国分寺出土・蓮華文軒丸瓦の「素」「単」「複」調査(4)
今回は,南海道と西海道の国分寺をお届けする。
(もちろんこの地域区分は,大和中心のものであり,
九州王朝のものとは違うことは言うまでもない)
【南海道】
(31) 紀伊国分寺・・・「単」「複」
(32) 阿波国分寺・・・「単」「複」
(33) 讃岐国分寺・・・「素」「単」「複」
(34) 伊予国分寺・・・「単」「複」
(35) 土佐国分寺・・・「素」「単」「複」
【西海道】
(36) 筑前国分寺・・・「単」「複」
(37) 筑後国分寺・・・「単」「複」
(38) 肥前国分寺・・・「単」「複」
(39) 肥後国分寺・・・゛「単」「複」
(40) 豊前国分寺・・・「単」「複」
(41) 日向国分寺・・・「単」「複」
(42) 大隅国分寺・・・「複」
(43) 薩摩国分寺・・・「単」「複」
(44) 壱岐国分寺・・・?
(45) 対馬国分寺・・・?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【調査を終えて】
もし「素弁」が7世紀初頭創建,「単弁」が7世紀半ば創建,
「複弁」が7世紀後半創建の証拠だとすると,
聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した時には,
もうすでに「国分寺(国府寺?)」はあったことになる。
だから,聖武天皇は「七重塔を建てよ」とは言ったが,
「塔以外の金堂や講堂も建てよ」とは言えなかったのではないか。
それが服部仮説や今回の調査によって,はっきりしてしまったのではないかと思う。
やはり「(国分寺建立の詔の中に)国分寺」はなかった!
今回の服部仮説の刺激を受けて,
再び多元的「国分寺」研究が推進されることを期待したい。
また,その成果を世に問う日も近いと考える。
※ だいぶ「抜け落ち」があったため,
【調査を終えて】は,(68) 豊後国分寺のあとに移動予定です。
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コメント
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肥さんへ
調査お疲れさまでした。
個々の国分寺の研究の際に役立つと思います。
一つ気になることがあります。
全国分寺をチェックしたわけではありませんが、
播磨国分寺が肥さんの調査に無いように思いますが、
播磨国分寺は資料になかったのでしょうか?
投稿: 山田 | 2018年4月12日 (木) 08:13
山田さんへ
コメントありがとうございます。
播磨国分寺は,『新修 国分寺の研究』に山陽道に出ていなくて
載せられませんでした。
山田さんに教えていただき,ふと気が付いて「第七巻 補遺」を見たら,
そこに「播磨国分寺」の項がありました。
ほかにも抜けている国分寺が「補遺」で見つかりましたので,
(5)としてもう1回書きますね。ありがとうございました!
投稿: 肥さん | 2018年4月12日 (木) 09:24
>もし「素弁」が7世紀初頭創建,「単弁」が7世紀半ば創建,
「複弁」が7世紀後半創建の証拠だとすると,
聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した時には,
もうすでに「国分寺(国府寺?)」はあったことになる。
だから,聖武天皇は「七重塔を建てよ」とは言ったが,
「塔以外の金堂や講堂も建てよ」とは言えなかったのではないか。
それが服部仮説や今回の調査によって,はっきりしてしまったのではないかと思う。
やはり「(国分寺建立の詔の中に)国分寺」はなかった!
はいその通りですね。
今まで私たちは伽藍配置と遺構からこの判断の正しさを証明しようとしてきましたが、服部さんの考察を基礎に据えれば、出土瓦という強い味方を得たわけですね。
今後国分寺遺跡を一つ一つ再検討するに際し、瓦と遺構(伽藍配置の)の二つから突っ込んでいくことが求められますね。
投稿: 川瀬 | 2018年4月12日 (木) 14:47