7世紀の寺院数の激増グラフ
推古三十二年(624年)に四六箇寺だった(日本書紀推古三十二年九月条)だったものが,
持統六年(692年)には五四五箇寺(扶桑略記持統六年九月条)になったという記事がある。
70年足らずの間に10倍以上の激増である。
627年の寺の数 692年の寺の数
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では,この間に「国分寺建立の詔」のようなものは出されたのだろうか。
「国分寺建立の詔」と呼ばれるものは聖武天皇が出したと言われているが,
そもそも聖武天皇は大宝元(701)年の生れであり,8世紀の人である。
そして,その前の世紀は,大和政権は中国から「主権者」とは見られず,
九州王朝に次ぐナンバー2の立場だった。
もちろん白村江の戦い(662か3年)九州王朝が唐・新羅の連合軍に敗北し,
日本列島のかじ取りを任されつつあったにしても,
他の天皇が「国分寺建立の詔」のようなものを出したとは聞かない。
とすると,この激増(おそらく白村江の戦い以前)を引き起こした詔勅は,
九州王朝の天子が出しものと考えられる。
そして,日本書紀(720年)はそれを知らなかったのではなく,あえて書かなかった。
100年前のできごとであるから,私たちから見れば明治どころか大正時代だ。
まだ生きている人はたくさんいる。(今年はちょうど,「明治150年」ということ)
「あえて書かなかった」という理由としては,
大和政権は唐(北朝)と同じ立場を取ったので,
敵対した九州王朝(南朝系)の事績は「なかった」ことにされるし,
同じ意味で卑弥呼や倭の五王も登場しないのだ。
※ 上のグラフは,今年の2月7日に亡くなった板倉聖宣さんが,
生前「数字が出てきたらグラフにしてみよ」と言っておられたのを思い出し,
今回古田史学の内容ではあるが,試みに行ってみた次第である。
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この寺院数の激増の背景に朝廷からの何らかの指示があったはずと考えた学者は、天武天皇14年(685年)3月27日の詔「国々で家ごとに仏舎をつくり仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ」が全国的に寺院を建立せよとのものと考えたわけ。だがこの「家」の解釈で、家を「国衙」や「郡家」と考えた人と、単に個人の家と考えた人との違いがあって論争が続いている。
九州王朝の存在を認めない学者にとっても、この寺院の激増の背景は謎であるが、九州王朝の実在と、九州王朝による国府寺・国府尼寺建立の詔があったが書紀編纂過程でなかったことにされたと理解すると、通説での謎が解けるわけです。
投稿: 川瀬 | 2018年4月 5日 (木) 01:20
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
一元史観の考え方では,天武の詔にすがるしかないのでしょうね。
しかし,多元史観をいただく古田史学では,それを越えた歴史理解が可能となる。
まだまだやらなくてはいけない仕事があるようです。
投稿: 肥さん | 2018年4月 5日 (木) 02:18