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すでに「无射志国府寺」が建てられていたのではないか?

山田さんに指摘されて思い出した。
10年ほど前に川崎方面に多元の会の小旅行へ行ったことをだ。
その時のメインの展示物が,「无射志国荏原評銘文字瓦」と名付けられた文字瓦だった。

「へー,珍しいものが出たなあ。でも,私の住んでいる地域とはあまり関係なさそうだ」と思い,
私の住む地域から文字瓦が「武蔵国分寺」に集められていたのを結び付けなかった。

しかし「无射志(むざし)」とは「武蔵」のもとの名で,評制時代の呼び名だったとすれば,
武蔵国分寺の前身は「无射志国府寺」だったのかもしれない。
もちろん,九州王朝が設置したものだ。
それを近畿天皇家の時代になって「武蔵国分寺」と改名しようとした疑いがある。


无射志国荏原評銘文字瓦

www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000861.html

「本文字瓦の出土で明らかになったことは、7世紀後半の橘樹評における寺院建立に際し、
隣接する荏原評から平瓦が搬入されていた事実である。
橘樹評という行政区画ではなく、広く武蔵国南部の評から協力・支援を得て、
影向寺が創建されたのである。
つまり影向寺は、橘樹評に居住していた有力氏族が自らの財力だけで
建立したというような性格の寺院ではないといえる。
したがって影向寺の考察においては、行政的側面や
仏教における知識的要素を考慮する必要が生じることになった。
こうした重要な事実を示した本文字瓦は、古代南武蔵の歴史を知る上で極めて重要であり、
考古学ばかりか、歴史学・宗教史・文化史・建築史上、価値の高い資料である。」

武蔵国分寺跡資料館に収蔵されている瓦には「郡」とも「評」とも書かれておらず,
解説や『武蔵国分寺のはなし』には当然のことながら
一元史観的表記で書かれていて気付かなかったが,
まだ,九州王朝の時代だから当然のこと「評」だったのだ。
つまり,「素弁」はもちろん「単弁」の初期も九州王朝の「評」の時代だったわけで,
「无射志国府寺」という概念を入れると,これまで不明だったことが明らかになってくると思う。


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コメント

肥さんへ

>「无射志国府寺」

ついに命名しましたね。拍手!拍手!

投稿: sanmao | 2018年5月 8日 (火) 13:37

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ついに命名しましたね。拍手!拍手!

「命名ばかりしている」と陰口を言われないように,
さらに研究を進めていきたいです。

投稿: 肥さん | 2018年5月 9日 (水) 00:32

肥さんへ

私は下記解説文に対してとても不思議に感じることがあります。

>橘樹評という行政区画ではなく、広く武蔵国南部の評から協力・支援を得て、
 影向寺が創建されたのである。
 つまり影向寺は、橘樹評に居住していた有力氏族が自らの財力だけで
 建立したというような性格の寺院ではないといえる。

このように書いたら、私なら次のようなことが疑問になって、これをまず考えます。

1)橘樹評の有力氏族は自らの財力だけで建立できない影向寺を何故建立しようとしたのだろうか?
(財力がないのなら建てなくてもいいじゃないか。建てられる財力ができたら建てればいいじゃないか)

2)武蔵国南部の評は橘樹評の影向寺建立に何故協力・支援しなければならなかったのだろうか?
(自らの財力で建てられない寺を建てようとする評に、協力・支援する義理などないじゃないか)

こんな目の前にある疑問を問わずに済ませておいて、
「行政的側面や仏教における知識的要素を考慮する」ことの方に
何故研究を進められるのでしょうか。
全くこのような神経には驚きます。

この1)と2)の理由を「行政的側面や仏教における知識的要素」で説明しようとする神経は尋常ではありません。
「外部から寺を建てろという強い圧力があったから」という答えのどこが間違っているのでしょうか。
こんなシンプルな答えを差し置いて、他にどんな理由があるというのでしょうか。

「他から(外部から)の強い圧力が無いのに貴方たちはそうするのですか?」と聞いてみたくなります。

変に小難しい理由を考え出すことが学問だという錯覚があるのだと思います。
「自分の頭で考えない」からこんな“学者”になったのだと思います。
たぶん“優等生”だったのでしょう。

投稿: sanmao | 2018年5月 9日 (水) 00:42

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「自分の頭で考えない」からこんな“学者”になったのだと思います。
たぶん“優等生”だったのでしょう。

そうかもしれませんね。
優等生は,史料に出ていればそれにこだわり(国分寺建立の詔),
史料に出ていなければ,変な理屈を考えだす(无射志国荏原評銘文字瓦),
「特殊能力」の持ち主です。
私たちはシンプルに,それは「外部から寺を建てろという強い圧力があったから」と答えましょう。

投稿: 肥さん | 2018年5月 9日 (水) 00:56

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