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2018年2月 3日 (土)

「無かった」の論理!?

山田さんのサイトの話題を読んでいたら,
途中で何やら聞いたことのあるサイトの名前が・・・。

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創建記録が無かった!

ここで「肥さんの夢ブログ(中社)」http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/

の肥さんが駆使される「無かった」の論理を使います。

法興寺の創建は記録がありますが、元興寺には創建の記録がありませんでした。

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「肥さんの夢ブログ」のサイトを紹介していただけただけでもうれしいのに,
私を「無かった」の論理の「駆使」者にまでしていただいたのでした。
ということで,すかさずアップさせていただきます。

「無かった」の論理とは,「ある事業について,そのスタートの命令(天皇の詔勅など)がない時,
それはわからなくて書かないのではなく,わかりすぎているから書けない,と考えると,
思考がスムーズになりますよ」という発想法のようなものです。※

現に山田さんはこれを使って,「元興寺には創建の記録がない」ということを「発見」されてしまいました。
これは多元的古代の歴史研究にとって,価値あるものではないでしょうか!私はそう思います。

元興寺が,その後,平城京に再移築されて寺院名が大安寺となったのかどうかは,
これからの研究を待ちたいと思いますが,けっこうあり得るのではないかという予感がします。

※ 「無かった」の論理の活用例としては,
「古代日本ハイウェー」の問題や「国分寺の創建」の問題があります。
私は,いずれも九州王朝がスタートさせたと考えています。

※ 「無かった」の論理は,よく考えてみると,川瀬さんが発見され,私が命名した,
「主語有無」の論理と同じことですね。(九州王朝の天皇は主語なしで,近畿天皇家の場合は主語あり)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ
さっそくの反応アップ、ありがとうございます。

〉元興寺が,その後,平城京に再移築されて寺院名が大安寺となったのかどうかは,
 これからの研究を待ちたいと思いますが,けっこうあり得るのではないかという予感がします。

確かに「これからの研究を待ちたい」のですが、私は次によっているだけです。

・記録を根拠のない原文改訂せずに読む
  『続日本紀』〔靈龜二年五月条〕に次のように書かれている。
   始徙建元興寺于左京六条四坊(「始めて元興寺を左京六条四坊に徒し建つ」)

・発掘調査でわかった事実を尊重する
   平城京の左京六条四坊には「大安寺」の遺跡がある(現在もある)
    すなわち元興寺を移した場所に「大安寺」(平城京大官大寺)があるのです。

法興寺=元興寺説の根拠はやはり『続日本紀』〔養老二年九月条〕です。
   遷法興寺於新京(「法興寺を新京に遷す」)
    平城京元興寺は東大寺の近くで、飛鳥寺の瓦(最古の瓦とされている)があります。
    飛鳥に残った法興寺(飛鳥寺)は「本元興寺」とも呼ばれています。

これによって、従来説は 『続日本紀』が誤っている としてしまうのです。

しかし、従来説は非論理的な『続日本紀』の原文改訂です。
反証一つあげれば間違いであると証明されるものです。

詳しくは、わたくしのブログ記事をご覧ください。
非論理的な『続日本紀』への原文改訂 ―大安寺は元興寺を遷したもの―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/06/post-3759.html

大官大寺は文献からは次の変遷をたどったと考えています。
百済大寺(吉備池廃寺)→藤原京大官大寺(=高市大寺を改名、焼亡百済大寺金堂を移築)→大安寺(=平城京大官大寺、元興寺を移築)

従来説が藤原京大官大寺を“文武朝大官大寺”と妄想して「高市大寺」を探すのは滑稽です。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

それでは,もう「妄想」どころではなく,次に進めそうですね、

ところで,コメント中に「高市大寺を改名」とありますが,
これって,あの天武天皇の子で,長屋王の父の,高市皇子の名前にちなんだ寺院名ですよね?
彼は「高市天皇説」もある人で,本当かどうかわかりませんが,薩夜麻のことだという。
そうすると,近畿天皇家が藤原京に九州王朝の天皇を迎えるセレモニーの1つとして,
寺院に彼の名前を付けていた!という「妄想」もありえますかね。
(例証・・・西武球場のことを命名権とかで,米国企業の名をとって,メットライフドームと,5年間呼そうですが,
地元の人は慣れない名前にかなり戸惑っているもので・・・)

肥さんへ

〉ところで,コメント中に「高市大寺を改名」とありますが,
これって,あの天武天皇の子で,長屋王の父の,高市皇子の名前にちなんだ寺院名ですよね?
彼は「高市天皇説」もある人で,本当かどうかわかりませんが,薩夜麻のことだという。

私は、高市天皇=薩夜麻説というものがあるとは知りませんでしたが、
長屋王邸宅跡から「長屋親王」という木簡が出土しているのは事実です。

私は、次のことに依拠して立論しているのです。
・推古天皇以降(舒明天皇即位)から文武天皇(日本国初代天皇)即位までについては、『日本書紀』が最古の記録ある。
・土器と瓦の編年がどうであれ、史書に三つしかない大官大寺(百済大寺・大官大寺・大安寺)を四つにするのは不当である。
・大寺の造営に関しては、かならず「造る」という宣言がなされたり、「造~寺司」の設置がされている(完成も記されている場合が多い)。
・従来説“文武朝大官大寺”は、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(以下、縁起)の「文武、九重塔と金堂を建て、丈六の仏像を造らせる。」(小沢毅氏による)という一文だけが確かな唯一の根拠なのです。これは年号も記されておらず、何時のことだかわからないもので、縁起が日本国初代天皇の事績にした記事だと推定されるものです。
・史書を思い込みによって読解している。一例をあげます。「大宝元年(701) 造大安寺官と造薬師寺官を寮に準じさせる。造塔官と造丈六官を司に準じさせる。」(『続日本紀』、小沢毅氏による)を“文武朝大官大寺”のこととしている。しかし、これは役職の格上げの話である。また、「造大安寺官」は文字通り「大安寺」の話であり、「造塔官」は九重塔が焼亡した百済寺を移築した高市大寺(大官大寺)は塔が無かったので造っているもと考えられるし、「造六丈官」は大安寺の丈六仏像を造っているとも考えられる。つまり、どの寺がどのような状態にあるかを一切考慮せず、大宝元年に書いてある記事を全て“文武朝大官大寺”のことだと単純に解釈している。

以上のことから、縁起の「文武、九重塔と金堂を建て、丈六の仏像を造らせる。」という一文が“文武朝大官大寺”の唯一の確かな文献上の根拠なのです。これだけで、百済大寺→高市大寺→文武朝大官大寺→大安寺としているのです。それに、土器と瓦が天武朝まで遡らないとして藤原京大官大寺を“文武朝大官大寺”と断定して、「“高市大寺(天武朝大官大寺)”を探せ」としているのです。

大官大寺の遺跡は、
百済大寺(吉備池廃寺)
大官大寺(藤原京)
大安寺(平城京)
の三つしかありません。

従来説(この説が有力だという)は次のように区分していました。
百済大寺…吉備池廃寺
高市大寺…“天武朝大官大寺”
“文武朝大官大寺”…大官大寺(藤原京)
大安寺…平城京大官大寺
そして、高市大寺(“天武朝大官大寺”)の遺跡が見つからないと騒いでいる。

ところが、私が文献を精査すると遺跡も文献も三つしかないのです。

従来説は、土器と瓦が天武朝まで遡らないとして、
大官大寺(藤原京)を“文武朝大官大寺”であるとし、
高市大寺(“天武朝大官大寺”)を探しているようなのです。

大官大寺(藤原京)を文献に存在しない“文武朝大官大寺(高市大寺と大安寺の間に造られたとしている)”に比定して、彼らがいう“高市大寺(百済大寺と藤原京大官大寺の間に造られたとする)”を探してもあるはずないと考えています。

かれらが守りたいのは土器や瓦による「飛鳥編年」なのだと考えています。

文献では、
①百済大寺(吉備池廃寺)
②大官大寺(藤原京)=高市大寺=天武・持統朝大官大寺
③大安寺(平城京大官大寺=「日本国」の大官大寺)

・百済大寺は「社神の怨みにより、九重塔と金堂の石鴟尾を焼破。」(縁起、小沢毅氏による)
(成した舒明12年(640)以降に焼亡したはずです。これは『日本書紀』の次の記事で明らかです。百済大寺は金堂が使えないため、庭に仏像を置いて読経をしています。
《皇極天皇元年秋七月甲寅朔》「庚辰(27日)、於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像屈請衆僧、讀大雲經等。」

・そこで皇極天皇は百済大寺の再建を發願します。
《皇極天皇二年(642)九月》「癸丑朔乙卯(3日)、天皇詔大臣曰、朕思欲起造大寺。宜發近江與越之丁。〈百済大寺〉…(後略)…」

・「天智天皇7年(668)丈六釈迦像ほかの諸像を百済大寺に安置する。」(扶桑略記、小沢毅氏による)金堂は完成していたと考えられます。九重塔は不明です。

・天武天皇が美濃王と紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命する。これは今、大官大寺だといっています。百済寺を高市に移したと縁起にあります。金堂は移設されたと考えられますが、塔が(完成していて)移設されたかは不明です。
《天武天皇二年(673)十二月》「戊戌(17日)、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉
「御野王と紀臣訶多麻呂の二人を造寺司に任命する。百済の地から高市の地に寺を移す。」(縁起、小沢毅氏による)

・天武天皇が「高市大寺」という名称を「大官大寺」と改めました。
「天武6年(677)高市大寺を改めて、大官大寺と号す。」(縁起、小沢毅氏による)

・大官大寺で140人あまりを出家させます。金堂と庭は必要でしょう。塔は不明です。
《天武天皇十一年八月壬戌朔》庚寅(29日)、百卌餘人、出家於大官大寺。

・天武天皇の病気のために、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で三日間經を誦ませる。
《天武天皇十四年(685)九月庚辰朔》丁卯(24日)、爲天皇體不豫之、三日、誦經於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。」

・持統天皇、藤原宮へ遷る。藤原宮へ移る前に大官大寺は造られて(移されて)いたと考えるべきでしょう。
《持統天皇八年(694)正月乙酉朔》乙巳(21日)、幸藤原宮、即日遷宮。

・「大宝元年(701) 造大安寺官と造薬師寺官を寮に準じさせる。造塔官と造丈六官を司に準じさせる。」(『続日本紀』、小沢毅氏による)
この「造塔官」と「造丈六官」は“文武朝大官大寺”のことだと断言できないのは先に述べた通りです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 かれらが守りたいのは土器や瓦による「飛鳥編年」なのだと考えています。

なるほどねえ。
「確かでないもの」を守るのは,
本来の学問の仕事ではないのに・・・。

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