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2018年5月 9日 (水)

学問は実証より論証を重んじる

「学問では実証より論証を重んじる」という話題が
古田史学の研究者の間で出てから久しいが,
その発端(火元というか)に私も関わっているので,
私の今の考えを書いておきたい。

実証・・・魏志倭人伝の中に「壹」と書いてあるから「邪馬壹国」は正しい
論証・・・三国志の悉皆調査をして,「壹」と「臺」の誤用例なし(しかも,「壹」は至高文字)

このような関係なのかと思う。
実証の弱さは,「後漢書には「臺」とあるからそれが正しい」
という解釈を生み出すことだと思う。(5世紀時点ではそうなのだが)
卑弥呼の時代(3世紀)の同時代史料は魏志倭人伝であり,
やはりそちらが後代の史料に優先されるべきなのである。

では,実証には意味がないのか,ということである。
私はそんなことはないと思う。
実証を突き詰めていくと,その先には論証があり,
いろいろな角度からの論証が重なるところに,
歴史の真実を明らかにされるのだと思うから。

だから,違う角度から研究している人は大切にしなければいけないと思うし,
実証的な研究を発表する言論の自由も大切であるということだ。
しかし,そこで留まってはいけない!
というのが,「実証より論証を重んじる」ということなのだと思う。

これは,森羅万象を扱う哲学と狭い範囲を確実にとらえる科学との関係と
似ている部分があると思った。(この話は板倉さんから時々聞いた)

学問は実証より論証を重んじる(古賀さん)

(1) → (5)へとお読み下さい。

http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/2013/11/

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さん、ヘルプです。
津南町に宿泊学習して、農家にホームステイして、田植え体験をするのですが、
一時間、「津南町」についての学習をしなければなりません。
何かいい資料や、学習プログラムなどあったら教えてください。

肥沼さんへ
 肥沼さんは「論証」の意味を正しく捉えていますね。
 「論証」といっても「仮説」を積み上げていくことではなく、他の史料を調査してその史料状況からある「仮説」を証明するということなのです。

>実証・・・魏志倭人伝の中に「壹」と書いてあるから「邪馬壹国」は正しい
論証・・・三国志の悉皆調査をして,「壹」と「臺」の誤用例なし(しかも,「壹」は至高文字)

 古田さんは通説派の「壹」と「臺」の誤用説を、三国志の史料状況を明らかにすることで、「壹」と「臺」の誤用説という仮説を、これは間違いだということを実証し、三国時代の日本の国名は「邪馬壹国」であるという自らの仮説を論理的に支える事実を見つけたのです。これを「論証」といいます。
 これによって三国時代の国名は、「邪馬壹国」であることが確定したわけです。

 でも残念ながら、この「実証」と「論証」の関係を正しく理解せず、「論証」ということは「仮説」を論理的に積み上げていくことだと思っている人が多いですね。「論証」は、史料事実を論理的に組み立てて、ある「仮説」を「実証」すること。

肥さんへ

肥さんとは別の視点で論じました。
ブログをご覧いただければ幸いです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

実は昨日古賀さんたちと話をしたことが,
自分でちゃんとわかっているかを確かめるために
この項を書きました。
川瀬さんがプラス・コメントを書いていただけたので
ホッといたしました。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

さっそく貴サイトへ訪問させていただきます。

【訪問後】

つまり,論証するということは,
科学的方法をとるということなのですね。

肥さんへ

>論証するということは,科学的方法をとるということ

肥さんは要約も得意ですね。私の論旨を見事に要約して頂きました。
ありがとうございます。

肥さんへ

私のブログへ(追加注記)を加え、コメントで説明をしました。
ご覧いただけば幸いです。

史料事実は実証とは呼べないと思います。史料事実をベースにした論証が実証であり、その実証を基礎として論じるのが論証ではないのですか?

山田さんのブログを久しぶりに覗いてみました。
 「学問は実証より論証を重んじる」を読むためにのぞいたのですが、私には他の項目のほうが興味深かった。
 妄想「改新の詔と五畿」
 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/05/post-3933.html
 「改新の詔」と「畿内」範囲図
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/05/post-192e.html
 書紀の「大化改新の詔」に「畿内」を定めた記述があるわけだが、山田さんはこれを地図にしてみた。
 その結果、この畿内範囲図の中心は大和ではなく「難波宮」にあることが分かったというのが「改新の詔」と「畿内」範囲図で、この範囲に含まれる畿内五か国を、「範囲に含まれるというのは国府がその範囲にある」と考えて畿内五か国を比定してみたのが、妄想「改新の詔と五畿」だ。
 山田さんは「妄想」と銘打っているがそんなことはなく、書紀記事の詔記事という史料を使い、それを地図に落としてみるという実証的手法を使い、さらに国が範囲に入るとは国府がその範囲にはいることだとの論理的思考を駆使して得た、きわめて科学的結果だと思います。
 一点だけ修正すれば、和泉を河内から独立したと考えて五畿に和泉を入れたが、和泉が独立したのは8世紀なのでこれは河内に入れ、新たに「近江」を入れるべきだと思う。近江国庁は滋賀県大津市大江三丁目・大江六丁目・三大寺に発見され、山田さんが図示した範囲にちゃんと入っているからだ。
 この山田さんの発見からいくつかの問題点が出てくる。
この「畿内五か国」は難波宮を中心として定められているわけだが、
1:この五畿を定めた王朝はどこか?
2:この五畿を定めた天皇は誰か?
という問題だ。
 通説の一元史観に立てば答えは明瞭。近畿王朝の孝徳天皇だと。
 しかし九州王朝説に立てばこたえはいくつも可能性が出てくる。
1:この詔の畿内を定めた文がもともとの九州王朝史書にあったと考える。
 こう考えると、この改新の詔が出された当時には、九州王朝の都は難波宮にあったとなる。つまり7世紀中ごろの九州王朝の天子が定めたのだと。
2:この詔の畿内を定めた文は盗用に際して改竄されていると考える。つまりもともとはここに九州王朝の畿内を定めた文があったが、これを天武が定めた近畿王朝畿内に差し替えたと。こう考えるとここにもともとあった畿内の文は、太宰府を中心として東西南北の範囲を定めたものとなる。この場合も7世紀中ごろの九州王朝天子が定めたもの。
 さあどちらだろうね?
 私は後者だと思う。
 太宰府を中心として東西南北に、畿内の範囲を示すランドマークに相応しい場所はどこだろうか?
 山田さんの提起した問題はとても興味深い。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 私のブログへ(追加注記)を加え、コメントで説明をしました。
ご覧いただけば幸いです。

では,訪問させていただきます。

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