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2018年2月17日 (土)

かつて瀬戸内に「熊毛王国」があった!

上関・中関・下関の順番から,川瀬さんは大和政権中心だといい,
上城さんは九州王朝中心ではないかと言った。
私は両者のおっしゃりたいことはわかるつもりだが,
1つ疑問があった。
それは,「大和中心」だとは思うが,大和からめちゃくちゃ遠いところに,
なぜ上関が置かれたのかということだった。

今回上関を調べる中で初めて知った,
3~7世紀に瀬戸内に栄えた「熊毛王国」を間に置くと,
その謎が解けるように思うが,いかがだろうか。

熊毛王国

https://ja.wikipedia.org/wiki/熊毛王国

茶臼山古墳

https://www.city-yanai.jp/site/bunkazai/chausuyama-kohun.html

出土遺物一括

https://www.city-yanai.jp/site/bunkazai/chausuyama-ibutsu.html


かつて山口県に熊毛王国があったそうだ。
それが7世紀に大和政権に滅ぼされて,その版図となった。
すると,そこが今度は大和政権の最西端になることから
「上関」と名前が付けられたのではないか。

前方後円墳の豪族の墓が並ぶように,
かつて熊毛王国は九州王朝と仲良くやっていたに違いない。
また,神籠石遺跡のある岩城山は,古代は島だったようだ。
それを神籠石で囲むのだから,さらに強力な要塞施設だったろう。

熊毛王国街道マップ

http://www.town.tabuse.lg.jp/www/contents/1473040867926/html/common/other/57cf6ce8003.pdf

それが,7世紀に大和政権の手に落ちることになった。
そして,かつて九州王朝にとって「守りの砦」だったこの地は,
その版図を西に広げていく拠点(フロンティア)となっていった。

上関 → 中関 → 下関

このように大和の版図は広がっていき,
やがては九州島だけに・・・と歴史が進んだかはわからない。
しかし,これで「上関が大和から遠く離れたところにある」のではなく,
「大和の版図になった場所が,そう名付けられた」という仮説が,
1つ立てられたのではないか,と思う。

九州王朝の版図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その最東端の熊毛王国 ← (6世紀に滅ぼす) 大和政権の版図
                                 ↓
          (下関)  (中関)  (上関)  大和の最西端の版図に大転換

※ 「新古代学の扉」をサイト検索しましたが,「熊毛王国」ではヒットなし!
やったかも!ヽ(´▽`)/

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

「作業仮説」としてはとても良いと思います。

ただ、現在の学説(熊毛王国)は「一元史観」で書かれていますので、
それが事実であるかどうかを「多元史観」で検証する必要があります。
具体例として言えば「7世紀にヤマト朝廷によって滅ぼされた」などです。

『古事記』や『日本書紀』にこの王国はどのように記述されているのでしょうか。

出土物を精査してみてください。例えば土器の様式編年や土の成分がどうかなど。
「一元史観」で「ヤマト朝廷」から“分与”されたとされる「三角縁神獣鏡」は出土しているか、
鏡は何時の時代の様式であるか(漢、魏、南北朝)、その文字はなど、検討材料があるはずです。

もう一つの問題は、地名の「上・中・下」がいつの時代につけられたのか
ということですが、これはなかなか特定できないと思います。
「赤間関」「馬関」などは古来からの地名だったかもしれませんが、
「下関」はそうではない可能性もあるのではないでしょうか。
地名の「天皇」とか「紫宸殿」とかいうのは事実の残存したものと考えられますが、
「上・中・下」などは「日本国」になってから付け(替え)られたのかも知れません。

古王国の存在と地名の「上・中・下」だけで歴史を再現するのは困難でしょう。

存在した王国は、誰が統合したかは別として、いずれにせよ統一されていったのです。
現在の「作業仮説」は一元史観の上にそのまま乗っかっているように思えますので、
5W1H(いつ・誰が・何(どこ)を・どうやって・なぜ)を多元史観で再構築し、
その推定事実と矛盾しないように「仮説」として構築してみると良いのではないでしょうか。

「仮説」として構築されるよう、ご健闘を祈ります。

熊毛王国なる概念は、だれがいつどのような史料を元にして出したものなのでしょうか。肥沼さんが示したサイトは史料の出典が全く示されていないので信ずるに足りません。そもそもそこに示された「古柳井水道」というのはいつごろあったのか。「古代」とだけでは判断もつきません。
 そしてこのサイトに示されたこの地域が6世紀には大和の勢力下にあったというのは、九州王朝説を無視した従来の大和中心史観ですから、これに依拠して、今論じている上関・中関・下関の問題を論じてみても意味ないと思います。むしろ岩城山に朝鮮式山城があるのだから、白村江の戦いに至る過程で九州王朝がその中枢を防衛するために山城を作ったと考えられるので、このサイトにある6世紀には大和にというのは根本的な間違いです。
 7世紀中ごろでもこの地域は九州王朝の中枢域の一つと判断すべきです。九州王朝論に依拠すれば。したがってここに「熊毛王」なる有力豪族がいたとしても、7世紀中ごろまでも彼は九州王朝の一豪族です。
 安易に熊毛王国なる概念に飛びつくのは間違いです。
 また上城さんの意見も私の意見もわかるとおっしゃいますが、二つは根本的に対立しています。どうわかるのでしょうか。私は上関中関下関の地名を、後世の上町中町下町やさらに神社の社でも上宮中宮下宮とあって、どの場合でも聖なるもの権力者の地に近いところが上であると判断し、上関がより東にあるから大和中心になった8世紀以後の地名と判断しました。そしてこの三つの地名ができたのはずっと後世だと思うのです。九州から大和への権力移行の時期ではない。
 もともとここには「関」なる地名があった。そしてこれは古代からの海上の関であった。それがずっと後世に、おそらく中世以降だと思うが、今のように三つの地名になったと。
 上城さんはどうも違うように思います。九州王朝時代の地名で、むしろ聖なるもの権力中心から遠い方を上とお考えのよう。その根拠が示されないので可否を判断できませんが、私の判断とは根本的に違います。

山田さんへ 川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「熊毛王国」については,文献史料など追及してみたいと思っています。
とりあえず,柳井市の教育委員会に問い合わせます。
茶臼山古墳の出土物は,おそらく未盗掘のものだと思いますが,
なかなかのものだと思っています。
(古墳時代最大鏡+「三種の神器」セット?)

〉  また上城さんの意見も私の意見もわかるとおっしゃいますが、
二つは根本的に対立しています。
どうわかるのでしょうか。

そういうことではなく,
「九州王朝版図内に関がある」というところでは上城さんに近く,
「中心に近い方から上・中・下となる」というところでは川瀬さんに近いという意味です。
その矛盾を解くのが,その中間にあった「熊毛王国」という訳です。
川瀬さんには認めてもらもらえないようですが・・・。

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