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2018年4月23日 (月)

関西にも,「伊勢神宮の九州王朝創設」を考えた人がいた!

昨日はいろいろなことがあったが,
その終りにもビッグな出来事が待っていた。
それは古賀さんからのメールで明らかになった。

〉 伊勢神宮九州王朝造営説は昨日の「古田史学の会」関西例会の懇親会で
日野さん(奈良大学 三回生 国史専攻)からも出されましたので、
肥沼さんの説も紹介しました。
関東と関西でそれぞれ研究が進展するといいですね。

え~,関西にも,「伊勢神宮の九州王朝創設」を考えた人がいたんだ!
これはいろいろな意味ですごいことだ。
場所も,年齢も違う方が,これまでの常識では考えられない,
トンデモナイことを考えたということ。
そして,それは古田史学に導かれ,論理的に間違いないと
同じような時期に考えていたということ。
これはぜひ交流して,考えを深めていきたいなあ。

・・・と思ったら!もう「夢ブログ」にコメントをいただいているではありませんか!

〉 初めまして!今回の内容に全面的に賛成です!
私も似たような仮説を考えていました。
(「伊勢神宮を最初に祀ったのは,九州王朝だった!」に対する
日野さんのコメント。以下省略)

昔だったら,住所を聞き,手紙を書き,資料と共に封筒に入れ,
切手を貼って,ポストに入れ・・・とやるところが,
21世紀の今は相手のブログにコメントするという形で,お会いできるのです!
日野さんの行動力に乾杯です!ヽ(´▽`)/

これは単に2人の出会いができたということにとどまらず,
伊勢神宮の九州王朝創設という古田史学の試金石として,
育てていくことができるチャンスが生まれたということです。
年齢はお聞きしていませんが,大学3年生なら20歳かもしれない。
すると,あと4か月で60歳となる私と,凸凹コンビではありますが,
二人三脚でやっていけるということですよね。
違いました。川瀬さんがいますから,三人四却ですか。
とにかく,伊勢神宮の研究にとって,素晴らしく記念すべき日であった!
ということを記して,「本日の営業」を終わらせていただきます。
皆さん,おやすみなさい~。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 肥沼さんは日野さんが、ヤマトタケルノミコトの東征説話も九州王朝の説話の盗用だと考えておられることを見落としましたね。
 この話は伊勢神宮と熱田神宮を拠点としているので、伊勢神宮を九州王朝創設と考えると天皇家の神宝を同じく奉戴する熱田もまた同じで、この説話の「東征」の前に、すでに九州王朝は伊勢にも尾張にも拠点を持っていたと考えるしかないわけです。そしてこの二つを拠点にしてさらに東に九州王朝が勢力を伸ばしたはなし。
 肥沼さんが伊勢神宮を九州王朝の版図の東の果てと考えたことに私が、もっと東まで九州王朝の版図ですよと応酬したことがありますが、この話と日野さんの仮説は直接つながってくるわけです。
 私が東征説話を九州王朝説話の盗用だと考えた理由は、日野さんのコメントの次にコメントしておきました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 
 肥沼さんは日野さんが、ヤマトタケルノミコトの東征説話も九州王朝の説話の盗用だと考えておられることを見落としましたね。

私は考古出土物については,多数のそれの分布図がほしいと思っています。
(志賀島の金印そうですが,1つしかないものなので,
間接的にいろいろな証明が必要な気がするのです)
確かに熱田神宮の剣は,ヤマトタケル東征説話と合っていますが,
関東の彩色古墳のように分布図とは言えないとおもうので,
一本の剣から,そんなにはっきり言ってしまっていいのかなあ,と思うのです。

 要するに肥沼さんは、日野さんが伊勢神宮の宝剣を持つ熱田神宮もまた九州王朝系だとの判断に疑問をもったわけですね。
 倭建命東征説話に従えば、伊勢神宮の宝剣が最終的に尾張氏の祖の手に移り、熱田に奉戴されたということになる。この宝剣は素戔嗚尊の王権の証であり、これが天照大神に移ったということは、出雲王権の統治権が天照に移ったということであり、天照の王権の象徴である鏡とともに、天照の王権の象徴となったということです。
 この二つの天照の象徴の一つの宝剣が熱田に移されたということは、熱田もまた九州王朝の拠点の一つになったとは言えませんかね?
 またこの点を除いてみても、日野さんの倭建命東征説話は九州王朝の説話の盗用だとの説は、肥沼さんは全くダメと判断なさいますか?それとも良い仮説だと思いますか?
 私は良いところをついていると思っています。
 西を攻めた小碓命と東を攻めた倭建命とは別人だと思います。古事記で小碓命に討たれた熊襲建が、その前に小碓命に倭建命との名を授けたとの説話は、異なる人物を同一人物と見せかける仕掛けだと思っています。
 つまり近畿天皇家が本家九州王朝や出雲を征服しようとした試みと、九州王朝が伊勢を拠点としてその東方の国々を征服しようと試みたこととを同一人物の事績とすることで、どちらも近畿天皇家が東西に版図を広げた話に偽造したのだと。こう判断しています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さん,私は日野さんと交流がしたいのですよ。
その上で「どこが同じ」で,「どこが違うのか」をはっきりさせていけばいいではないですか?
私は保留させてもらっているだけで,否定はしていません。
「もしかしたらそうなのかもしれない」とも思っています。
ただ,考古学についての私の考えを述べたまでです。
なぜ知り合ってから数日の間で,違いをはっきりさせ,
直接会うこともないままに,別れ別れにさせられてしまうのでしょう。

川瀬さんのやり方だと,これから発展させられる可能性のあるものを,
最初からぶち壊されているようで困惑してしまいます。
私がもし20歳の若者だったら,「この人怖い」と思って
「交流するのはやめておこう」と思ってしまいます。
私は10年来のお付き合いがあるので,だいぶ慣れましたが。

日野さんがどういう性格の方かはわかりませんけれど,
メールのやり取りはそういう点で大変危険だと思っています。
(時に否定する言葉については,真意が伝わりにくい)

私はせっかく関東と関西で同じ考えに至ったのを,大事に育てようと思っているだけです。
出来たら関西例会の5月例会に行って,直接お会いしたいとも考えています。
だって,こういう人と人との出会いの機会って,人生でそうあるものではないと思いますから。

あと,私が書くことは「足りないことだらけ」で,川瀬さんには気に食わないかもしれませんが,
2人だけがコメントのやり取りをしているサイトは,私だったらコメントを遠慮してしまいます。
お世話になっている川瀬さんだから,本当に言いにくいいことなのですが,
言わないといつまでも変わらないと思うので,よろしくお願いします。すいません。
(最近の100コメントの内訳は,山田さんと翔空さんがそれぞれ2回のほか,日野さんが1回で,
残りの95回は川瀬さんと私のものになっています)


肥沼さんへ
1:私は最初にどこが同じでどこが違うかをはっきりさせておくことが、見解を交流させるには大事だと思います。だからあいまいにしない。最初から同意点と不同意点を明記する。これをしないと、「同じ意見だ」と勘違いして、あとでがっかりするからです。違いを明らかにされて引っ込んでしまうようでは、論争はできません。このスタンスの違いです。ここは肥沼さんのサイトですから肥沼さんはご自身のやり方で。僕は僕のやり方でコメントします。バランスは肥沼さんがとってください。
2:最近コメントの大部分が私なのは、肥沼さんのブログの題材が古代史一辺倒になっているからです。それも多岐にわたった内容で、相互に関係していますが、これにコメントするには古代史について、歴史全般についてかなり知識を持っていないとできないこと。だから私のコメントが多い。

3:一つ発見しました。前に肥沼さんが話題にした天照の遷座の経緯地図の不思議。
 答えは単純です。崇神紀と垂仁紀で天照が遷座した場所を「倭の○○」としてあるのを、通説は「大和国」のことだと解釈し、これを「太神宮諸雑記」の記録の「倭」も、さらには「倭姫命世記」の「倭」もすべて「大和」だと解釈したことが間違いなのです。
 近畿天皇家が自分の領国を「倭」と表記したのは、書紀で確認できる限りでは「推古」紀です。そして磐井の時代の倭国がすでに「日本国」と自称していた可能性があるので、これは「継体」紀にもすでに「倭国」と自称していた可能性があります。
 しかし今問題になっているのはそのずっと前。二倍年暦を前提に年代を調整しないと実年代は確定できませんが、崇神や垂仁の時代には「倭」とは自称せず、この時代に「倭」とは、九州王朝の大義名分上の統治地域である「列島全体」を指す場合と、九州王朝の固有の領域を指す場合があります。
 したがって天照の御荒魂を皇居(もちろん九州王朝の皇居です)から移して豊鋤入姫命が奉戴して遷座した場所である、「倭の笠縫邑」は北九州の筑紫か豊の国だと思う。さらに倭姫命が奉戴して遷座した、「倭の磯城厳橿之本」「倭の菟田筱幡」もともに北九州のどこかだと思う。
 こう理解すると、「世紀」が「倭」以外に「吉備」を遷宮地として記録したことを踏まえれば、天照の遷座地は、「倭」(北九州)⇒「吉備」⇒「近江」⇒「美濃」⇒「尾張」⇒「伊勢」ということだ。
 「伊賀」をどうするかはまだ考えがまとまっていませんが。

 以上新発見です。

肥様
こちらのブログにコメントしてもよろしいでしょうか?
今回の「伊勢神宮九州王朝創設」説につきまして、現状では賛成とも反対とも言えないのですが、古田先生の先行説2つとどう合わせて解釈するべきかを考えています。

1 中皇命問題
「万葉集巻一の九・十・十一・十二、番目の歌」や持統紀等の解析から、中皇命(九州王朝の天子)が白村江以前に政治的な目的を持った旅行とされ、三重県の阿胡の仮宮(英虞湾)を到着点とされました。

私は、この大旅行の到着地が大和や河内ではなく、英虞湾である事に注目しています。英虞湾と伊勢神宮は目と鼻の先です。英虞湾が到着地点である事も政治的目的であるとすれば、この伊勢・志摩の地と九州王朝の繋がりは強固なものであったと思われます。
(中皇命は東山道から東海道を通って伊勢に入っている様ですが。)

2 神武歌謡問題
「久米の子等、久米の子等」、「島つ鳥、鵜飼が伴」の解析から、福岡県の糸島の志摩町の久米を導き出され、神武東征の出発地とされました。また、ここには鵜飼が出てきます。
「神風の伊勢の海の大石に這ひ廻ろふ細螺のい這ひ廻り撃ちてし止まむ」の解析から、こちらも糸島の伊勢が浦を導き出されました。

ここに、伊勢・志摩・鵜飼の3点セットが出てきます。厳密には、少なくとも大和政権は、武烈と継体の所で断絶しているので、前王朝初代ゆかりの3点セットと言う事になるのでしょうか?
この3点セットと伊勢神宮をどう結び付けるのか?無関係でただの偶然なのか?んー、どうなんでしょうか?

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

〉 私は、この大旅行の到着地が大和や河内ではなく、英虞湾である事に注目しています。
英虞湾と伊勢神宮は目と鼻の先です。英虞湾が到着地点である事も政治的目的であるとすれば、
この伊勢・志摩の地と九州王朝の繋がりは強固なものであったと思われます。

古田さんの万葉集の研究までは,
とてもまだ手が出せる段階ではありません。
でも,大変興味深いことだとは思っています。

私は大嘗祭で,天武の時に変更の兆しがあり(主催でないのに,褒美だけあげている),
持統から新しいやり方(主催もし,褒美もあげている)を採用したというやり方が,
今回天武の時に遷宮のルールを定め,持統の時から嫉視したという流れが酷似する。
つまり,私の「誰が始めたかわからないが,途中から大和王朝が関わってくる時,
もしかしたらそれは九州王朝が始めたものではないか?」と多元的に考えると良い
というテーゼをもとにして考えたまでです。

〉 ここに、伊勢・志摩・鵜飼の3点セットが出てきます。
厳密には、少なくとも大和政権は、武烈と継体の所で断絶しているので、
前王朝初代ゆかりの3点セットと言う事になるのでしょうか?

多くの地名が九州 → 近畿地方に移動しているようなので,これもそうなのかなとは思っています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

昨日はナーバスになってしまい,失礼なことを申し上げてしまったかもしれません。
ただ,何回も削除しようかどうしようか迷った挙句,残しておくことにしました。
そうしないと,その時点での感情が「なかった」と等しいことになってしまうからです。
川瀬さんに「ご自分のサイトを作って,そこでやって下さい」とまでは言いませんが,
「夢ブログ」は私にとって「分身」でもありますので,ぜひご配慮下さい。
まだ多元的「国分寺」研究でも,お力を出していただかなくてはなりません。
そちら方でもよろしくお願いいたします。

肥様

返信ありがとうございます。

>私の「誰が始めたかわからないが,途中から大和王朝が関わってくる時,
もしかしたらそれは九州王朝が始めたものではないか?」と多元的に考えると良い
というテーゼをもとにして考えたまでです。

多元的な歴史観で、違うアプローチから、同じ到達点に至れば、素晴らしい事だと思います。

>多くの地名が九州 → 近畿地方に移動しているようなので,これもそうなのかなとは思っています。

昨夜、ふと頭をかすめた妄想ですが、
①現伊勢神宮は、九州王朝の阿胡の仮宮(阿胡宮)と呼ばれていた。
(天照の遷座して伊勢に至った)
②そこは、軍事的・宗教的な拠点だった。
③王権が大和政権に移行し、多くの地名も九州 → 近畿地方に移動した。
④大和政権の初代ゆかりの地名が、阿胡の仮宮から伊勢神宮に変わった

無理がありますかね?

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

〉 無理がありますかね?

私は「大雑把古代史の会」会長(笑)ですので,
細かいところはまではわかりません。
とりあえず,伊勢神宮の九州王朝創設というところで満足しています。

さらに詳しいことを追求するのであれば,
川瀬さんにコメントを願うのがいいと思います。

通りすがりの素人さんへ
 中皇命の「伊勢行幸」が、九州王朝と伊勢神宮との間に深い絆を持っていることの証拠の一つだをは私も思っています。
 ただ古田さんとの違いは、古田さんがこれを白村江以前とされたが、私は持統紀に記されたその年だと判断し、中皇命は九州王朝最後の天子なのではないかとしたところが異なります。
 古田説では唐との戦争を控えての戦勝祈願のように見え、私の理解だと、九州王朝天子が九州の地を離れて大和に移る(私の推理では天武が作った難波宮か大和の宮のどちらか)前に、先祖の祭られた地を訪問したと考えています。
 最終目的地が伊勢神宮ではなく阿胡の仮宮となっていることは、書紀編纂時に伊勢神宮参拝記事を削除した結果だと思います。
 したがって通りすがりさんが最後に「妄想」として出された①②③④は文字通りに妄想だと考えます。この理由は、阿胡の仮宮を軍事拠点だとした発想の根拠は古田説の中皇命の伊勢行幸は白村江以前との理解を前提にしているからです。私はこの古田説は間違いだと考えます。そして①はこの記事以前にすでに伊勢神宮が何度も出てきている史料事実を無視しているからです。
 歴史研究は史料を元に考察しなければいけません。
 古田さんの中皇命伊勢行幸論は一つの仮説にすぎません。古田史学の人たちがこれをすでに確定した歴史的事実のように取り扱って、これを基礎に論を組み立てる傾向があることは、古田さんの方法論を否定するものだと考えていますので。
 以上、通りすがりの素人さんのご意見への私の見解です(求められてもいないので出てきましたが)。
 
 そしてもう一つ付け加えれば「伊勢神宮九州王朝創建説」もまだ仮説の段階です。
 まだまだ史料で裏付けなければいけませんし、多くの史料との整合性も図らなければいけません。

 なお中皇命の伊勢行幸問題は、次の私のサイトに詳しい考察を載せてあります。
  http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kodaisi.htm
 

肥沼さんへ
 
 肥沼さん。仮説を出したことで満足しないこと。
 もう一つ提案。
 この三週間。「夢ブログ」が「古田史学」のブログになってしまっています。
 寺院関係は「多元的国分寺研究サークル」のブログで。その他の歴史問題は、「古田史学の継承のために」で行うように区別しませんか?
 そうすれば歴史問題について丁々発止の議論が起こっても「夢ブログ」読者が「混乱」することが無いと思うのですが?
 そして「夢ブログ」には、この二つのブログに「○○のような記事を書いた」とだけ紹介するようにしませんか?
 そうすれば「夢ブログ」は肥沼さんの日常のつぶやきにもどれますが。
 ついでにもう一つ。
 肥沼さんのコメントはかなり感情的ですよ。
 私は何も非難していません。「あれ?日野さんが倭建命東征説話が九州王朝の事績だと言っていることには何も言わないの?」という意味合いで言っただけ。
 これには「それにはちょっと疑問点があるので書きませんでした・疑問点は○○」と書けば良かっただけではないでしょうか。
 そして「人の意見にはまずお礼を書き、次に賛成だということを先に書いて、最後に相違点を書くのが良い」とご自身言っておきながら、これを実践されていないこともお気づきでしょうか。
 再度言います。私のコメントばかりになったのは、肥沼さんご自身が「夢ブログ」で古代史の話題ばかりを次々に出したからです。

>川瀬さんに「ご自分のサイトを作って,そこでやって下さい」とまでは言いませんが,
「夢ブログ」は私にとって「分身」でもありますので,ぜひご配慮下さい。
との物言いは、ご自分には全く非がなく、悪いのは私が配慮しないせいだとの言い方になっていることにも気が付いておられるだろうか?

 私が古代史に関わるのは、
ひとつには肥沼さんが古代史研究にもっと深くかかわれるように「お助け」するため。
二つには、肥沼さんも含めて古田史学に関わる方々の研究姿勢に危惧を感じるから。なんども言いましたが、史料事実を無視した「妄想」が多すぎますし、古田さんを神格化して古田説を史料に基づいて再検証することを避けるし、あまりに通説や常識を無批判に受け入れて論を組み立てすぎるし。こうした懸念が一杯あるからです。
 無視して自分の仕事に専念すればよいのですが、私にとって同志である古田さんの「弟子たち」が混迷しているのに無視もできないから、自分の研究の時間を削って古代史に関わっているのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

本日のアップを済ませたら,しばらく頭を冷やすために古代史の話題は,
パソコンのファイルの中に書くことにします。
多くの研究の時間を奪ってすみませんでした。
また少し頭が冷えたら再開しますので,その時はよろしくお願いいたします。

PS パソコンの調子が悪いのか,私の技術がないのか,
服部さんのファイルがアップできないです。

ファイルのアップ。久しぶりなので方法を忘れているのではないですか。
 ワード文書をそのままブログにアップするのは無理です。
 1:まずワード文書をコピーしてテキストにする。
   「全文選択」⇒「コピー」⇒メモ帳に張り付ける。 
 2:「メモ帳」を「全文選択」⇒「コピー」⇒ブログに張り付ける。
  ※このままでは画像が張り付けられない。
 3:ワード文書の画像を一つ一つパソコンの中に別に保存する。
 4:別に保存した画像を一つ一つブログに張り付けた服部さんの文章の該当の場所に張り付ける。

○pdfファイルの場合はそのまま張り付けることができたと思いますが(「古田史学の継承のために」ではそうやっていたと思います)。

 肥沼さんへ。古代史について話題にするなとは言っていませんよ。頭を冷やせとも言っていない。
○古代史関係の話題をパソコンにしまうのではなく、「古田史学の継承のために」のブログに、肥沼さんが投稿されればよいのです。
 たとえば今提示されている「伊勢神宮九州王朝創建説」の題でスレッドを立てて、そこに肥沼さんがどのようにしてこの仮説に達したかを書く。そうしたら私も含めて他の人がコメントして議論できる。少し違った議論が出てきたら、また新らしいスレッドを立てて議論すればよい。「夢ブログ」に古代史の仮説を書いてしまうと、このブログは毎日2から4の話題があるから、どんどんスレッドが埋もれてしまって前のコメントはどこにしたかがわからなくなるからです。
 こちらのブログに移してしまえば、簡単なことです。

川瀬さんへ
コメントありがとうこございます。

(1) 服部さんの資料をアップする件

再度チャレンジしてみます。とりあえず簡約版だけでも。

(2) 「古田史学の継承のために」にアップするという件

「継承」に載せるほどではないが,とりあえず「アイデア」を書き留めておきたい。
そういうことで,4月は大漁アップということになりました。
「伊勢神宮の九州王朝創設」については,「継承」で検討していただいてもいいですね。
ただ,こまごまとした「アイデア」から,たまに「大物」が釣れる可能性もあるので,
「夢ブログ」はやはり利用させていただきます。
「取るに足らないもの」はスルーして下さい。

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