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2018年2月22日 (木)

九州年号「目録」&分布図の紹介

『市民の古代』第11集(新泉社・1989年)では,,
「「九州年号」とは何か」という特集をしている。
その末尾に「「九州年号」目録」が付いていて,
さらにその全国分布を示している地図が出ている。
これは「九州王朝があったという有力な証拠」と思うのだが,
なかなかその紹介の機会がなかった。

昨日の「雄々しき熊毛の人々」の中心神社であると思われる「熊毛神社」で
九州年号が使われていることを書いた。「友好関係」という言葉を付けて。

さっそく山田さんがコメントして(噛みついて)下さったので,
念願の「「九州年号」目録」を紹介させていただく。


Dscn0911

Dscn0909

Dscn0910


なお,第1種と第2種・第3種に分布図を分けてあるのは,

第1種・・・善記(このころは「継体」は含めていなかった)から大長までの三十二年号から第2種を除いた
 二十七年号を仮称して。
第2種・・・大和朝廷の,いわゆる「正史」に記述のある「白雉・白鳳・朱雀・赤鳥・大化」の五年号だが,
 一連の「九州年号」なのか,「正史」の影響下に生じたものなのか,判断が困難である。よって別図にした。
第3種・・・孤立した年号にもかかわらず,唯一金石文に残る謎の年号「法興」。

という理由からである。

先ほどの山田さんのコメントの前の部分を引用させていただくと,

〉 「九州年号」を使用しているということは、「元嘉暦」を使用しているということであり、
「友好関係」ではなく九州王朝の天子をいただいている地域であるということです。
年号と暦は「観象授時」という思想上一体で運用されるのです。

〉 「年号」を使うためには「年月日」を決める「暦」が必要で、
暦を頒布できるのは天子のみの特権であり、
「正朔を奉ずる(頒布された暦を使う)」ということは、
暦を頒布した権力者を天子と認めるということ、つまり、
暦を頒布した権力者に忠誠を誓うことなのですから、・・・

これらの分布図は,全国(北海道・沖縄を除くと,本州の大部分)に
九州年号が分布しているということを示している。
ということは,大和政権が701年に大宝を建元(続日本紀)するまで,
九州王朝が倭国を代表する主権国家だったと私は考えるし,
「記録の国」中国もその正史でそれを認めてきたことだと思う。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

>さっそく山田さんがコメントして(噛みついて)下さったので,・・・

>「大和政権が701年に大宝を建元(続日本紀)するまで,
九州王朝が倭国を代表する主権国家だった

肥さんに見事乗せられてしまいましたが、
「九州年号」が見事に証明している資料ですね。
一元史観が「九州年号」には触れたくない理由がこれです。

 先に肥沼さんは「新古代学の扉」のサイトを「熊毛」で検索したら、熊毛地方の寺院や神社から多数九州年号が出てきていることに注目されました。
 でも私は肥沼さんが検索した結果の中で、藤原京から「熊毛評」の木簡が出ているということの方が興味がありました。なぜならこのことは、周防の国の熊毛地方が九州王朝の直轄地であったことを示しているからです。
 前に「古田史学の継承のために」で議論していたとき、評制は7世紀中ごろにまず九州王朝の直轄地で施行されたと私は論じました。つまり全国すべてに評制が実施されたわけではないと。九州王朝の直轄地は全部評制が敷かれましたが、その他の地域では、各地の九州王朝下にある独立王国のなかの九州王朝の屯倉の地域だけに評制が敷かれたと。
 この観点からすると、確実に九州王朝の直轄地であった九州の隣国である長門国や周防国もまた直轄地であった可能性が高く、熊毛評の木簡はそのことを示していると思います。古賀さんは藤原京の木簡に東北や中国四国地方の評木簡が出土しているので、7世紀末には近畿天皇家はこうした地域を実行支配していて、九州王朝はすでに九州と中国四国の一部しか実行しはいしていなかったと論じていますが、これは誤りで、藤原京は九州王朝の最後の天子のために近畿天皇家が作った都なので、九州王朝の直轄地である各地の評からも物資が運ばれたことを示しているのだと思います。これらの地域を近畿天皇家が直轄支配したのは、評制から郡制に移行した時期です。
 熊毛評木簡は、この地が7世紀中ごろ以後でも九州王朝直轄地であった証拠です。
 そしてこのことを示すもう一つの証拠が光市と田布施町の境にある石城山の神籠石ですね。
 確か肥沼さんはここを見学されているとおもうのですが、ここと太宰府を取り囲む九州の神籠石群との構造は同じなのではないでしょうか。
 なんでこんな太宰府から離れたところにと前から思っていたのですが、この地は九州王朝直轄地と近畿天皇家の領域の境であり、境を通る古柳井水道を見下ろす交通上の要衝の地なので、唐との戦に備えて作られたものでしょう。同じことは瀬戸内海の吉備の鬼の城と讃岐国府そばの神籠石にも言えるでしょうね。瀬戸内の要衝を守る海の北と南の砦。
 九州年号が出てくる地域は、山田さんがおっしゃるように九州王朝の従っていた国々ということですが。
 ついでにもう一つ。
 熊毛王国ですが、ここが周防国の熊毛評となったときに、熊毛王国は無くなったのだと思います。それまでは九州王朝の領土であっても、熊毛地方のかつての王が豪族として実効支配していた。しかし熊毛評となることでここは九州王朝の直轄地となり、熊毛王国の王は熊毛評督になったのではないでしょうか。そして熊毛郡となったあとは、熊毛郡大領を世襲したのではないかと思います。
 各地の王がみなそのかつての直轄領の中枢地域の郡の大領を世襲したように。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

この「九州年号の分布図」は,
もっと活用されていいものだと思うのですが,
そうはなっていないので残念です。
そこで今回紹介させていただきました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

熊毛評が出てたのは知っていましたが,
そこからいろいろなことがわかるとは気づきませんでした。

「熊毛王国」の王が豪族となって実効支配 → 周防国熊毛評の設置 → 熊毛評の評督 → 熊毛郡の大領

となると,やはり「かつて瀬戸内に熊毛王国はあった!」というスタートの仮説も,
あながち無理なものとは言えないと思います。

さっそく,石城山神籠石遺跡を再掲載しますね。

 熊毛郡を調べていましたら、その中に「小周防」という地名があり(光市)、ここが周防国造の本拠地だと考えられていることがわかりました。
 この小名の周防が国名になったということは、ここの王がこの国の王となったということですし、熊毛を初めとして周防国の各所にある大規模な古墳は周防国造のものと考えるのが妥当かと思います。
 ということは「熊毛王国」と考えるよりは、「周防王国」と考えるべきで、この王国が九州王朝の直轄地となっていくつかの評に分割されたときは、周防国造はその本貫の地である熊毛に戻ってその評督となり、さらにここが近畿天皇家の統治下におかれて熊毛郡となってからは、熊毛郡大領となったとみるのが良いと思います。

追伸
 あともう一つ、周防を調べていたら続日本紀に「周防総領(惣領)」という官職が置かれたことが出てきて、この総領という官職が置かれたのは関東と吉備そして筑紫と周防ですので、みな九州王朝のかつての直轄地。つまり九州王朝の直轄地が近畿天皇家の直轄地となったあと、その中心領域を国を超えて統括する官職を置く必要が出てきて設けられたのでしょう。
 この意味で周防とは九州王朝の中でも特別な地域で、周防国造家は九州王朝天皇家の有力な分家だったのかもしれませんね。そして周防国造家の本貫の地こそが熊毛だったと。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「小周防」にせよ,「周防総領(惣領)」にせよ,本当に歴史というのは,
調べれば調べるほど,いろいろな事実に出会えますね。
まるで「タイムマシン」に乗っているような気分です。

PS 直轄領ということで思い出しましたが,
「生類憐みの令」も確か直轄領に出したものではないでしたっけ?
「全国を支配した」と言っても,隅々までではなかったわけですね。

 江戸幕府の出した法令もみな、幕府直轄領を対象に出したものです。
 諸藩は独立国でしたから、幕府の法令を守る義務はなく、幕府の法令を参考にして必要なら同じ法令を出したというのが実情だったと思います。生類憐みの令と総称される法令群は幕府直轄領だけの問題です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 江戸幕府の出した法令もみな、幕府直轄領を対象に出したものです。

お恥ずかしい次第です。江戸時代のイメージがまた新たになりました。

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