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2018年2月19日 (月)

古柳井水道の資料

ようやく探せました。
古柳井水道の資料です。


柳井を作った一族(豪族)柳井(楊井)氏

http://www16.plala.or.jp/tyuusinn/#一、旧多々野(忠信・新生)に残る遺跡・遺物


西暦 領主 通史、柳井市史出典 楊井氏関係出典と解説

弥生 300 周防氏 多々野遺跡 海抜2~10m 場所=新庄新生、土師器、須恵器片出土
弥生 300 周防氏 多々野遺跡 海抜27~30m 場所=新庄新生、土師器、須恵器片出土
古墳 550 周防氏 多々野古墳 海抜29、7m 場所=新庄新生、須恵器、鉄鏃、槍鉋、鞘金具出土
平安 1169 蓮華王院 「1169~1171、楊井庄となる」
 『平生町史』  「嘉応年中自り、蓮華王院御領、楊井庄立加を被る。 楊井新領是也(乃至)地頭職者、楊井太郎之を知行す」
   『内閣文庫所蔵・周防国古文書』
   『鎌倉遺文・僧源尊重申文案』

(以下略)

また,同じサイトのだいぶ下の方に,地図も出ていました。
遺跡や古墳は当時の海岸線を意識したものと思われますから,
やはり「古柳井水道はあった」と言えると思います。

Yanai16


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 山口県には上関・中関・下関という海関があるから、ここが九州王朝と近畿天皇家との領土の境ではないかという肥沼さんの仮説からこの論議ははじまりましたが、ずいぶん遠くまで来てしまいましたね。
 私はどうして同じ地域に三つも海関があるのかが不思議だったので、三つの関の地名の始まりをしらべてみました。
 その結果「下関」の文献的初出は869年(貞観11年)であり、これは「貞観11年9月27日太政官符」(『類聚三代格」巻18所収)であるとはウィキペディアにもありました。そしてこの地が赤間関と呼ばれていたことも平安時代に遡るとも。また「中関」ははっきりと地名の出現時期はわからないものの、ここは長門国府に伴う港であり、室町時代から名の通った港だそうだ。さらに最後の「上関」ですが、ここは古くから「竈戸関」と呼ばれ文献的初出は966年(康保3年)の『清胤王書状』に、長島近辺の集落がイカの塩辛を皇室に進納する御厨として記載されており、また、平安後期には風待ち港として記録が残っている、とこれもウィキペディアにあります。そして「上関」の文献的初出は、1445年(文安2年)の東大寺への年貢船の記録であるともウィキペディアにありました。

 つまり、「中関」(当時の名称は不明)と「下関」(古来赤間関だとおもう)とは、古代の九州王朝時代からの海関で、「上関」は、「古柳井水道」が閉塞して船が熊毛半島を迂回するようになってできた新しい関だということです。 ということは、平安時代後期には三つの海関がそろっていたわけであり、この時期に初めて東から(つまり都に近いところから)「上関」「中関」「下関」と通称として呼ばれるようになった可能性が見て取れるのです。

 言い換えれば「上中下」との名称は平安時代後期になって生まれたものですが、もともとこの長門の国には少なくとも二つの海関があった。もしかして「古柳井水道」の西の出口にもう一つ関があったかもしれないが、この水道の閉塞とともに廃止されて、のちの「上関」ができたのでしょう。ということは長門の国が九州王朝と近畿天皇家の領土の境界にあったことは確かではないでしょうか。

 この問題に「熊毛王国」との概念を介在させなくても十分に理解可能だと思います。

 なお「熊毛王国」で検索していましたら、山口県埋蔵文化センターのブログに出会い、2014年6月に田布施で巡回展「発掘された山口」が開催されたとき、「田布施町の地域性、ひいては山口県の地域性が浮かび上がるような話」をしたところ、「来館者の方々は、「熊毛王国」として地域をアピールしたいという強い意欲をもっておられ、非常に熱心に聞いておられました。」とありました。つまり「熊毛王国」というのは御当地自慢みたいなものじゃないかな?
 http://blog.y-maibun.jp/2014/06/
 また「古柳井水道」で検索していたら、麻里布の浦考-1というサイトに出くわしました。
 ここには「古柳井水道」の閉塞時期の旧説と新説がとりあげられていました。
 これによると旧説は古墳時代後期(7世紀)であり、これを唱えたのが山口県埋蔵文化財センターであり、当時の海岸線は今の標高10mの線と考えていたと記されている。そして新説は、柳井西中の松島幸夫校長によるもので、「柳井市の古墳時代後期とされている水金古墳の調査結果から、古水道の海岸線を5m前後」として閉塞時期を考えたもの」とある。そしてこの校長は、「『万葉集』巻15には、天平8年(736) 6月に難波津(大阪市住之江区)を出発し、翌9年正月に帰朝した遣新羅使等が詠んだ歌145首が記録されている」ことを根拠とし、この遣新羅使の行路は従来はこの時期には「古柳井水道」は閉塞していたので熊毛半島(室津半島)を迂回して航行したと判断されていたが、歌の分析からこの遣新羅使は「古柳井水道」を航行したとみなされるので、この水道は平安時代まで通じていたというものだ。
 http://www.geocities.jp/astpa693/marifu01.html
 このサイトの次のページ麻里布の浦考-2では、遣新羅使の詳しい航路が考察されていました。

追伸
 もう一つ「古柳井水道」で検索していたら、「古柳井水道」の古名は「からと瀬戸」ではないかというサイトを見つけました。
 http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/1-karato-suidoo.html
 この名はすでに古事記の歌にあるとサイトの著者は言っている。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

下関・中関・上関の初出について,あっという間に明らかにして下さいました。
さすが,「検索大王」です。素晴らしい!
私がまったく知らなかったブログもありました。

「熊毛王国」は現代人の「お国自慢」的表現とのことですが,
古墳時代最大鏡や「三種の神機」セット,巴型銅器の出土のことなどを見ると,
やはり「かなりの地位の人物がこの地を治めていた」とは言えるのではないでしょうか。
「熊」も「毛」も古くから使われていた字と思われます。
とりあえず「九州王朝と近畿天皇家の国境付近を治める人々がいた」という意味で,
「雄々しき熊毛の人々」と命名したいと思います。(笑)

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