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2018年4月17日 (火)

再び・山田さんの質問にお答えします

再び山田さんの質問にお答えします。
「赤間関」の存在理由についてです。

基本的に海峡は,潮の流れが急で,
関所には向いていると思います。
そして,実際佐賀関は8世紀前半までその役目を果たしました。
(716年,豊後ー伊予間の往来を許可する願いが出される)

しかし,赤間関(関門海峡)は,近隣国との国境関係が変化して,
その時代によって「国境」の役割は変化したと考えました。

(1) 国境としての重要な役目を負っていた時代

磐井の乱における継体とアラカイの「戦後の領土分割案」では,
九州島と長門国の間に「長門以東」と国境が意識されています。
なので,文字通り国境として見張りを立て,
佐賀関同様厳しく守られていたと思います。

(2) 長門国が九州王朝の支配下に入った時代

しかし,上記の時代には,副都?も長門国に置かれ,
柿本人麻呂も呼ばれたりして宮廷歌人として活躍したので,
かつてほど赤間関の役割は重くなくなったような気がします。

(3) 周防も九州王朝の支配下に入った時代

さらに,上記の時代には,大和を意識した
石城山(いわきやま)神籠石(九州王朝の技術)が築かれ,
それに従って赤間関の重要性は相対的に下がったと考えました。

もしかしたら,(2)と(3)の時代順は逆か同時並行かもしれませんが,
いずれにしても,(2)と(3)がそろってこそ,
北海道・東山道・東海道の三軍が矛盾なく置けるようになったと思います。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

問題は赤間が関がいつの時代にまで遡れるかです。
 ウィキペディアで見ていると、赤間が関の初出は1185年(元暦2年)。「『吾妻鏡』元暦2年正月12日条。同年3月24日条にも記載あり。」とのこと。
 下関の初出は、869年(貞観11年)。「貞観11年9月27日太政官符」『類聚三代格」巻18所収。
 ということは平安時代には「上関」「中関」「下関」があったということを示しているのではないか。この下関が赤間が関なら、「上関」はどこか。
 今でも熊毛郡の室津半島の先端に上関の地名が残る。つまり周防国の東の端だ。
 九州王朝の領域を考えるには、赤間が関よりもこの上関(室津)の存在を念頭に置いた方が良いと思う。そして長門周防が九州王朝の領域にいつ入ったかだが、私は最初からここは九州王朝の領域で畿内だと思います。
 磐井の乱のとき、物部のアラカヒに対して「長門より東は予が治め、西はそちに任す」と話した帝は、近畿天皇家の継体ではなく、当時の九州王朝の帝だということはすでに私の論考で書きました。
 つまり磐井が反乱を起こしたのは時の九州王朝の帝に対してであり、磐井に筑紫・豊・火の三国を押えられた帝は、海峡を渡った長門に居を移し、援軍を待っていた。そして九州から近畿に応援部隊として移動していた物部アラカヒ軍が応援に駆け付けたとき、長門の宮で九州王朝の帝が先の詞を述べた。意味は当面長門より東の九州王朝領域は予が治めるが、西つまり筑紫・豊・火はアラカヒが占領統治せよという意味だ。
 ここから九州王朝の6世紀初めの畿内が想定できる。
 つまり長門・周防・豊・筑紫・火の五か国だ。
 こう想定すると、豊後と伊予の間にある佐賀関と、周防と安芸の間にある上関とが、九州王朝の中枢域=畿内とその東の倭国の領域の境界をなしていると理解できる。
 この畿内五か国を中心にして東西南北などに幹線道路が引かれたので、以後「五畿七道」という言葉作られ、近畿天皇家が列島を統治するようになってもこれが引き継がれたので、近畿天皇家の畿内は五か国と定められた。
 しかし九州王朝では7世紀の初めにはすでに畿内は八か国になっていたと思う。
 それは、筑紫・豊・火の三カ国が前後二国に分割されたためだ。すなわち筑前(筑紫前国)・筑後(筑紫後国)・長門・周防・豊前・豊後・肥前・肥後の八か国だ。
 この八か国を想定する根拠は、崇峻朝の物部守屋の乱に絡んで、彼の資人・捕鳥部萬がとらえられてその屍をされされた国が八か国と記されていること。この捕鳥部萬を処断した主体は「朝庭」と明記されているので九州王朝だと思われ、反逆者としてさらすのはその主な領域だと考えられるからだ。

 ということで、七道諸国を確定するに際しては、九州王朝の畿内を確定することがまず第一にせねばならないことだと思います。
 肥沼さんは山田さんの案に対して当初は「長門」は九州王朝の領域だとしていながらすぐに撤回されましたが、撤回する必要はなかったと思います。
 そして東山道の最初の国は「安芸」、そして次の吉備は一つになっていますが、仁徳紀にすでに「吉備中国」があるので、西から順に「吉備上国」「吉備中国」「吉備下国」となっており、順次「播磨」「摂津」「河内」「山背」「近江」「美濃」「信濃」「上野」「下野」と進むのが東山道の主線で、途中美濃から北に延びた道が「飛騨」に赴き(東山道飛騨路)、同じく途中上野から「武蔵国」へ赴く路が東山道武蔵路だ。
 これで15か国じゃないですか?
 「大和」も東山道に入れても良いかもしれない。まったく海がないからね。
 この場合には、河内から「大和」へわき道を引く(東山道大和道)。もしくは山背から大和へわき道を引く。
 そしてこの場合には「飛騨」を「美濃」に含めて一つの国とする。飛騨は一郡なので独立した国にはならなかったかもしれないので。
 これでも15か国だ。
 あと吉備を三つに分けない場合は、飛騨も大和も入れれば15か国じゃない?もしくは飛騨を入れないで、信濃から南に「東山道甲斐路」を引いても良いかもしれない。

 ここらあたりは、大和・飛騨・甲斐が東山道の国とのつながりが深いのか東海道の国とのつながりが深いのかを史料であたってみると確定できると思います。吉備がいつ三つに分けられたのかも同様です。
 こうした史料にあたる作業が必要だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

いろいろありますが,川瀬さんの分析から学ばせていただき,
さらに研究を進めていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

東山道武蔵路があるということは,
他にもまだありそうな気もしますね。
う~ん,また「古代史用地図を増し刷りしなければ・・・。」

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