「素」「単」「複」調査のグラフ化
山田さんからいただいた「古代史用白地図」を使って,
さっそく「素」「単」「複」調査をグラフ化してみました。
素弁・・・A(赤色)
単弁・・・B(緑色)
複弁・・・C(黒色)
?・・・・・・(黒点)
単弁(B)が一番多く,次に素弁(A)が続きます。
「国分(府)寺は古い」と言うには,ちょっとAが少ない感じです。
川瀬さんがコメントして下さっていますが,
いろいろな理由で本来の国分(府)寺が廃寺とされ,
あらたな大和建立の寺がとって変わっていることもあるでしょう。
たとえば常陸国の場合は,茨城廃寺という有力な候補がある等。
※ 何日間か私用で研究らしいことができませんが,
パソコンは持参しますので,簡単な報告やコメントの受け答えはできると思います。
ただし,『新修 国分寺の研究』や『国分寺の創建』などの大型本は,
荷物の中に入れられませんので,戻ってから行います。
週末は,天気が悪いとのこと。無神論の人でも,神に祈りたくなる母との旅行です。
« 「古代史用白地図」の配布 | トップページ | 山田さんの仮説「九州王朝の北海道十四国國」について »
「古田史学」カテゴリの記事
- やはり入手しておくか(2021.01.22)
- 新田郡庁跡と泉官衙遺跡の時期の比較(2021.01.20)
- 日本最大の大きさの「新田郡衙遺跡」(2021.01.18)
- 郡山遺跡Ⅱ期と多賀城Ⅱ期の「石敷き」(2021.01.18)
- 新田郡衙遺跡の「5段階」の変遷(2021.01.18)
仕事早いですね。
でも興味深い事実が読み取れる。
「A」の素弁の瓦の分布。よく見ると九州王朝時代の「東海道」の筋道にそっている。
と考えれば、他の「東山道」沿いと「北海道」沿いも同じことだったのかもしれませんね。つまりこの道沿いの国の国分寺が「B」=単弁になっているが、そのそばに「素弁」の瓦で作られた本来の「国府寺」があった可能性を示している。これらの寺が国分寺にならなかったのは、聖武詔で七重塔をつくり「金光明寺」と名付けられるに際して巨大な塔を造るスペースがなかったので、他の大きなスペースを持つ、少しあとの「単弁」時代に作られた寺院が金光明寺=のちに国分の金光明最勝王経を持つ寺として「国分寺」と略称されることになったの可能性が高いですね。
投稿: 川瀬 | 2018年4月13日 (金) 23:26
追伸
明日以降の三重県の天気予報。
14土曜日:雲のC一時雨。降水確率は午後30%。夜が80%。
15日曜日:雨のち曇り。降水確率は一日70%。いつ雨がやむかですね。
16月曜日:晴れ時々曇り。降水確率は一日20%。
気温はずっと最高で18か19度です。
有意義な楽しい旅になると良いですね。
投稿: 川瀬 | 2018年4月13日 (金) 23:30
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 でも興味深い事実が読み取れる。
「A」の素弁の瓦の分布。よく見ると九州王朝時代の「東海道」の筋道にそっている。
なるほど。作業していると,「Aが少ないなあ」などと余計なことを考えてしまい,
冷静に分布状況を見られなくなってしまいます。
やはり複数の目でチェックしていくことは大切ですね。
投稿: 肥さん | 2018年4月13日 (金) 23:54
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 有意義な楽しい旅になると良いですね。
ありがとうございます。
滅多にしない親孝行が雨を降らしたのかもしれません。(笑)
まあ,どっちに転んでもシメタで,楽しんできます。
PS 榎村寛之著『斎宮~伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)を持っていきます。
投稿: 肥さん | 2018年4月14日 (土) 00:00
研究と勉強の日々に頭が下がります。最近やっと瓦について考えはじめました。太宰府政庁1期は掘っ立て柱で瓦葺きではなく、2期になって老司式瓦が登場となります。ではタリシホコの宮殿は何処でしょう?タリシホコの時代の寺院と、その瓦は何でしょう?そう考えると、素ー単ー複も再考せざるをえません。5月13日の東京では、考え方の出発点についても話すつもりです。
投稿: 上城です。 | 2018年4月15日 (日) 13:59
上城さんへ
コメントありがとうございます。
古田史学も瓦についてだいぶ関心が高まってきました。
5月13日(日)の発表.どこでされるのですか?
私はこの日は川瀬さんの「平曲」の日なので,
どのような話なのか興味津々です。
ぜひ文章でも発表していただけたら幸いです。
投稿: 肥さん | 2018年4月15日 (日) 16:18
文教区民センターです。主題は議論の出発点の置き方です。古田先生が示した方法は、終着点を決めず、史料に取り組む学問の方法でした。それが今、みんなが実行できているかどうかを考えてみるという話です。そのなかで二中歴、海東諸国記に対して新たにきずいたことも報告します。
投稿: 上城です。 | 2018年4月15日 (日) 16:40
多元的古代研究会の
発表と懇談の会 2018年 5月13日(日) 13:00~
(資料代500円)
①古田史学の原点にもどって 大下 隆司 氏・上城 誠 氏
16:00~ 「懇談・懇親の会」開催
(飲食あり予定・会費500円)
会場: 文京区民センター
ですね。私の平曲会とぶつかっているので残念ながら行けませんが。
投稿: 川瀬 | 2018年4月15日 (日) 18:07
追伸
瓦は最初は寺院の屋根をふくために生まれたものかもしれませんね。
つまりタリシホコの時代は宮殿はいまだ檜皮葺だったかもしれない。伝統的な神殿建築の流れとして。しかし外来のものである仏殿は瓦で最初から屋根を葺いていたかもしれませんね。
前期難波宮はたしか瓦葺ではなかったと思いました。
でも後期難波宮は瓦葺で、軒丸瓦には重圏文瓦という特徴的な聖武期を示す瓦が使われていました。
宮殿の方が瓦の使用は後だったのでは?
投稿: 川瀬 | 2018年4月15日 (日) 18:12
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 宮殿の方が瓦の使用は後だったのでは?
寺院での瓦の使用 → 宮殿での瓦の使用
という順番だったということですね。
そういう気もします。
投稿: 肥さん | 2018年4月16日 (月) 00:49
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ですね。私の平曲会とぶつかっているので
残念ながら行けませんが。
そうでした。そちらが先の約束ですからね。
投稿: 肥さん | 2018年4月16日 (月) 00:52