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2018年4月18日 (水)

伊勢神宮を最初に祀ったのは,九州王朝だった!

私はこれまで,「最初に誰がやった書いていないのに,途中から関連記事や変更記事が出てきたら,
それは大和王朝としては初めてやった(変更した)」と読み取るべきである,と何回も書いてきた。
しかし,川瀬さんとのやりとりで,それが伊勢神宮に関してはできていなかったことが分かった。
素直に伊勢神宮にも適用すればよかったのである。

つまり,大和王朝で初めて伊勢神宮の遷宮を行ったのは持統天皇であり,
天武天皇までは行うことが出来なかった。(=九州王朝が行ってきた)
これは大嘗祭と同じ原理で,あちらも持統天皇から初めて主宰することができた。
な~んだ,どちらも同じ事を言っているではないか!

〉  (川瀬さんのコメント)こう考えてみれば、垂仁記二十五年の伊勢神宮奉戴の記事も、
そしてその後の雄略紀の皇女を伊勢に送った記事、
さらに、継体紀や用明紀での香手姬皇女を送った記事、
そして天武紀での大來皇女の記事はみな、九州王朝統治下の伊勢神宮の記事であり、
伊勢神宮の斎宮として実際に神を祭ったのが本家九州王朝の皇女ではなく、
分家の近畿天皇家の皇女が代行していたとみるべきではないでしょうか。

な~るほど,そういうことが゜,『日本書紀』には書いてあったわけだ。
それを今まで何のことかわからず,通り過ぎてきた。
川瀬さん,ご教示どうもありがとうございました。

では,なぜ九州王朝が遠く離れた伊勢神宮をわざわざ祀るのか?
それは自らの版図の一番東だからだということだろう。(この先は「毛人の国」で,外国と考えられた)
みなさん,この考えでいかがでしょうか?(ただ,今は「いつから」というのは,問わないことにします)

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                                  ・
本家である九州王朝の版図(その東端に伊勢神宮)  ・ 毛人の国(外国)
                                   ・
                   分家である大和勢力  ・  中部地方以東
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PS 今回の伊勢・志摩への旅行は,「東山道十五國」の比定で手一杯で,
旅行のともとして持って行ったはずの『斎宮』(中公新書)を
うれしいことに?1ページも読めなかった。
明日からは,以上を踏まえて読んでみたい。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 肥沼さん。一つ質問です。
>大和王朝で初めて伊勢神宮の遷宮を行ったのは持統天皇であり
 この根拠、つまり最初の伊勢遷宮が690年であるという根拠になる史料はどこにあるのでしょうか?

 ここを押えられれば、伊勢神宮を定めたのは九州王朝だとの仮説が出てきます。
 ではこう考えると、書紀垂仁紀の次の記事との整合性が問われます。
垂仁紀
 二十五年
「三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姬命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。」

 通説ではこの、これまで「天皇」の宮殿に祭られていた天照大神をそこから離し、倭姫命に託して新たなる奉戴の場を探させた主体を、近畿天皇家の垂仁天皇としてきました。
 しかしこの記事を読むと、天皇と天照大神(=大神の荒御魂)を離した主体が省略されています。ここに注目すればこの主体は九州王朝の天皇だということになります。そしてこれが成り立てば、アマテラスの荒御魂を奉戴した倭姫命とは九州王朝の皇女だったという可能性も出てきます。
 このことは当時「倭」と名乗った国は九州王朝である事実が根拠になりますね。近畿天皇家が自分の国を「倭国」と名乗ったのは推古朝からですから。
 この辺り、通説派は、「倭国」「日本国」をすべて近畿天皇家の国名としていたので、気が付かなかったのでしょうね。
 そして先のコメントに書いた、「雄略紀の皇女を伊勢に送った記事、
さらに、継体紀や用明紀での香手姬皇女を送った記事、そして天武紀での大來皇女の記事」も従来は近畿天皇家の皇女だと理解してきましたが、これも九州王朝の皇女の可能性も出てきます。
 先の私の見解は、これらの皇女は近畿天皇家の長の娘との従来の理解を基礎にしているので、分家の近畿天皇家がアマテラス奉戴を代行してきたとしたわけですが、これも違う可能性が出てきますね。
 ここらあたりは書紀原文を精査してみたいと思います。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この根拠、つまり最初の伊勢遷宮が690年であるという根拠になる
史料はどこにあるのでしょうか?

前に聞いたのでは「皇太神宮儀式帳」という史料だったでしょうか。

〉  しかしこの記事を読むと、天皇と天照大神(=大神の荒御魂)を離した主体が省略されています。ここに注目すればこの主体は九州王朝の天皇だということになります。

おっと,主語有無の論証がまた登場ですか?
九州王朝の天皇が天照大神をまつる地を探させた,と!
そして,そこが伊勢神宮となったと・・・。(驚)

 「皇太神宮儀式帳」本文を探して確認する必要がありますね。
 「主語有無の論証」は、日本書紀全体を読み解く一つの方法だと考えています。
 垂仁紀の記述は唐突です。前後の脈絡なく天照大神の荒御魂を移した話になっている。もっともそこに一書に曰くとの別文が挿入されており、これをみると、垂仁の父崇神が短命であったから天皇の命を長くするための荒御魂を移すとの記述があります。これだと書紀本文との関連が説明されており、従来はこの一書の記述と本文の記述を同一とみて解釈されてきました。
 しかしこの一書は、書紀編者が、荒御魂移動の記事を九州王朝史書から盗用したことがばれないように、まるで別の史料を挿入したかのように装って行った隠ぺい工作だと判断します。
 また荒御魂を奉戴した斎宮の倭姫命。
 この名はもしかしたら固有名詞ではなく普通名詞かもしれない。つまり伊勢斎宮を担った九州王朝の皇女のことをこう呼んだのであって、代々この名で神に仕えたのではないか。
 したがって近畿天皇家の皇女は斎宮ではなく、この倭姫命という名の斎宮に使える女官だったのかも。
 そして気になるのが天智が即位したあとの皇后の名だ。
 「倭姫王」。一応天智と皇位を争った古人大兄皇子の娘と書いてあるけど、真実はこの時の伊勢斎宮ではなかったか。つまり天智は伊勢斎宮である九州王朝の皇女を妻にした。
 この可能性あると思いますよ。

 もう一つなぜ伊勢にアマテラスの神宮を作ったか。
 肥沼さんは九州王朝の領域の東の果てとしましたが、まだここは果てではないですよ。この東に東海地方があり、ここは毛人の国ではない。毛人の国は関東以東。間に高い山があると中国史書にはあります。
 むしろ伊勢が、黒潮で九州とつながっていることを頭に置いた方が良いと思います。つまり縄文時代には黒潮で、八代・熊本と神奈川の三浦半島や房総、そして南米がつながっていたが、この流れの中に伊勢もあるのではないでしょうか。
 つまり縄文の昔から九州とは縁の深い地方。
 ここには昔から九州王朝と縁の深い場所があった。
 先の垂仁紀の記述に「伊勢とは常世から戻ったところだ」とのアマテラスの言葉が引用されていることに注意すべきだ。
 つまりアマテラスの父イザナギが死んだ妻を追って常世に赴き、そこから戻った場所が伊勢だと。要するに死の国である常世から戻ったイザナギがその穢れを禊をして払った場所がここで、アマテラスはこの禊の中で生まれたと神代紀にあるわけだからだ。
 この神話の背景には、九州と伊勢との深い関係があったのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「主語有無の論証」は、日本書紀全体を読み解く一つの方法だと考えています。

違う方法からのアプローチ(川瀬さんの「主語有無の論証」と
私の「誰が最初にやったか書いていないのに,途中から大和王朝の記事」)で,
同じ結論(伊勢神宮は九州王朝が最初に作ったもの)が出たとしたら,
「挟み撃ち」作戦として使えるなと思いました。
文献と考古学の一致とは違いますが・・・。

〉  肥沼さんは九州王朝の領域の東の果てとしましたが、まだここは果てではないですよ。この東に東海地方があり、ここは毛人の国ではない。毛人の国は関東以東。間に高い山があると中国史書にはあります。

その頃すでに,東海地方も九州王朝の版図であったというのでしょうか。
だとすると,具体的には何国あたりまでしょうか?

 九州王朝の版図は日本列島全体ですよ。大義名分としては。
 版図と直轄領は異なります。
 分王朝である吉備も大和もそして毛野もみな独立王国ではあっても九州王朝の版図に入ります。
 ただし本州の一番東の毛人の中のさらに東・蝦夷国は別国として扱われていて書紀では「日高見国」として記されています。同じことが九州最南端の隼人の国でもいえ、ここは「襲国」と表示されています。この二つを除いた地方が九州王朝の版図。
 6世紀末から7世紀初にかけて統一中国王朝(隋・唐)に対抗して列島も単一の国に変えようと考え、まず九州王朝の直轄領(畿内+分王朝内に置いた屯倉)に国・評・里の制度を指揮、今まで諸豪族に民の統治と徴税を委ねていたのを王朝が一括して官吏を任命派遣して統治する形に変えようと動いたのです。
 おそらく分王朝もこれに倣って自らの直轄領を改変しようと初めていたかもしれませんが。
 繰り返しますがかなり昔から九州王朝の版図は列島全体です。
 直轄領と版図を区別してください。
 そして直轄領には畿内とその他の分王朝内に置かれた屯倉がありました。
 そして7世紀初めまでは畿内でも屯倉以外では、民の統治と徴税はその地を領有する諸豪族のものでした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

版図・・・日本列島全体(ただし,日高見国や襲国を除く)
直轄領・・・江戸時代で言えば,約4分の1の石高を持っていた徳川の領域。
それと長崎や佐渡のようなところ(古代史では,畿内や屯倉)

だいたい江戸時代と同じように考えればいいのですね。

初めまして!今回の内容に全面的に賛成です!
私も似たような仮説を考えていました。九州王朝の伊勢神宮であり、大和は雄略天皇以降に「例外的」に斎宮を行っていたのではないか、と。
分家が本家の祭祀を手伝うことに違和感はありませんから。
ただ、九州王朝の東端は熱田神宮まで及んでいた可能性もあると思います。
だから三種の神器が「宮中」「伊勢神宮」「熱田神宮」なのではないかな、と。(宮中というのは筑紫朝廷の宮中だったはずです。)
あくまで作業仮説ですが。
ヤマトタケル東征説話が九州王朝からの盗用と仮定すると、伊勢を根拠地に九州王朝が熱田神宮の方まで勢力を伸ばした、ということになると思います。
仲哀天皇の父親である倭建命と迦具漏姫(景行天皇の妃)の曾祖父である倭建命は明らかに別人ですから、九州王朝の東征記事からの盗用も充分が得られます。

日野さんへ
コメントありがとうございます。

古賀さんから昨日メールをいただいています。

〉 伊勢神宮九州王朝造営説は
昨日の「古田史学の会」関西例会の懇親会で
日野さん(奈良大学 三回生 国史専攻)からも出されましたので、
肥沼さんの説も紹介しました。
関東と関西でそれぞれ研究が進展するといいですね。

へ~,日野さんという若い方も,同じように考えられたのか。
やはり古田史学は論理的なので,違う場所でも同じ考えに至るのだなあ。
一度この方にもお会いしたいものだ・・・と思っていたら,
もう「会える時代」なのですね。びっくりです。
そして,ありがとうございます!
だって,日野さんが「夢ブログ」にコメントして下さったので,
「2人の出会いがあっという間に実現」することができ,
それは「伊勢神宮は九州王朝創設」という仮説を成長させていく上で,
どんなにか素晴らしいことかと想像するからです。
インターネットは,人と人とのつながり方も大きく変えましたね。
せっかく生まれたこのアイデアを古田史学の試金石とすべく,
協力していきましょう。
さっそく「夢ブログ」に登場していただき,ありがとうございます。
せっかくですので,「本文」にも登場して下さいね。(o^-^o)

日野さんへ
 はじめまして。伊勢神宮についてほぼ同じことを考えていますね。
 少し違うのは斎宮のこと。
 崇神紀と垂仁紀に出てくる二人の皇女は明らかに斎宮です。そして垂仁紀にある倭姫命とはどう読んでも「九州王朝の姫宮」としか読めず、これは固有名詞ではなく普通名詞なので、私は伊勢神宮の斎宮はずっと「倭姫命」と呼ばれたのではないかと考えました。
 したがって雄略以降に出てくる近畿天皇家の皇女が伊勢に赴いた話は斎宮ではなく斎宮に使える女官ではと考えます。
 さらに天智紀に出てくる天智が「即位」したあとの皇后が倭姫王と書かれていることも、書紀では孝徳とかつて位を争った古人大兄の娘とされていますがそうではなく、伊勢斎宮をしている九州王朝の皇女ではないかと考えています。ここが違いますね。

 二つ目。なんと日野さんも「ヤマトタケル東征説話が九州王朝からの盗用」と考えておられると。実は私も昨夜こう考える以外にないなと考えたところでした。
 というのも倭建命が東征に出立するに際して伊勢神宮を訪ね斎宮の倭姫命にあっていること、そして熱田神宮によって草薙の剣を得ていること。この話に出てくる伊勢神宮が九州王朝創設で斎宮も九州王朝の皇女ということは、この伊勢神宮を囲む地域が九州王朝の直轄地であったことを示すわけです。そこにわざわざ参るということは、この話は九州王朝の説話ではないかと。
 そして熊襲建を討った小碓命の話とこの倭建命の話の性格が全く異なることを考慮し、さらに東海地方は銅鐸文明の東の中心であり、さらに関東の弥生土器は東海地方の土器の系列に属し、これは関東の最初期の古墳(我が家のすぐそば。久地イヤノメ古墳。円墳で墳頂にある木棺の周りを囲んでいた朝顔形の土器(埴輪の原型のようなもの)が東海地方系列の土器で、この土器を基準にすると古墳築造年代が4世紀初となって通説と抵触するので発掘者はこの土器を「伝製品」として築造年代を4世紀末に移している)からも東海系の土器がでるので、倭建命の東征説話は、九州王朝が銅鐸文明の東の拠点を討ち、その勢いで毛人の国である関東にまで攻め込んでその東にある日高見国(これは東北の毛人の国)にまでいたったという話ではないかと考えました。
 こう考えると房総から常陸にかけての地域に九州系の古墳が多くみられることとも整合性があるからです。
 このように考えると九州王朝の直轄領は、伊勢にもあったし尾張にもあった。そしてその東の遠江や伊豆、そして関東の相模湾・東京湾沿岸と房総・常陸にまで広がっていたのではないでしょうか。その北側の後の武蔵・上野・下野の地域が、古毛野とか凡毛野と呼ばれる一つの王国であったのではないでしょうか。ここの大王の後裔が上毛野君と下毛野君だと私は考えています。

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