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2018年4月11日 (水)

国分寺出土・蓮華文軒丸瓦の「素」「単」「複」調査(1)

とりあえず服部さん提案の「素」「単」「複」の3種類の分け方で,
国分寺出土・蓮華文軒丸瓦を分類してみることにする。
何回も建て替えられて,複数の種類が混在していることや,
どちらに判定していいか迷うものも少なくないが,
あるものを示し,参考になりそうな解説を写していきたい。
『新修 国分寺の研究』と『国分寺の創建』による。

まず,多元的「国分寺」研究のキッカケとなった武蔵国分寺から。

(1) 武蔵国分寺・・・「素」「単」「複」

武蔵国分寺ほど多様な瓦文様を使った寺はないといってよいであろう。
瓦の出土量も多く,その文様のさまざまに・・・

(2) 上野国分寺・・・「単」「複」

軒丸瓦には単弁で四,五,六.七,八,九,一二,一五葉のものがあり,
複弁には四,六.(七),八葉のものがある。
そのほか花弁の形をなさないものや無文のものもあり,
多種多様な様相をみせている。

(3) 下野国分寺・・・「素」「単」「複」

軒丸瓦は二二類にわけられている。

(4) 信濃国分寺・・・「素」「単」「複」

軒丸瓦の最も多いものは八葉複弁連花文であり,
奈良東大寺や平城宮跡などに同様なものが見出されるという。
ほかに蕨手文のものがあり,これはのちに述べる
軒平瓦の均斉連花文のものと組み合わされたものとみなされる。
ほかに四葉単弁蓮花文・三重圏文・十二葉素弁蓮花文のものがある。

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コメント

 つまり結論から言うと
 武蔵・下野・信濃の国分寺は素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているのだから、その創建は600年前後という結論になる。
 つまりこの寺は聖武の詔が出るよりずっと前からあるということだ。
 要するに九州王朝が立てさせた「国府寺」が前身という私たちの仮説が、瓦から証明できるということ。

 これに対して上野国分寺は単弁と複弁だから少し時期が後ろにくる。でも単弁が一番古いものだとすれば、この寺の創建年代も7世紀中ごろとなり、これも聖武詔よりずっと古く、ここも「国府寺」だったと判断できるわけ。

 服部さんの研究は「画期的」。
 従来の考古学者が畿内を中心に次第に瓦も普及したと考えていたので、600年前後と考えられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土した寺院跡も、地方の場合はずっとのちの寺院をしてきた。これは間違いだというのが服部説。この認定は正しいと思う。
 ただし600年前後創建の寺院が全国に多数分布することをもって「九州王朝の東進」としたことは勇み足。
 これは古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説を前提としている。
 この前提をはずしてみても、先の寺院の分布は、600年前後からすでに九州王朝は列島全体を直接統治の方向に変えようと動いていたと結論はだせるし、聖徳太子の事績とされた17条憲法がタシリホコの事績とみれば、600年代初頭に置いてすでに九州王朝は、天子が直接統治する形に国を変えようと動き始めていたと結論づけることは可能だ。
 でもあくまで中心は太宰府。

 のちほど服部説の詳しい評価をお送りします。
 これは「多元的国分寺サークル」のサイトにきちんと論文として乗せた方が良いですね。
 ぜひ国分寺の瓦の確認。どんどん進めてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

服部さんの画期的な研究で,
多元的「国分寺」研究がさらに進みそうですね。
私も「先行投資」していた甲斐があろうというものです。
川瀬さんの論文を楽しみに待っています。

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