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2018年4月 6日 (金)

瓦塔(がとう)よ,ありがとう!

私は瓦塔についての知識がほとんどなかったのだが,
例の『・・・瓦塔の建つ風景』冊子には,第2特集的に扱われている。
(これで300円だから,本当に安いなあ~)

「8世紀初頭から作られるようになり,全国で400例以上が出土しており,
九州から東北まで広い範囲に分布する」が,
「特に埼玉県から群馬県の東山道武蔵路に周辺での密度が高い」とあった。
となると,私としても一挙に関心が出てきた。

検索したところ,埼玉県内の分布図が見つかった。
「求めよ,さらば与えられん」である。

埼玉県内の瓦塔・瓦堂出土地分布図

http://www.ranhaku.com/web04/c5/4_02map_saitama.html

「特に東村山市の宅部山(やけべやま)遺跡出土瓦塔は,
瓦塔研究初期に初めて全体像がわかる資料として発表されたため,
瓦塔の典型例として知られている」という。(現在は,東京国立博物館所蔵)

丸石で基壇を築き,山腹の見晴らしの良いところに作られたようで,
なかなか興味深い歴史遺物である。
一度出土地に立ってみたい。(自転車で30分かな?)

Dscn1562

Dscn1563


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

>「8世紀初頭から作られるようになり・・・
そう簡単に「8世紀初頭から」を信じることはできませんね。
瓦塔にも「五重塔」と「七重塔」があるではありませんか。
木造五重塔より瓦塔の方が早かった可能性だってありますよ。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 そう簡単に「8世紀初頭から」を信じることはできませんね。
瓦塔にも「五重塔」と「七重塔」があるではありませんか。
木造五重塔より瓦塔の方が早かった可能性だってありますよ。

その通りですね。この冊子は「一元史観」で書かれていると思うので,
何かのきっけけで「多元史観」でとらえ直せないかと思い,アップしました。

瓦塔といえば、光明皇后が寄進したものがよく知られますがこれは小さなもので、東村山で出土したものは約2m。こうした大型のものは仏堂に安置したり屋外に塔の代わりとして安置されていたらしいですね。ただし発掘例のほとんどは破片だけなので、全体が復元されしかも当時の安置状況がわかるのは、ここ東村山と静岡の三ヶ日だけのようです。 
 8世紀初頭からとありましたが、これは関東・東北の例のようで、西日本だと例は少ないが、7世紀後半以前と判断できるものがあるそうです。
 「西日本の瓦塔集成」。三重大学?の修士論文のようです。
 https://mie-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=11554&file...
 埼玉県内の分布はまさに東山道武蔵路沿いですね。
 この理由を考えてみると興味深いことになりそうです。
 この道は上野国府と武蔵国府をつなぐもので、この沿線に多くの郡衙が点在するので、当時の武蔵ー上野の中心地域ですね。当然沿線には多くの集落があったわけで、そこには瓦塔を安置した「村の寺院」もあっただろうし、豪族が立てた寺院に瓦塔が安置された例もあったでしょうね。
 関東で瓦塔が最も密に分布するのが東山道武蔵路沿いというのは興味深いです。
 塔ですから当然のことに、塔を建立することが最大の功徳(極楽に行くための)とする「法華経」信仰が背景にあることは確実です。つまり浄土信仰。浄土信仰というと平安時代という「常識」がありますが、大宰府の観世音寺の金堂の仏像が阿弥陀仏であったことが示すように、そして法隆寺の金堂壁画が阿弥陀仏であることのように、すでに7世紀から確実に広がっており、例の観世音寺型寺院の分布が浄土思想の分布を示しているのではないかと考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

そうですか,法華経と関係ありそうですか。
すると,その注釈書である上宮法王の『三経義疏』(7割は中国の梁のお坊さん・法雲のと同じ内容らしいですが)とつながり,九州王朝が建てさせた瓦塔という感じも出てきますね。関東王朝は,九州王朝と関係があったためでしょうけど,仏教が早くから伝わったようで,古墳の中にも明らかに仏具風のものも副葬されています。
聖武天皇は8世紀半ばに「七重塔を建てよ」と詔しましたが,それより150年前に「瓦塔を建てよ」という上宮法王の詔があったのかもしれません。
東山道はいろいろな歴史の謎を秘めた宝庫ですね。

関東王朝ね。稲荷山鉄剣につながる大王の国ですね。
 私は別のアイデアが浮かびました。
 今のところネットで論文を読んだ限りでは、瓦塔の始まりは7世紀後半が一番古いということと、出土例のかなりの部分に窯跡から出ているので国家的にこれを配布した可能性があること、そして他の出土例では、村の寺とでもいうべき、小さな建物の中に瓦塔を安置したり、露天で柵を設けた中に瓦塔を安置した例が多いこと、この三つを根拠にして考えました。
 瓦塔の広がりは、天武天皇14年(685年)3月27日の詔「国々で家ごとに仏舎をつくり仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ」が背景にあったのではないかとのアイデアです。
 家々ですから村単位と考える。
 そして天武は天皇になっていませんからこの詔は当時の九州王朝の天皇が出した詔だと。つまり唐との戦に負けた九州王朝は、この列島を仏国土=仏の浄土にしようとの意図で家々村々でも仏舎を作ることを命じ、大規模な寺院は無理だから小規模な建物や聖なる区域を設けさせ、ここに国家が作成した陶製(須恵器のように固いので雨に打たれても大丈夫)の塔を全国に配布したのではないかと。
 これだとこの詔の意味も、瓦塔が7世紀後半以後全国に出土することの両方を解釈することが可能です。
 全国の瓦塔の出土例を精査しその形態と年代を確認する必要がありますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

陶器とはいえ,細部まで描写されているものもあり,
頂上部の水煙まで作られているのですから,
やはり国家的事業(九州王朝)ですかね。

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