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2018年4月29日 (日)

明治二十二年の「市町村合併」

先日紹介した「東村山の古地図」の正体が分かった。
今でも時々市町村合併が行われるが,
当時の「東村山村 ← 野口村、廻り田村、大岱村、久米川村、南秋津村(現・東村山市」の合併の際
測量されたものらしい。

Dscn1808_2

1878年(明治11年)7月22日 - 郡区町村編制法の神奈川県での施行により、
神奈川県多摩郡のうち1町131村の区域に行政区画としての北多摩郡が発足。
郡役所が府中宿番場(府中宿のうち)に設置。

1889年(明治22年) 3月31日 - 下記の各村の統合が行われる。(3町36村) 
東村山村 ← 野口村、廻り田村、大岱村、久米川村、南秋津村(現・東村山市 ★今回の古地図のきっかけ★

☆ この頃,大日本帝国憲法の発布,第1回衆議院議員選挙が行われた。

1942年(昭和17年) 4月1日 - 東村山村が町制施行して東村山町となる。(10町12村)

1964年(昭和39年) 4月1日 - 東村山町が市制施行して東村山市となり、郡より離脱。(9町)


ウィキペディア「北多摩郡」

https://ja.wikipedia.org/wiki/北多摩郡

そういえば,子どもの頃「東京都北多摩郡東村山町秋津812番地」
という長ったらしい住所だったような記憶がある。
しかも「東京都」は名乗れなくて,
都内ではないという意味で「都下」という言い方があった。
差別的で,なんか嫌な気がした。

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旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

>都内ではないという意味で「都下」という言い方があった。

JamesMacさまのブログに次のように有りました。

「「周礼」にあるとおり「方千里」を「帝都」として「直轄地」とするものであったと思われますが、この「里」が「短里」であったと見られることからその範囲は「約80㎞四方」となり、これは「都城」である「太宰府」を中心に現在の地図に落とすと、ちょうど「筑紫」全体をほぼカバーするものであった」

「都下」というのは「畿内」ではないということなのかも知れませんね。

また、「方千里」=「約80㎞四方」というのが、原発事故避難範囲50マイル(80.4672Km)に極めて近いということを思い出しました。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

短里で計算すると,筑紫がちょうど「畿内」にあたる。
それはなかなかの卓見ではないでしょうかね。
九州王朝説の傍証にもなるかもしれません。

80キロ以内でいいなら東村山も「都内」だと思うのですが,
23区内が「都内」でそれ以外は「都下」だったのかな?

肥さんへ

畿内の方千里は、一辺80kmつまり中心からは40km、
原発事故緊急避難範囲は、半径50マイル(約80km)です。
詳しく書かなくてすみませんでした。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

中国の都はもちろん,太宰府でも内陸なので,
「方」の考え方がうまく行きそうですが,
東京の場合皇居を起点とすると,
半分の東の海上は「方」に入るのか入らないのか。
考えると夜も眠れなくなりそうです。(笑)

※ 昔「地下鉄はどこから車両を入れるか」
という漫才があったことを思い出しました。

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