『和名抄』と『庚午年籍770巻』(James Macさん)
James Macさんが前回の「「筑紫諸国」の『庚午年籍七百七十巻』と戸数」での見解を変更して,
「『和名抄』と『庚午年籍770巻』」という文を書かれています。
関心がある方もおられると思いますので,リンクさせていただきますね。
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fecd13b594ef854eec24b61296c26c78
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肥さんへ
「抜かれて」しまいましたが、私も追っかけています。
でも、「日向」「大隅」「薩摩」に関して、
いや、九州王朝自体に関してかな、
James Mac さまと異なる見解(妄想)を述べています。
わが国にも「三国時代」があったという妄想です。
薩夜麻政権(再建九州王朝=唐傀儡、国名「何でしょう?」)
天智近江朝廷(継承「倭国」)
九州王朝反唐派(薩摩・大隅・日向)
投稿: 山田 | 2018年3月14日 (水) 10:38
山田さんへ
コメントありがとうございます。
我が国にも,「三国時代」があったと・・・。
謎は深まるばかりですね。
投稿: 肥さん | 2018年3月15日 (木) 00:55
肥さんへ
九州王朝は唐・新羅連合と戦争をしたわけです。
天子が国内に残っていて無条件降伏をしたのなら、
九州王朝の支配下の勢力は従ったと思いますが、
薩夜麻は虜囚の身となって唐にいたわけです。
つまり、無条件降伏はあり得ない状況だった。
その状況の中で唐は進駐してきて筑紫都督府による直轄統治に入った。
九州王朝残党(反唐勢力)は当然徹底的に抵抗したわけです。
近畿地方に拠点を置いている天智近江朝は防衛を第一に考えている。
筑紫都督府による直轄統治は失敗した。
(筑紫都督府による直轄統治が成功していれば、
その後の歴史は、唐を日本列島から追い出す歴史になるか、
サンフランシスコ条約のような戦後処理をして、
形だけでも独立国になっていく歴史になったはずです。)
唐が九州島全島を支配できずに直轄統治に失敗したのは、
天智近江朝が薩摩・大隅に軍勢を送って全九州島の支配を阻んだとは考えにくい。
薩摩・大隅地方を拠点とした反唐派勢力が唐の全九州島の支配を阻んだと考えるのが妥当です。
とすれば、この勢力は近江朝とも薩夜麻傀儡とも基本的立場が異なっている。
だから三国状態となったであろうというのが私の妄想です。
この妄想によれば近江朝が倒されても、倒した勢力とは立場が違いますので、
仮に「九州王朝(の天子)」が「日本国」に禅譲(?)しようとも、「はいそうですか」とはならない。
これが隼人の反乱として長びいた原因ではないかと考えたわけです。
唐と戦争を始めて虜囚となっていた薩夜麻が唐の傀儡となって帰ってきたとき、
もともとの九州王朝の反唐勢力が亡国天子薩夜麻のいうことを聞くはずがない。
(私なら薩夜麻のいうことなど絶対に聞きません。)
これが私の妄想の根本にあるのです。
投稿: 山田 | 2018年3月15日 (木) 02:36
山田さんへ
コメントありがとうございます。
つまり,九(北九州)・九(南九州)・近江の三国時代という訳ですね。
とすると,その後の日本国の統治へは,どのようにつながるのでしょうか?
また,考古学的な遺物・遺跡としては,どんなものがあるのでしょうか?
投稿: 肥さん | 2018年3月15日 (木) 05:15
肥さんへ
>考古学的な遺物・遺跡としては,どんなものがあるのでしょうか?
「考古学的な遺物・遺跡」という要求が良くわかりませんが、
「九(北九州)」については筑紫都督府跡(都府楼跡、Ⅱ期)があります。
「隼人の乱」の遺跡は「壬申の乱」の遺跡を求められているようなもので、
「乱」の証拠は文献でしか挙げることができません。
天子のいない残党勢力ですから、「薩摩に天子の宮殿があった」という妄想ではありません。
ともかく、「九(北九州)」と「九(南九州)」とが一番立場が異なっています(正反対=敵対している)。
アフガニスタンで例えれば「ロシア」と「タリバン」ですね。天智の近江朝が「北部同盟」。
>その後の日本国の統治へは,どのようにつながるのでしょうか?
妄想によれば、大海人皇子(「九(北九州)」朝廷の臣下「真人」)が近江朝を倒し、
その後はあまり明らかではないですが、臣下が「九(北九州)」の天子にとってかわった、
というのが「日本国」の大宝建元だったと見ます。
「とってかわった」というのは「魏」が後漢の献帝にせまったような“禅譲”だったのかも知れません。
“禅譲”というのは、「西晋」も「魏」と同様な形で、「脅迫して天子をやめさせ、自分が位につく」という手段です。
つまり、「脅迫」されるような実権・実力が失われた天子の場合に有効な手段が“禅譲”で、
実権・実力もつ天子に対する手段が“革命(天子になれという天命があったと主張する武力行使)”ということです。
ただ、「九(北九州)」の天子がどこにいたかは不明です(わかっていれば教えて)。
それを認めない勢力「九(南九州)」が反乱を起こして何度も抵抗(「日本国」が“隼人の乱”という内戦)をしたのだ、
という妄想(「見立て」)です。「壬申の乱」だって内戦です。“隼人の乱”だって内戦です。
“隼人の乱”と“蝦夷の乱”に最終的に勝利して「日本国」は反唐勢力を一掃できたことになります。
その後はご存知の通り、唐が衰退するまでえんえんと「遣唐使」を送り続ける歴史になっています。
投稿: 山田 | 2018年3月15日 (木) 09:30
薩夜麻は九州王朝の天子だったのでしょうか。この冒頭の部分から事実から遊離していると思う。
確かに彼は筑紫君。
でもこの時期の九州王朝では、筑紫君とは皇太子のことだと思う。イギリスにおいて皇太子がプリンス・オブ・ウエールズと称するのと同じ。
白村江のころの九州王朝の天子は女帝ではなかったか。だからその弟が皇太弟となって補佐し、戦自体は皇太子が指揮官となって戦って捕虜となった。
天子は残っていたのだから、天子の命のもと九州王朝・日本国は唐に全面降伏したのだと思います。
だから九州王朝は唐に服従。もともと唐とも友好関係を持っていた倭国・近畿天皇家も服従。唐と戦って敗れたあと、唐の進駐軍と九州王朝の軍とが戦ったとの痕跡もありません。
薩摩大隅の隼人が戦いの火ぶたをきったのは、倭国・近畿天皇家が九州王朝天子から天子の位を奪い(譲り受け)列島の統治権を総攬するようになってからの話です。
したがってこの時期の日本には「三国時代」などありません。
James Macさんの、『和名抄』と『庚午年籍770巻』による九州王朝の領域推定は、私が先にJames Macさんの説を批判して出した見解とほぼ同じで妥当なものだと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年3月15日 (木) 13:03
川瀬さんへお尋ねします
私の「妄想」にわざわざお付き合い頂きありがとうございます。
「妄想」を詳しく展開したのは、肥さんのご質問に答えるために、
私の「妄想」をご説明したまでのことで、「史実」だと主張したのではありません。
(だから、はじめから「妄想」と申し上げております。)
私の「妄想」の根拠(妄想に根拠など必要ないのでしょうが)は、
薩夜麻=九州王朝の天子、だから全面降伏の状態にはなかった、
というものでした。
川瀬さんは、
九州王朝の天子は女帝で、「筑紫の君」というのは「皇太子」の別称、
すなわち薩夜麻は皇太子、だから天子が全面降伏したのが事実、
とのことでしょうか。
私は「妄想」とお断りしましたが、
川瀬さんの
① 九州王朝の天子は女帝
② 「筑紫の君」というのは「皇太子」の別称
は「実証」に基づいた結論なのでしょうか。
川瀬さんのご意見に反論しようとしているのではありません。
ただ、川瀬さんが常に主張されている「実証」に基づいたものなのかどうかを
皆さんとともに確認するためにしている質問です。
この質問はそれ以上の意味をもっていませんし、
私は、私の「妄想」について、川瀬さんと論争するつもりは全くありません。
ですから、この場で改めて「実証」して頂かなくて結構です。
「実証に基づいたものか否か」このことだけお答え頂ければありがたく存じます。
よろしくお願いいたします。
投稿: 山田春廣 | 2018年3月15日 (木) 21:52
白村江の時期の九州王朝の天子が女帝。これは古田さんが論証されたこと。
「筑紫の君」というのは「皇太子」の別称。これは私の論。上の古田さんの理解に基づくとこうなる。
そして女帝を弟が皇太弟として補佐していたというのは、天智三年に新しく冠位を定めた記事があるが、ここにある冠位がその前の年に唐との戦いに出征した将軍の冠位としてでているので、この記事は天智二年の記事を移動したものと考え、この冠位は天が皇太弟に命じて定めたとあることに基づいたもの。
従来はこの天皇を天智、皇太弟を大海皇子と読んでいる。
元の記事は
三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。其冠有廿六階。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、是爲廿六階焉。改前花曰錦、從錦至乙加十階。又加換前初位一階、爲大建・小建二階
以上です。
妄想など、わざわざ披露する必要もないと思います。史料事実を押え、先行研究を吟味して考察するのが歴史学です。
投稿: 川瀬 | 2018年3月16日 (金) 13:02