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2018年2月25日 (日)

James Macさんによる「九州王朝の領域の論証」の紹介

山田さんのサイト(sanmaoの暦歴徒然草)を拝見したところ,
最新の話題が上記のものだった。
すぐにJames Macさんのサイト(古田史学とMe)を訪問し,
以下のようにコメントを書いた。

なお,正式な題名は「「筑紫諸国」の『庚午年籍七百七十巻』と戸数」となっている。

「James Macさんへ
いつもお世話になっております。

今回の論証は数値も出て来て,いつも以上に魅力を感じます。
先日亡くなった仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが
『原子論的な歴史の見方考え方』(仮説社)出版された時のことを思い出しました。
「江戸時代の農民は何を食べていたか」(実は,米が一番多い)を問題としたもので,
歴史学者の総反発を覚悟したものでしたが,
やはり説得力があったとみえて,そういうことにはなりませんでした。
そして,歴史研究を一歩進めたと思っています。

すでに山田さんのサイトで紹介していましたが,
私も「夢ブログ」で紹介させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします」

このJames Macさんの論証が
『原子論的な〈古代史〉の見方考え方』という本につながるのではないかと思い,
今朝の「夢ブログ」で紹介させていただいた。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

さっそくご紹介くださりありがとうございます。
読者数の多い「夢ブログ」で紹介いただけるとうれしいです。

>『原子論的な〈古代史〉の見方考え方』

板倉聖宣さんの仮説実験授業の実践者である肥さんならではの視点ですね。
多角的な視点をお持ちの肥さんがうらやましく感じるところです。

私の紹介した論考がよかったら、これからもよろしくお願いいたします。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

即日の紹介とはアンテナの高さを感じました。
私は「山田さん経由」なので一日遅れ。
(James Macさんのサイトもよく訪問しているのですが)

>>『原子論的な〈古代史〉の見方考え方』

>板倉聖宣さんの仮説実験授業の実践者である肥さんならではの視点ですね。

そういわれると,そうかもしれないですね。
今後ともよろしくお願いいたします。

James Macさんの論証。とても興味深いものですが、いくつか前提に疑問があります。
 一つは「筑紫七国」を九州に限定したこと。それも「筑紫」が筑前筑後に分かれ、「豊」は豊前豊後にわかれ、「火」が肥前肥後に分かれてこれに日向を加えた七国とした。
 本当に九州の三国はそれぞれ二つに8世紀初めでわかれていたのでしょうか。私はそうではないのではないかと考えています。これは九州が近畿天皇家の領域となった後、九州内で九国だとみなすために分割されたのではないかと疑っています。
 九州王朝時代の九州は、筑紫・豊・火・日向に近江があったとおもう。この近江がのちの肥前。薩摩大隅まだ領域外。
 そして九州王朝の直轄領域は少なくとも、長門・周防、そして伊予の三国は白村江の戦い付近でも九州に加えて入っていたと思う。これで八か国。この八か国が7世紀中ごろに新たに律令を作って評制を敷いた九州王朝の直轄領だったと私は考えます。
 したがって庚午年籍の筑紫諸国とはこの八か国。
 二つ目は平成15年の統計での居住可能面積を比較して、九州島の戸数から面積比例で各地域の戸数を求めたこと。奈良時代初めから現代まで、各地域は居住可能面積が均等に広がったのだろうか。当時は大河川の流域は居住地域ではほとんどなかった。大河川流域に人が安定的に住むようになったのは江戸時代だ。そして江戸時代に遠浅の海は各地で干拓されて陸地となり田畑や集落が広がった。この大河川流域と遠浅の海への居住地域の広がりは、各地域均等だったのだろうか。そして明治大正昭和と工業化される中で大都市周辺は森が伐採され丘が崩されて居住地域が拡大したが、都市から離れた地域はそういうことはなかった。
 現代の居住可能面積を前提にして戸数の比例配分はおかしいと思います。

 そして三つ目。隋書のタイ国伝の記述は、九州王朝直轄域の戸数だと断定していますが、本当にそうなのか。九州王朝の統括する日本列島の諸国全体の戸数なのではないのか。隋使が実際にいった筑紫以東の国々もタイ国に附庸としているのですから、この附庸している国々のすべての戸数をも含めて10万と言っているのではないでしょうか。したがってこの10万は蝦夷地と東北を除いた日本列島全体で考える必要があると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 James Macさんの論証。とても興味深いものですが、いくつか前提に疑問があります。

私もぜひ伺いたいと思います。
James Macさん,いかがでしょうか。


肥沼様

川瀬様よりご指摘いただいた点について説明する必要があり、場所をお借りします。ご寛恕願います。

川瀬様

ご批判ご叱正賜りありがとうございます。
ご指摘の点については以下の通りと考えます。

>  九州王朝時代の九州は、筑紫・豊・火・日向に近江があったとおもう。この近江がのちの肥前。薩摩大隅まだ領域外。
>  そして九州王朝の直轄領域は少なくとも、長門・周防、そして伊予の三国は白村江の戦い付近でも九州に加えて入っていたと思う。これで八か国。この八>か国が7世紀中ごろに新たに律令を作って評制を敷いた九州王朝の直轄領だったと私は考えます。
>  したがって庚午年籍の筑紫諸国とはこの八か国。

「筑紫諸国」という呼称からは「諸国」は全て「筑紫」という領域内にあると見るのが相当と考えます。また「長門・周防・伊予」を加えてなお「七百七十巻」という巻数で示される戸数とすると(三八五〇〇戸という推定が正しければ)、少なすぎるように思うのですが、いかがでしょうか。
なお「肥前」と「筑後」の境界は「古代官道」により境界線が形成されており(一般に「古代官道」は横断禁止であったと見られますから、自然に境界線を形成します)、この「古代官道」の完成時点において「肥」が「肥前」と「肥後」に分割され、そこに「筑後」が割り込んだという形になっています。これらのことは「古代官道」の完成時点が「分割」の時点であることを示唆しており、明らかに「八世紀」のことではなく、もっと以前の「九州倭国王朝」の勢威が高かった時期と推定しています。

>  二つ目は平成15年の統計での居住可能面積を比較して、九州島の戸数から面積比例で各地域の戸数を求めたこと。奈良時代初めから現代まで、各地域は居>住可能面積が均等に広がったのだろうか。当時は大河川の流域は居住地域ではほとんどなかった。大河川流域に人が安定的に住むようになったのは江戸時代だ。そして江戸時代に遠浅の海は各地で干拓されて陸地となり田畑や集落が広がった。この大河川流域と遠浅の海への居住地域の広がりは、各地域均等だったのだろうか。そして明治大正昭和と工業化される中で大都市周辺は森が伐採され丘が崩されて居住地域が拡大したが、都市から離れた地域はそういうことはなかった。
>  現代の居住可能面積を前提にして戸数の比例配分はおかしいと思います。

確かに現代の居住面積を元にして「断定」する事はできません。あくまでも参考値ということとなります。ただし、想定の中では列島において「局地的」な居住面積や耕作面積の拡張などがあったとは考えませんでした。田畑のために野山も切り崩したことも浅瀬を干拓したこともあったでしょうけれど、それは列島の全般的な傾向として一括できると考えました。耕作面積はどの地域においても拡張したかったはずですし、稲作においてはそのためには労力を必要とします。石高を参考にしたのはそれも含んでいます。石高の傾向からは居住面積との比較よりも推定戸数が増加しています。これは「耕作面積」の増加によって収穫量が増加したことを意味し、またそれに必要な労力としての「戸数」も増加したものと見ています。この増加傾向もそれほど地域によって差がないと見ました。ただ間の年数が開きすぎですのでこのこともまた「断定」材料とはできないことは承知しています。あくまで概数としての数字の取扱の中の話です。

> そして三つ目。隋書のタイ国伝の記述は、九州王朝直轄域の戸数だと断定していますが、本当にそうなのか。九州王朝の統括する日本列島の諸国全体の戸数なのではないのか。隋使が実際にいった筑紫以東の国々もタイ国に附庸としているのですから、この附庸している国々のすべての戸数をも含めて10万と言っているのではないでしょうか。したがってこの10万は蝦夷地と東北を除いた日本列島全体で考える必要があると思います。

当初から「直轄領域」とは見ておりません。当時の「倭国」の領域の全てと考えています。この範囲がどれほどのものかを推定するために考察したものです。この領域が指摘のように「蝦夷地と東北を除いた日本列島全体」かどうかを検討するための議論とご理解下さい。

>「筑紫諸国」という呼称からは「諸国」は全て「筑紫」という領域内にあると見るのが相当
 本当にそう考えて良いでしょうか。「筑紫」で九州島全体を指したこともありましたからお考えになったのかもしれませんが、「筑紫」が統括してきた地域という意味で使ったことも考えられます。続日本紀でも九州王朝の実在は否定されているので、こう表現したとも考えられます。
 また九州(薩摩大隅除く)+長門・周防・伊予で38500戸では少なすぎるとのことですが、「少ない」と感じる根拠は何でしょうか。根拠はないと思います。
 肥前と筑後の境界線が古代官道に沿っているので、九州王朝時代に「火」が二つに分割された証拠とされています。でもおかしくはありませんか? 肥前と肥後は境を接しておらず、間に筑後が入っているのです。つまり肥前と筑後の境の古代官道は、「近江」と「筑紫」の境だったのではないでしょうか。「火」の国二つに分割と考えながら、肥前と肥後とが境を接していない事実こそが、この二国が「火」国の分割で生まれたのではなく、「火」国を肥後とし、「近江」国を肥前とした証拠だと私は考えます。
 したがって九州島に筑前筑後・豊前豊後・肥前・肥後の諸国が誕生したのは近畿天皇家時代になって以後だと私は判断し、九州王朝の直轄域は九州島+中国四国の西部であったと考えます。

>耕作面積の増加と戸数の増加も地域差はない
 これも根拠のない断定です。正保年間の石高数をよく見てください。
 江戸時代初期の日本の穀倉地帯は、九州と近畿でした。しかし江戸時代に入ってわずか100年の時点での石高は、なんと関東がこの二つの先進地域を凌駕しています。
 九州=289.3。近畿=320.2。関東=411.8。これは江戸時代最初の100年で関東では膨大な新田開発がされたことの結果です。そして中国地方も285.3と九州にならぶほどに増加しているので、江戸時代最初の100年で瀬戸内の干拓が膨大な規模で広がったことを反映しています。
 つまり江戸時代最初の100年では九州と近畿はあまり変化しなかったのに瀬戸内と関東は非常に増大したということです。

>当初から「直轄領域」とは見ておりません。当時の「倭国」の領域の全てと考えています。この範囲がどれほどのものかを推定するために考察したものです。この領域が指摘のように「蝦夷地と東北を除いた日本列島全体」かどうかを検討するための議論とご理解下さい。

 了解です。であるならば、九州王朝の直轄地が九州+中国四国の西半分と想定して、この地方の戸数を38500と想定して計算をし直してみたらどうでしょうか。

追伸です。
 James Macさん のサイトの最後の方に、和名抄による郷数による検証がありました。James Mac さんは「一里一巻」と考えて里数を770里、そして里⇒郷だと考えると九州王朝直轄地の郷数は770となり、和名抄による九州七か国の郷数405に合わないので、この地域では二里=一郷だったのかとしています。
 しかし九州王朝の直轄地を九州島に限ったからこうなっただけです。
 これを中国四国地方に拡大して数えてみましょう。
 まず長門・周防・伊予が直轄地だとの私の考えに沿ってみてみると。
 長門=40郷、周防=45郷、伊予=68郷なので、合計153郷。これを九州七か国に足してみると、558郷なので770郷には212郷まだ不足します。
 ここに、中国四国の西半分の国を足してみましょう。
 安芸=63郷、石見=36郷、出雲=79郷、土佐=43郷 なので合計221郷。
 この数字は先の不足分212郷にほぼ相当します。
 和名抄の郷数から考えると、九州王朝の直轄域は九州島+中国四国の西半分とみて良いのではないでしょうか。
 また倭国(九州王朝傘下の国すべて)の戸数を10万戸と考えると、戸籍から割り出した38500戸は、全体の38.5%にあたります。
 James Mac さんが示した平成15年の居住可能面積に占める割合では
  九州=15.74% 中国四国=17.4% なので
  九州と中国四国の西半分の合計は=24.44%になります。そして先のコメントに示したように、古代から江戸時代初期100年で増大した耕地の多くが瀬戸内の干拓と関東の新田開発だとすると、古代の居住可能面積に占める中国四国と関東の割合は平成15年よりずっと少なくなりますので、九州と中国四国の西半分で38%程度になるのではないでしょうか。
 おなじことを正保年間の石高で見てみましょう。
 九州の占める割合=19.84%   中国四国の占める割合=26.5%
 九州と中国四国の西半分の合計=33.09%
 この石高も瀬戸内と関東とが江戸時代100年で急増したと考えれば、石高全体に占める九州の割合がずっと高くなり、中国四国と関東の割合がかなり減るので、古代における九州王朝の直轄地は九州島+中国四国の西半分と考えても矛盾はないと思います。
 以上、和名抄の郷数と平成15年の居住可能面積、正保年間の石数からの論証です。
  
 

James Mac様 川瀬様 皆様

本来ですと、James Mac様のホームページでお聞きするべきとは思いますが、こちらの方が盛り上がっているようですので..

私の疑問は
670年造籍の「庚午年籍」にある「筑紫諸国」には「大隅」「薩摩」が含まれている可能性はあるのではないか?
という事です。

James Mac様は
>彼等の領域である「大隅」「薩摩」等の領域を除いた全九州が上の「筑紫諸国」に入っていたであろうことは間違いないものと思われます。

と、されています。

又、川瀬様も
>九州王朝時代の九州は、筑紫・豊・火・日向に近江があったとおもう。この近江がのちの肥前。薩摩大隅まだ領域外。

と、されています。
ご両人とも「大隅」「薩摩」は「筑紫諸国」外とされているようです。

一方で、James Mac様は
>彼等がこの「庚午年籍」を所持して逃走していたものとみられ・・・

ここでの「彼等」とは九州王朝の人達であり、大和政権が「隼人」と呼んだ人達だと私は考えています。
(もしかすると、James Mac様は、九州王朝と関係の無い「隼人」が「庚午年籍」を所持して逃走していたとお考えなのかもしれませんが)

私の理解が正しければ、「大隅」「薩摩」(当時の呼称は不明)の地は、九州王朝にとって最後の砦と言って良いような地では無いでしょうか?

これに関しては、古賀達也様や古田史学の方々も発表されているところです。
私は、この考えに賛成しています。

であれば、「筑紫諸国」の中だからこそ、「庚午年籍」を所持逃走し、長期に渡る最期の徹底抗戦が可能だった。と、理解できると思います。
「大隅」「薩摩」は「筑紫諸国」内と理解して良いのでは無いでしょうか?

確かに、702年の続日本紀の「筑紫七国」には「大隅」「薩摩」は含まれていない可能性はあると思います。しかし、「筑紫諸国」の「庚午年籍」に「大隅」「薩摩」の籍が含まれていないかどうかは別問題では無いでしょうか?

通りすがりの素人様

コメントをいただきながら応答せず大変失礼しました。(諸般の事情によります)
ご指摘の点ですが、その可能性も考えてみましたが、含まれていないのではないかという結論らしきものが出ましたのでお知らせします。(以下私のブログのurl)

https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fecd13b594ef854eec24b61296c26c78

ただし以前も考察しましたが確かに「大隅」が「内属」したのはかなり早期であったと思われますが(斉明紀か)、「戸籍」の作成まで及んでいたかは疑問であり、『庚午年籍』段階では大隅」の戸籍は未整備ではなかったかと思います。
また「薩摩」についてはどの段階で「倭国」の一部となったかさえ不明であり、その意味でも『庚午年籍』に含まれてはいなかったと考えます。ただし、両者ともその後の『庚寅年籍』には含まれていたとみるのが時期的にも相当とは思います。

また『庚午年籍』を所持して逃走していたと思われる「隼人」は「大隅」「薩摩」の人々と思いますが、この時点ではいずれの地域もすでに「新日本王権」の一部とみなされていたと思われます。彼らがそれを所持するに至った経緯として「九州倭国王権関係者」の逃亡先がこの「大隅」「薩摩」であったと思われ、辺境の地ですから支配が弱いことを利用して雌伏する、あるいは彼らの協力で再興するという野望があったものではないでしょうか。彼らはそれに協力する方を選んだということと思われるわけです。

有用な指摘いただきありがとうございます。

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