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2018年4月28日 (土)

「大和王朝のユキ国とスキ国」の分布図(改訂版)

「大和王朝のユキ国とスキ国」の分布図
大嘗祭のための新米を作るらしいユキ国(第1水田担当)と
スキ国(第2水田担当)を書き出してみた。

天武天皇・・・播磨・丹波
持統天皇・・・播磨・因幡

文武天皇・・・尾張・美濃
元明天皇・・・遠江・但馬
元正天皇・・・遠江・但馬
聖武天皇・・・備前・播磨
孝謙天皇・・・因幡・美濃
淳仁天皇・・・丹波・播磨
称徳天皇・・・美濃・越前

講談社学術文庫の『続日本紀』(上)(中)から抜き出した。
(下)を入手したら,増やしてみたいと思う。
例によって,分布図をどうぞ!
(天武と持統は緑色で,文武以下はピンクで示しました。)

Dscn1870

※ 天武と持統の大嘗祭は,例の「主語有無の論証」によると,
主語無し=九州王朝の天皇が主体ということになるので,

ホンモノの大和王朝の天皇である文武以降と区別しました。
※ 九州王朝の時代の大嘗祭(少なくとも白村江の敗戦以降)は,
大和王朝による財政的援助のもとで行われていたと思われます。

※ 山田さかんから,播磨と摂津を取り違えているというご指摘を受けました。
その通りです。ありがとうございました。持つべきものは,「研究仲間」ですね。
その後,もう一度確認したところ,因幡が2つなければいけないのに,
1つが伯耆に行ってしまっているのに気が付きました。謹んで訂正いたします。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

日本書紀にはもう一か所、大嘗会の記事があります。
 それは清寧紀。
 「二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸國、置白髮部舍人・白髮部膳夫・白髮部靫負、冀垂遺跡令觀於後。冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨國司、山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、賜以兩兒。」是月、使小楯持節、將左右舍人、至赤石奉迎、語在弘計天皇紀。」
 話としては偶然に、のちに清寧の後に近畿天皇家を継ぐ二人の皇子を見つけ出した話なのだが、その切っ掛けが、清寧二年冬11月に、大嘗会の供物を整えるために、播磨国司で山部連の先祖の伊豫來目部小楯を遣わしたところ、明石郡の縮見屯倉の首である忍海部造細目の新築の家で、(その祝いの場で)二人の皇子を見出したという。
 この時の大嘗会も九州王朝の天子の大嘗会で、その供物を整える場所として当時も播磨国が選ばれていることを示す。そして播磨国司を派遣する主体が省略されているから、九州王朝の天子が命じたことであり、この時期の播磨国は、九州王朝の領域であったことを示している。
 だから近畿天皇家の内紛で殺されかけた皇子が隠れ済んだところが、近畿天皇家の領域外であったことは、話に信憑性を与えるものであろう。

 この話は、九州王朝と分家である近畿天皇家の領域の境界を示す話としても重要である。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

なかなか興味深い話です。
この時期は,播磨も九州王朝の領域だったのですか。
「主語有無の論証」がまたも活躍しましたね。

 先のコメントの訂正です。
 播磨国が九州王朝の領域というのは誤りです。
「今の播磨国司・山部連先祖○○」を派遣して大嘗会の供物の用意をさせたところ、近畿天皇家の皇子を二人見つけた場所が、「今の赤石郡にあった縮見屯倉の首・○○の新築の家:という。
 つまりこの話が意味していることは、
 ①すでにこのころ九州王朝では大嘗会が行われていた。
 ②播磨国の赤石に縮見屯倉というものがすでにあった(九州王朝は全国主要箇所に屯倉を置いていた)。
 ③この縮見屯倉が大嘗会の供物を作るところに指定された。
 という意味です。

 以上訂正です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまりこの話が意味していることは、
 ①すでにこのころ九州王朝では大嘗会が行われていた。
 ②播磨国の赤石に縮見屯倉というものがすでにあった(九州王朝は全国主要箇所に屯倉を置いていた)。
 ③この縮見屯倉が大嘗会の供物を作るところに指定された。
 という意味です。

なるほど。逆に言うと,支配地に屯倉はおくことはなかった訳で,
屯倉がある=そこは支配地ではない,ということになる。
今までは屯倉と言えば,大和王朝の屯倉しか考えられなかったが,
九州王朝の屯倉は他の王朝内に設けられた訳だから,播磨は大和政権の支配地となる。
近畿天皇家の二人の皇子は,その治外法権的な土地である九州王朝の屯倉の中に
隠れ潜んでいたということになりますね。(スリリングな話ですが)

肥沼さんへ。
 屯倉は他の王朝の内部にのみ設けられたのでしょうか。
 屯倉とは天皇の直轄地。いわゆる大化改新までは、九州王朝と言えども、領国の大部分はそれぞれの豪族の直轄地。したがって九州王朝の畿内でも屯倉は置かれていた。書紀安閑紀に、筑紫・豊・火の国にも他の国と同様多数の屯倉が置かれた記事があります。
 だから播磨の赤石に屯倉があっても、播磨国が九州王朝の支配地域ではないとは言い切れません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

ということは,

(1) 九州王朝が「近畿」に持っている屯倉
(2) 九州王朝が「近畿」ではない地域に持っている屯倉・・・今回の屯倉

ということですね。

そして,(2)に近畿天皇家の2人の皇子がいた。かくまわれていた?

肥沼さんへ
 「近畿」という言葉だと近畿天皇家の近畿と紛らわしいので「畿内」とした方が良いと思います。
 つまり
(1)九州王朝が「畿内」に持っている屯倉
(2)九州王朝が「畿内」ではない地域に持っている屯倉・・・・今回の播磨赤石の縮見屯倉

>そして,(2)に近畿天皇家の2人の皇子がいた。かくまわれていた?
 これは書紀清寧紀の当該の文を読んでみればわかります。すぐ原文にあたるのが基本です。

※もう一つ「屯倉」のイメージについて。書紀の「屯倉」を全部検索してみると、中にはのちに幾つかの郡に分割されたと書かれたものもあります。つまり数郡にわたる広大な地域ももった物もあるということです。したがってここには、「屯倉」の地域を治める官家があり、そこに駐屯する高級官僚(武官?)と配下の下級官僚。そして兵たち。もしかして兵は文字通り「屯田兵」なのかもしれません。「屯倉」の「屯」はそういう意味かも。そしてこの地域からの税を収納する「国倉」が置かれた。
 たしか孝徳紀でしたが、「小郡の屯倉を宮に改造した」との記述があり、ここで「礼制」を定めたとの九州王朝の記事があったと思います。つまり宮殿に改造できるほどの大きな官家があった。
 この二人の皇子が見つかった場所はこの屯倉の首の新築の家とあるので、これは九州王朝から派遣された官僚。そこにさらに上級の官僚が都から派遣され、大嘗会の供物の準備に赴いた。九州王朝の高級官僚が来たのをチャンスととらえた二人は、屯倉の首に舞を所望されたのを機会として、自分の身分を名乗ったのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「近畿」でなくて「畿内」ですね。
わかりました。

「日本書紀」は確かに歴史を偽造している書ではありますが,
正しく読み解ければ,歴史の真実に迫れる宝庫にもなりうるようです。

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