる顕宗紀でも、支えた国として播磨が出てくるが、この時期に播磨が九州王朝の領域だったのか、近畿天皇家の領域だったのかはわからないのだし、書紀はこれ以外の大嘗会記録を削除してしまっているので、何とも言えない。

※あと「大和王朝」という言い方はどうでしょうか? 近畿天皇家の都は「大和国」だけではなくて、その周りの「河内」や「近江」「山背」「摂津」にあった時期もありますね。近江京は二度あった。仲哀の時期と天智の時期。「大和王朝」では、通説派の認識と混同しますので、「近畿天皇家」と古田学派では呼んできたと思います。「九州王朝」に対立した地理的概念ならば「近畿王朝」が良いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  それ以前は列島はいくつかの王朝の連合だった。
 とすれば、それぞれの王朝の支配域に順繰りに大嘗会を支えさせたと考えてもおかしくはない。
 もしくは全国に置いた屯倉に大嘗会を支えさせたと考えてもおかしくはない。

そうかもしれませんが,そうでないかもしれません。
よくわかりません。

〉 ※あと「大和王朝」という言い方はどうでしょうか?

呼び方には,まだ迷っているところです。前は「大和政権」と呼んでいました。
九州王朝のように主権は持っていないということで,違いを出しました。
今は「大和王権」ですが,力的にはそれほど違わないということで,同じ「王権」を付けました。
近畿天皇家はあまりにも「王朝」と「家」のイメージが違い過ぎて,使えないでいます。

肥沼さんへ
 このユキ国・スキ国分布図でわかること。
 それは近畿天皇家の固有の領土である五畿(畿内五か国・大和・山城・河内・摂津・近江)が完全に除外されていることです。
 これは天皇家の固有の領土以外の地域に、天皇の継承祭祀を担わせることで一体感を醸成するという狙いだと思います。
 ということは、九州王朝の時代にも大嘗会を担った国は、九州王朝の固有の領土・畿内五か国(五畿・七道はこの時代に生まれたと考えます。五畿は長門・筑前・筑後・豊前・豊後だと思う)は大嘗会を担う国からは除外され、それ以外の後に九州王朝に統合された地域の国に分担させたのだと考えることができます。そしてさらに、九州王朝の分王朝の地域も天照以来の天皇家を奉戴していることには変わりがないので、この地域も除外される。
 したがって大嘗会から除外される地域は、九州王朝の畿内諸国・吉備・近畿天皇家の領国・古毛野(凡毛野かな?)だと思いますね。書紀・古事記の神話から見て。
 他に列島の有力豪族で天皇家の分家ってあったかな?

※いまひとつ疑問が。
 なぜユキ国・スキ国と二つの国に担わせるのか。これは大嘗会の二つの祭殿に対応しており、ユキ殿が東の祭殿、スキ殿が西の祭殿で、最初にユキ殿で祭祀を行い、次にスキ殿で祭祀を行うのだそうだ。だからユキが主と考えて、スキを次と考えているような。でもなんで東西二つの祭祀殿が必要なんでしょうね?

肥沼さんへ
 この大嘗祭に関する話題も、「古田史学の継承のために」ブログにまとめてリンクしておくと良いと思います。あとで参照するのに便利です。
 大嘗祭がいつ始まったのかも、一元史観ではなく多元史観でみるとこうなるという、例を端的に示した議論だと思いますので。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 したがって大嘗会から除外される地域は、
九州王朝の畿内諸国・吉備・近畿天皇家の領国・古毛野(凡毛野かな?)だと思いますね。
書紀・古事記の神話から見て。

なるほど。「なかった側」からの推理ですね。
それはなかなか説得力がありますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この大嘗祭に関する話題も、「古田史学の継承のために」ブログにまとめてリンクしておくと良いと思います。あとで参照するのに便利です。
 大嘗祭がいつ始まったのかも、一元史観ではなく多元史観でみるとこうなるという、例を端的に示した議論だと思いますので。

はい,わかりました。
これからやってみます。

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