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2018年4月27日 (金)

大嘗祭と伊勢神宮の「遷宮」の類似点

大嘗祭と伊勢神宮の「遷宮」には,類似点がある。
両方とも,天武の時に不完全な形を取っていたのが,
持統に至って完全な形になるということだ。

大嘗祭・・・主催者不明で,天武は褒美をあげる役 → 主催・褒美とも持統が行う

伊勢神宮の「遷宮」・・・主催者不明。天武の時に「20年に1度と決める」 → 第1回「遷宮」を持統が行う

私は,以前から大嘗祭も伊勢神宮の「遷宮」も,九州王朝によって行われてきたと思っている。
それは,九州王朝が中国から正式に主権国として認められ,
倭国という名称で中国正史に書かれているからだ。
ところが,662年か663年に白村江の戦いが唐・新羅との間に起こり,
九州王朝は敗戦+その後の筑紫大地震で大打撃をうけ,滅亡していったのだと思う。

それに代わって日本のかじ取り任せられたのが「旧唐書」で日本国と呼ばれる大和王朝。
おそらく戦争と被災のために財政破綻をしたきた九州王朝には,
大嘗祭で褒美をあげる力も,伊勢神宮の「遷宮」を行う力も持っていなかったのではあるまいか。
それが「天武の不完全型」+「持統の完全型」となって,大嘗祭と伊勢神宮の「遷宮」遷宮に
似た形として表れているのだと思う。
そして,「分家」の作った日本書紀に,「本家」である九州王朝の名前(倭国)は存在しなかった。
なぜか,それは大和王朝こそ,昔からこの国を治めてきた「本家」であるという主張の書だからだ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 天武が大嘗祭に参加した臣下に褒美を挙げた話。
 ここで開催された大嘗祭は九州王朝の大嘗祭だったのではないかな。その大嘗祭に天武の臣下が参加して、式次第やら何やらを視察してきた。だから事情を調べてきた臣下に褒美を挙げたのだと思う。
 書紀の当該の記事を「主語有無の論証」をつかって確認してください。
 もしかしたら持統が大嘗祭を主催し参加者に褒美を挙げた記事も、九州王朝の主催記事かもしれませんね。だって持統は天皇ではないのだから大嘗祭はやらない。近畿天皇家が大嘗祭を主催するとすれば文武のときだ。持統の時の記事も「主語有無の論証」で確認してみてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

おっと,「主語有無の論証」を忘れていました。
ホンモノの天皇は,文武からでしたね。

持統の大嘗祭の記事は,五年十一月一日にありました。

「十一月戊辰、大嘗。・・・丁酉、饗神祇官長上以下、至神部等、
及供奉播磨因幡國郡司以下、至百姓男女、併(人偏のないもの)給絹等、各有差。」

主語無しなので,九州王朝の天皇の記事のようですね。
ちなみに,天武の記事は,二年十二月にありました。

「任(人偏のないもの)午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等、
併せて(人偏のないもの)播磨・丹波、二國郡司、亦以下人夫等、悉賜録。」

あれれ、こちらも主語無しのような・・・。
これはどう考えたらいいのでしょうか?

○天武紀の記述。
 「十二月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。」
 中臣・忌部および神官人ら、ならびに播磨・丹波二国の郡司また人夫ら以下をして大嘗(会)にはべ奉らしむ。悉く禄を賜う。よって郡司らに各々爵一級を賜う。
 宮中の神祇儀式を扱う官人らと播磨丹波二国の郡司さらに人夫らを大嘗会にはべ奉らしめた主体は省略されているが、彼らに禄と爵一級を与えることを「賜う」という特殊な術語でしるしているので、この文の主体は天子(天皇)。つまりこの記事は従来大嘗会を開催した記事ないのに天武が大嘗会に参じたものたちに褒美を賜ったものと考えてきましたが、そうではなく、九州王朝の天子が近畿天皇家の官人らを大嘗会にはべることをゆるし、かつ彼らに褒美を与えたと読むべきです。

○持統紀の記述。
 「十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。」
 十一月戊辰、大嘗会。神祇伯中臣朝臣大嶋が天神壽詞を読む。壬辰、公卿に食衾を賜う。乙未、公卿以下主典に至るまで饗し、並びに絹らを賜う、各々差有。丁酉、神祇官長以下、上は神部および供奉する播磨因幡国の郡司以下百姓男女に至るまで饗す。並びに絹らを賜う。各々差あり。
 大嘗会を開催した主体は省略。そして公卿に食衾を賜ったと天子に特徴的な言葉をつかっているので、ここでも大嘗会を主催したのは九州王朝の天子だと考えられる。

※天武の記事は天武二年=673年、持統紀記事は持統五年=691年。この両年に九州王朝の天子が新たに即位したということを意味している。どちらも九州王朝の記事をまるで天武と持統が天子であるかのように装うために盗用したのだと考えられる。なぜ大嘗会に神祇官以外に播磨因幡の郡司らが供奉するのかはわかりませんが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ※天武の記事は天武二年=673年、持統紀記事は持統五年=691年。
この両年に九州王朝の天子が新たに即位したということを意味している。
どちらも九州王朝の記事をまるで天武と持統が
天子であるかのように装うために盗用したのだと考えられる。

なるほど!そのような方法で歴史の謎解きができる訳ですね。
「主語有無の論証」はすごい!

〉 なぜ大嘗会に神祇官以外に播磨因幡の郡司らが供奉するのかはわかりませんが。

それは,私は財政面のことを支えるため,
交代で二国が選ばれたのではないかと考えました。
(講談社学術文庫には「悠紀田と主基田の奉仕国」とありました)
例えば文武天皇の大嘗祭(文武二年十一月二十三日)の担当国は,尾張と美濃です。
毎回同じ国だと大変な負担になるでしょうから,
国体開催県のように交代(当番国?)したのではないでしょうか?
またそれは,大和王朝に忠誠を誓わせる意味もあったことでしょうが。

>それは,私は財政面のことを支えるため,
交代で二国が選ばれたのではないかと考えました。
(講談社学術文庫には「悠紀田と主基田の奉仕国」とありました)
例えば文武天皇の大嘗祭(文武二年十一月二十三日)の担当国は,尾張と美濃です。
毎回同じ国だと大変な負担になるでしょうから,
国体開催県のように交代(当番国?)したのではないでしょうか?
またそれは,大和王朝に忠誠を誓わせる意味もあったことでしょうが。

 なるほど。疑問氷塊です。
 ということは、天武の時も持統の時も、大嘗祭の主催者は九州王朝であっても、実質的にこの儀式を物質的に支えたのは近畿天皇家だったということになりますね。神祇官らを九州王朝の大嘗会に侍らせたのは将来の自分たちの大嘗会への準備であったわけだが、郡司以下の人夫らは、すでに実質的に大嘗会を支えていたと。
 すばらしい推理だと思います。ちゃんと「続日本紀」という史料を背景とした見事な推理です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ということは、天武の時も持統の時も、大嘗祭の主催者は九州王朝であっても、実質的にこの儀式を物質的に支えたのは近畿天皇家だったということになりますね。神祇官らを九州王朝の大嘗会に侍らせたのは将来の自分たちの大嘗会への準備であったわけだが、郡司以下の人夫らは、すでに実質的に大嘗会を支えていたと。
 すばらしい推理だと思います。ちゃんと「続日本紀」という史料を背景とした見事な推理です。

ありがとうございます。素直にうれしいです。
「大和朝廷のユキ国とスキ国」の分布図によって,
それをさらにわかりやすく示せたと思っています。

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