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2018年5月 7日 (月)

武蔵国分寺に,〈複弁〉はなかった!・・・ということは?

川瀬さんとの武蔵国分寺の軒丸瓦をめぐるやり取りの中から,
「武蔵国分寺の軒丸瓦には〈素弁〉と〈単弁〉はあるが〈複弁〉はない
という事実に焦点を当てたらいいのではないか」という話になってきた。

A 素弁・・・600年前後
B 単弁・・・7世紀半ば
C 複弁・・・白鳳以降奈良・平安

という服部さん紹介による石田茂作指標によれば,
素弁と単弁の時期には存在した武蔵国分寺は
「複弁のCの時期はなかった!」ということになってしまうのだ。

でも,塔は9世紀半ばの落雷火災によって焼失したとあり,
その再建に尽くした人がいたという話もある。これはなぜなのだ?

この謎を解くカギはやはり,741年の聖武天皇の国分寺建立の詔を
(「国分寺」はなかった!でおなじみですね)
スタートにしているからではないのか。
それより100~150年早いスタートを切っているとすれば・・・,

600年頃・・・九州王朝によって,素弁を使った最初の塔1が建てられた(国府寺?)
7世紀半ば・・・単弁を使って,その他の建物も建てられた
しかし,地震などが原因で塔1が倒壊,単弁で建て替えられた(白色粘土による耐震対策)
その後,白鳳期になり複弁が流行した
835年,落雷によって塔1が消失した
845年,男衾郡の前大領の壬生吉志福正が再建を願い出て許可された(続日本後紀)
複弁を使って塔2を再建しようとしたが版築だけに終わった

などという,これまでに想像できなかった武蔵国分寺の歴史が明らかになるのではないか。
題して,「武蔵国分寺に,〈複弁〉はなかった!」。なかなかいいと思いませんか?

そして,もっと驚くべきことを言えば,〈複弁〉がないということは,
つまり〈素弁〉にしても〈単弁〉にしても「聖武以前」ということになり,
完全に大和王朝=近畿天皇家と関係のない「国分寺」=だったということにならないか。
そんな思いがし始めている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) [武蔵国分寺」がいつ誰によって創建されたかわからない。
(2) しかし,741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出したのは間違いない(続日本紀)
(3) そして,835年に塔が消失して,845年に再建を願い出て許可されたのも間違いない(続日本後紀)

(2)と(3)しか史料がないと,普通は思考停止し,(2)がスタートなのではないかと考えてしまう。
しかし,私たちには,九州王朝説という多元史観を持っているので,
(1)の段階があったのではないかと考える。
そうすると,なかなか解けなかった武蔵国分寺の謎が,
伽藍配置や瓦の変遷から解けて来るのではないかと私は考える。

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コメント

肥さんへ

郡評論争は700年までが評、701年以降が郡と木簡から決着がつきました。

武蔵国分寺の出土瓦の特徴の一つに、膨大な量の文字瓦が出土している、ということがあります。
この文字瓦は武蔵国二十一郡のうち二十郡の名を示す文字瓦が出土しているとされています。

>完全に大和王朝=近畿天皇家と関係のない「国分寺」だった

とすれば、この「二十『郡』の名を示す文字瓦」というのは、
「二十『評』の名を示す文字瓦」ということにならざるをえません。


“武蔵国分尼寺”が東山道武蔵路に沿って正方位でつくられていて、
武蔵国分寺の寺地区画溝が後の時代に、
武蔵国分二寺(僧寺と尼寺)を統合しようとして掘られていることを考えると、
“武蔵国分尼寺”は(おそらく塔1も)、武蔵路の完成時期にごく近い時期に創建された。
つまり、武蔵路が7世紀第2~第3四半期頃(650年前後か)に造られたと仮定すれば、
“武蔵国分尼寺”もその頃と考えねばならないでしょう。

武蔵国分寺の文字瓦には「郡」の名ではなく「評」の名が示されていたことになります。
論理的にはそういうことになるのではないでしょうか。

したがって
武蔵国分寺が何時頃創建されたかははっきりとはわからないが、
武蔵国は『評』の時代から『郡』の時代にいたるまで、
ほとんど分評や合評などの評の分割・統合はなかった。
(従来説は「日本国の郡名」と考えていたでしょうから)
ということになるのではないでしょうか。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 とすれば、この「二十『郡』の名を示す文字瓦」というのは、
「二十『評』の名を示す文字瓦」ということにならざるをえません。

〉 武蔵国分寺の文字瓦には「郡」の名ではなく「評」の名が示されていたことになります。
論理的にはそういうことになるのではないでしょうか。

以上の山田さんのコメントと私の「无射志国荏原評銘文字瓦」の知見をプラスして,
「无射志国府寺」というイメージを描いてみました。
「无射志国荏原評銘文字瓦」の項をお読みいただければ幸いです。

軒丸瓦の歴史:
 服部さんが示されたものは、少し単純化しすぎているように思えます。
 しらべてみると、「単弁蓮華文軒丸瓦」は、たしかに7世紀中ごろに出現し、「複弁蓮華文軒丸瓦」が7世紀末に生まれ、8世紀以後の奈良時代・平安時代は「複弁」が主流です。
 しかし少し異なる動きもあったようです。
 つまり奈良時代中ごろになると「単弁蓮華文軒丸瓦」が復活し、奈良時代末にはこれがかなり増えて、平安時代もこの二つの様式が平行していたようなのです。
 とすると武蔵国分寺が素弁と単弁だけなのだから飛鳥時代の寺とは単純に言えなくなります。
 参考資料を挙げておきます。
1:奈良文化財研究所考古第三研究室Archaeology Section 3古代の瓦
 https://www.nabunken.go.jp/org/tojo/tile.html
「奈良時代を通じて複弁蓮華文は主流ですが、中ごろからは単弁蓮華文も再び現れます。前段階のものよりも若干華奢な印象を持つものが多いのも特徴でしょう。」
「奈良時代が終わりを告げ、都が平安京に移されても、軒丸瓦で単弁・複弁蓮華文が、軒平瓦で唐草文が古代瓦文様の主流であり続けますが、中世にいたると文様は簡素化し、軒丸瓦では巴文や文字瓦が、軒平瓦では簡素な唐草文のほかに連珠文、波状文、文字瓦などが出現していきました。」
 との記述があります。

2:平成22 年度秋季特別展 平城遷都1300 年記念特別展 パンフ「平城の甍」
 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/1/1207/951_1_平城の甍.pdf
 
 「奈良時代中頃になると単弁蓮華紋軒丸瓦が出現する。東大寺式軒瓦に代表されるように、軒丸瓦は外区外縁の紋様をなくしたものが現れ、」
「奈良時代後半になると、軒丸瓦は単弁蓮華紋が増え」

 奈良時代中ごろに復活した「単弁」の典型的なものは東大寺様式と呼ばれ、かつての単弁と比べ「華奢」なものという。武蔵国分寺の再建期の瓦とされているものは、この東大寺様式に似ているし平城京からもよく似たものがでるようです。
 服部さんも「素弁」が後世に復活したことを示されていて、その場合には軒丸瓦の周囲に装飾的文様が多用されるとされていた。
 瓦の様式は文字通り「リバイバル」があるということです。少し様式を変えて。
 
 やはり「素弁」「単弁」のそれぞれの瓦が遺跡のどこから出土しているかを確かめないと、確かなことは言えないようです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 やはり「素弁」「単弁」のそれぞれの瓦が遺跡のどこから出土しているかを確かめないと、
確かなことは言えないようです。

そうですか。なかなか難しいものなのですね。
確かに「素」→「単」→「複」は,1つの目安ではありますが,
その外にも見なければいけない要素があるということですね。
それに配慮しながら,研究を進めていきたいと思います。

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