« 昨日の部活動 3/11 | トップページ | 昨日の部活動 3/12 »

2018年3月12日 (月)

鋳造記事の前に「使用命令」「禁止命令」の矛盾

「今より以後,必ず銅銭を用い,銀銭を用いることなかれ」(683年4月15日)
「銀を用いること止むることなかれ」(同4月18日)
というたて続けの記事が天武紀にあり,印象的である。

これらをめぐっては,銀銭と銀は同じものなのか違うのか
というような細かな議論もあると思うが,
今私が確認しておきたいのは,では「誰が鋳造したお金なのか」という
初出記事のことなのである。
これが683年以前にあれば,とりあえず問題はない。
だが,そうでないとしたら,これは例の「誰が最初にやったかを隠しておいて,
自分がやったことにしてしまう」という記事の可能性があるからである。

では,鋳造記事の初出は・・・
691年「七月,伊予国国司が産銀を献上する」
694年「三月,~らを鋳銭司に召す」
698年「三月,因幡国,銅の鉱を献る」
    「九月,周防国,銅の鉱を献る」
699年「始めて催鋳銭司を置く」
    7世紀末に至って,ようやく役所の設置とは?

やはりお金についても,九州王朝下での事業を隠し,
あくまでも自分のやった事業ということを主張しているように思われる。

そして,これと並行して,貨幣発行を巡るさまざまなトラブルの記事も頻発していることを記し,
史官が「この混乱ぶりから見ても,どういう変動(主権者の変更)があったかわかりますよね」
と出来る限りの示唆を与えてくれているようにも思える。

« 昨日の部活動 3/11 | トップページ | 昨日の部活動 3/12 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

貨幣の発行管理も国家の重要な事業ですから、
ここにも倭国(九州王朝)の事績がかならず登場しますね。
そして肥さんのアタック「無かった!」がさく裂することに。

以前に菊花紋とみられるものがある銀銭の話がありましたね。
あの本、まだ感想を書けていませんでした。思い出しました。

肥さんへ

鋳造記事ではありませんが、『日本書紀』の銀銭の初出は次の記事です。

《顯宗天皇二年(丙寅四八六)十月》
冬十月戊午朔癸亥〔6日〕、宴群臣。是時、天下安平、民無徭役。歳比登稔、百姓殷富。稻斛銀銭一文。牛馬被野。

>そして,これと並行して,貨幣発行を巡るさまざまなトラブルの記事も頻発していることを記し,
史官が「この混乱ぶりから見ても,どういう変動(主権者の変更)があったかわかりますよね」
と出来る限りの示唆を与えてくれているようにも思える。

 はい。その通りだと思います。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

お金にまつわる記事は,「日本書紀」や「続日本紀」にたくさんありますね。
それを全部拾い上げていくと,「何が何だかわからなくなる」というのが関の山です。
大切なのは,「誰がいつ始めた」ということが書いてあるかどうかで,
それが書いていない記事は,やはり疑ってみることが大切だと思うのです。
だって,正史ですから,「〇〇年,~を始めた」と書けば,それで済むとも言えるのだから。
それが「続日本紀」の「始めて~」記事で,

699年五月一一日,「始めて銀銭を行う」
699年八月十日,「始めて銅銭を行う」

と誇らかに出てくるわけです。
「続日本紀」には多くの「始めて(初めて)」記事が出てきますが,
これは「我が大和王朝としては始めて(初めて)~した」という意味で,
「日本列島で初めて」という意味でないことは,
701年の大宝年号建元記事と同じです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 はい。その通りだと思います。

川瀬さんにご賛同いただき,うれしいです。
少しずつ「当時の史官」の気持ちに寄り添えてきた気がします。
やはり「真実の歴史を知りたい,伝えたい」という
共通した思いがあるからでしょうか。(o^-^o)

肥さんへ

>「続日本紀」には多くの「始めて(初めて)」記事が出てきますが,
  これは「我が大和王朝としては始めて(初めて)~した」という意味で,
  「日本列島で初めて」という意味でないことは,
  701年の大宝年号建元記事と同じです。

確かにその通りですね。そういう意味では『続日本紀』のほうが
『日本書紀』より収穫が多いかもしれません。

趣味の話でいえば、私は「元嘉暦」で書かれている『日本書紀』のほうが
なんとなく親しみがあります。
今気になっているのは「太朝臣安萬侶墓誌」が「乾象暦」で書かれていることです。
多氏が三国時代の呉の出身だからとはいわれているのですが…。

そういえばこの墓誌、刻字の横に墨で同じ字が書かれていたようです。
いろんな説がありますが、私は石工が色々な書体をかき分けられたとは
考えられないので、横に書かれた字(お手本)を見て墓誌を彫ったのだと考えています。
書家と石工は分業だったという考えです。
他の墓誌も調べれば同じことがあるのではないでしょうか。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 今気になっているのは「太朝臣安萬侶墓誌」が「乾象暦」で書かれていることです。
多氏が三国時代の呉の出身だからとはいわれているのですが…。

へー,それは興味深いですね。

〉 そういえばこの墓誌、刻字の横に墨で同じ字が書かれていたようです。
いろんな説がありますが、私は石工が色々な書体をかき分けられたとは
考えられないので、横に書かれた字(お手本)を見て墓誌を彫ったのだと考えています。
書家と石工は分業だったという考えです。

へー,そんなものが残っていたのですね。(分業の件)私もそう思います。

>やはり「真実の歴史を知りたい,伝えたい」という
共通した思いがあるからでしょうか。(o^-^o)

 朝廷の史官の仕事は歴史を記録することです。だから「知りたい」ではなく「伝えたい」ですね。権力者からはいろいろ歴史の改竄(財務省の記録を虚偽答弁にあわせて「書き換えた」といっていますが、これは改竄。歴史の事実を書き換えるのも改竄)を命令され、従わないと首を切られるから(単に解任ではなく文字通り首を切られることもある)、「改竄」したふりをして、どうせ「改竄」したと明確にはわからないように書くわけだから、これを逆手にとって、「改竄」の痕跡をそれと明瞭ではない形にして残すという工夫をしたのでしょうね。真実の歴史を伝えるために、改竄した文書の各所にその手がかりを残すという。
 財務官僚が、改竄前の文書と改竄したあとの文書の双方を残したのは、権力者の意向にそって自分の保身のために改竄したが、権力者はいつも権力から失墜する可能性があるから、その時に備えて、改善前の文書も残したわけです。実は上の命令でやったので、私の良心に反するので、その証拠を残しましたと。自殺した近畿財務局の係り官など、まさにこれです。遺書の横に改竄前の文書を残したのですから。
 自殺しないで堂々と内部告発すれば良いのに。自殺して家族を悲しませるのと、内部告発して官を解かれ、復職闘争をするのと、どちらが自分や家族の将来について良策か。後者であることは論をまたない。前者は近視眼的選択。
 歴史上の朝廷の史官は、どちらの策も取らず、改竄文書の中に改竄の手掛かりを残して、将来的に改竄を暴露してくれることに望みをかけたのでしょう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 自殺しないで堂々と内部告発すれば良いのに。自殺して家族を悲しませるのと、
内部告発して官を解かれ、復職闘争をするのと、どちらが自分や家族の将来について良策か。
後者であることは論をまたない。前者は近視眼的選択。

そうですね。現在では,裁判で戦うという方法がありますから。

〉  歴史上の朝廷の史官は、どちらの策も取らず、改竄文書の中に改竄の手掛かりを残して、
将来的に改竄を暴露してくれることに望みをかけたのでしょう。

それは,当時としてできるギリギリの手段なのでしょう。
彼等の後世の歴史研究に託した望みを,
私たちは古田さんに学びながら解明していかなければなりませんね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 昨日の部活動 3/11 | トップページ | 昨日の部活動 3/12 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ