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2018年4月13日 (金)

少し早い結論~「素」「単」「複」調査の意義

「夢ブログ」に最近来て下さった方や,歴史にはウトいという方には,
なぜ肥さんが「素」「単」「複」調査に血眼(ちまなこ)を上げているのか,
まるで狂気の沙汰に見えるかもしれない。
しかし,そうではないのだ。
これは歴史教科書を書き換えてもおかしくはない内容を秘めていると思って,
ここ数日頑張ってきた訳である。それを簡単に説明しよう。

普通歴史教科書には,741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔(みことのり)」を出して,
国分寺・国分尼寺の建立が始まったと書いてある。
それに従って(縛られて),文献の研究者も,考古学者も「研究」をしている。
例えば博物館で質問しても,「国分寺のスタートは741年なので・・・」と答えが返って来て,
それ以前に「国分寺」(昔は政教一致なので,国府のそばに建てられたので
国府寺と言ったと思う)が,全国にすでに建てられていたという人はいない。
それがいわゆる通説なのだ。

ところが,この「夢ブログ」で紹介してきたように,
「国分寺建立の詔」の中に「国分寺」という言葉がなかったり,(登場は約100年後)
また,先日の服部さんの提案による「軒丸瓦の「素弁」「単弁」「複弁」が創建年代の違いを表す」
ということが正しければ(私は正しいと思っているが),
文献的にも考古学的にも,国分寺・国分尼寺(国府寺のペア)は
「600年頃から九州王朝によって建設が命じられていた」ということになり,
九州王朝実在の有力な証拠になるからである。

「国分寺建立の詔」の場合は,「ない」が証拠だったが,
国分寺・軒丸瓦の「素弁」「単弁」「複弁」の場合には,
飛鳥寺・山田寺・川原寺や法隆寺西院という具体的な寺の瓦が「ある」という訳だから,
より一層歴史の解明が進むことになる。

600年           650年            700年             750年
〇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〇
素弁蓮華文軒丸瓦   単弁蓮華文軒丸瓦   複弁蓮華文軒丸瓦    ● 
(飛鳥寺)         (山田寺)         (川原寺や法隆寺西院)「国分寺建立の詔」

私が最初に取り組んだ「古代日本ハイウェー」も九州王朝が命じて作ったものと同様の結論が,
国分寺・国分尼寺についても言える!と「少し早い結論」を「夢ブログ」の読者に届けたい。

※ 『古代に真実を求めて』の次号の特集(あるいは第二特集)というのはいかがでしょうか?

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コメント

この年表で三つの瓦の意味することが分かりますね。
一つ、二つ、三つとお寺によって違いがあることは、修復のかんけいでしょうかね?
その意味を解き明かしてくれるとさらに理解が素人にはすすむでしょうね。

翔空さんへ
コメントありがとうございます。

(1) グラフ化

多元的古代用の白地図を創ろうと思っていますが,
その前に普通の白地図でやるかなあ。
日曜日から3日間旅行するもので・・・。

(2) 3つの瓦の文様

どれも創建年代が「7世紀中」ということを意味します。
ということは,当然聖武天皇より50年~100年以上昔に
国分(府)寺が建てられていた証拠になるわけです。
実は,蓮華文軒丸瓦なら「素弁」でも「単弁」でも「複弁」でもいいのです。
これらだと,指標になる寺と比べられるからです。
(=そして,考古学者も反対できない)
他の瓦だと,何とでも言い訳できますから。

翔空さんへ
寺によって複数の瓦が出てくる理由。
 ご指摘の通りに、修復や改築増築、果ては焼失後の再建の時期が異なるため、その時期の流行の瓦で建てるので、複数の瓦がでてくるわけです。
 たとえば、「素・単・複」と三種類の軒丸瓦が出た寺院は、創建は「素」が流行した時代、つまり600年前後となり、「単」が流行した650年前後(7世紀中ごろ)に修復もしくは改築増築がされたということを示しています。さらに「複弁」が流行した時代にも。ここらあたりは発掘された遺構とセットで見ないとわかりませんが。
 なお注意が必要なことは「複弁蓮華文軒丸瓦」は流行が長いので、つまり始まりは7世紀後半と考えられても、そのまま8世紀9世紀と平安時代初期まで流行が続くので、そのどこに位置するかは文様の微妙な変化や他の指標と突き合わせないといけません。
 したがって「複」で始まっている国分寺も、必ずしも聖武詔より前とは単純に判定できません。
 たとえば美作国分寺は「素」「単(肥沼さんは脱と書いたがたぶん間違い)」「複」と三種類の軒丸瓦が出ます。単純に読むと600年前後にこの寺は始まっていると見えますが、そもそも美作国ができたのは和銅6年(713年)4月3日。備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられた。美作国府と国分寺はそのなかの苫田郡(とまたぐん)にある。
 ということはつまり美作国分寺の前身は国府寺ではなく、苫田郡の郡寺や豪族の私寺として600年前後に創建され、その後なんどか改築修復された後に、聖武詔によって七重塔が作られた時期に大規模に改築されたので(jこれは発掘報告書でわかります)大量に出る瓦が、この時期にも流行していた複弁蓮華文となったと考えられます。
 それからもう一つ注意が必要なのが、現在瓦の指標とされている寺がすべて畿内のものだということ。つまり近畿天皇家の中枢域。でも最初に仏教が伝来し寺院が造立されたのは北部九州だと考えると、596年創建の飛鳥寺を基準に「素弁」瓦を位置づけているが、実際はもっと前の可能性もありますね。つまり6世紀後半と。
 同じことは641~643年の建立とみられる山田寺を基準とした「単弁」瓦の年代も九州から始まったと見れば7世紀初頭まで遡る可能性もあるということです。
 さらに問題は「複弁」。基準とした寺院の創建年代が不明だからです。
 法隆寺西院は、創建は605年から670年の間。しかし創建寺院は若草伽藍であって発掘報告書によると軒丸瓦は素弁であった。「複弁」が出てくるのは西院で、九州王朝論からすれば九州からの移築だから、「複弁」瓦はこの寺院の創建瓦ではなく移築時の再建瓦だ。
 おなじことが川原寺にもいえる。
 この寺は四大寺院の一つなのに書紀に創建年代が記されていない。そして飛鳥の宮より巨大で伽藍配置は太宰府の観世音寺とよく似たもの。と考えるとこれも九州からの移築の可能性大。「複弁」軒瓦は移築したときの再建瓦だ。『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を乗せているのでこの寺のそばに本来の創建伽藍が埋まっておりそこからは「素弁」瓦がでるのではないでしょうか。
 このため「複弁」瓦の創建は川原寺が天武朝で重視されているので七世紀後半と通説では定められているが、これも移築後の再建瓦であって、しかも「複弁」も九州で始まったと考えると少し時期が前に動く可能性もあります。そして先に記したようにこの瓦はずっとのちまで流行したので、この瓦単独で寺の創建年代を判定はできないわけです。
 以上細かい説明でした。

肥さんへ

多元的「国分寺」研究は、今緒についたばかりです。
これから、各国分寺遺跡の精査に入る段階です。
急いては事を仕損じる、ということですよ。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

そのセリフは,私が川瀬さんから何十回も言われたものです。(笑)
「急いては事を仕損じる」ようにはなりたくないのですが,
土曜日の午後から家を離れ,水曜日まで母と伊勢に行きます。
その間は大型本の活用はできないのです。なので,ちょっと「急き」ました。
川瀬さんと山田さんにお力を借りて,次にどこを当たればいいか,
考える数日間ということになります。(私は『新修 国分寺の研究』と
『国分寺の創建』で,だいぶノーミソをやられている模様ですので)

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