山口県には「上関」「中関」「下関」がある!
下関があるなら,上関もあるのでは?
と思って検索したら,ヒットしました!
しかも中関もついでに連続ヒットです!!
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山 口 県
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下関☆ 中関 上関★
以上のように,東から西に向けて並んでいました。
山口県は昔の長門国&周防国。九州王朝の版図と考えられます。
そこに設けられた3つの関。
これは,九州王朝のかなりの傍証になると思われます!
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https://ja.wikipedia.org/wiki/上関町
昔から船の荷を調べる役所が置かれていたらしい。
しかも,私も訪問した石城山(いわきさん)神籠石遺跡(光市)★も近い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/石城山神籠石
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https://ja.wikipedia.org/wiki/中関町
現在は防府市に合併(1936年)され,この町の名はない。
見つけられてよかった!
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念のため「新古代学の扉」でサイト内検索したところ,
古田武彦さんがすでに「金石文九州王朝 歴史学の転換」という論文で,
ほぼ上記の話題にふれていました。(残念!)
ただし,中関のことは出ていなかったと思いますので,
少しは先へ進められたかな?
www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakatta6/kanaisif.html
☆は豊浦宮(下関市)で,九州王朝の宮殿があったところ。
おそらく柿本人麻呂はここに呼ばれていたと思われる。
山口県には柿本人麻呂神社が多い。(92社/252社)
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12139524181.html
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この関の存在が九州王朝の存在の証拠?
ならば西から順に、上関・中関・下関でないと説明が付きません。
今の状態は、東が上ですから近畿が中心の設定の仕方です。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月19日 (金) 12:41
肥さんへ
王朝の畿内の近くには、必ず「関」があるはずです。
出雲王朝の「美保関」。古代は海路が重要でした。
投稿: 山田 | 2018年1月19日 (金) 16:59
山田さんへ
コメントありがとうございます。
美保関は古田氏のご案内で行ったことがあります。
ちょうど美保神社の神事(なんと,大国主の長男が
「入水自殺する」というストーリー!)を見ました。
古代史の「国譲りの悲劇」の歴史を今に伝えているのだと思いました。
(福岡では,「ニニギの侵入を猿田彦が阻止しようとする」という神事もあるらしい。
普通は「案内役」として登場させられていますが)
投稿: 肥さん | 2018年1月20日 (土) 04:49
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 今の状態は、東が上ですから近畿が中心の設定の仕方です。
ということは,長門+周防が大和の手に落ちてからの命名ということですかね。
すると,白村江の戦いで倭国が敗れて以降ということなのかな?
投稿: 肥さん | 2018年1月20日 (土) 04:57
上、中、下。の関係ですが、上宮、中宮、外宮の在り方を考えると。視点は九州だと思います。
塾生の受験教材で、ご無沙汰していて、申し訳ありません。
投稿: 肥沼さん、上城です。 | 2018年2月11日 (日) 12:44
上城さんへ
コメントありがとうございます。
ということは,どういう結論になるのでしょうか?
もう少しお聞かせ下さい。
投稿: 肥さん | 2018年2月11日 (日) 20:28
石城山の存在を考えても、豊浦宮を視点とした、上、中、下だと考えます。九州王朝に関係するものだと思います。
投稿: 肥沼さん、上城です。 | 2018年2月15日 (木) 17:17
上城さんへ
コメントありがとうございます。
上城さんのお考えは,川瀬さんのお考えと,
「真逆」のように考えられます。
ぜひお二人のお考えを進めていただいて,
皆さんの参考にさせていただくことはできないでしょうか?
投稿: 肥さん | 2018年2月16日 (金) 02:03
上城さんへ
上城さんのコメントは短すぎて、どのようにお考えになったのかが、コメントからは推察できません。もう少し詳しくコメントをお願いします。
石城山の朝鮮式山城の存在を考えると、長門の国が九州王朝の版図の中枢部分の一部であったことは否めません。しかし豊浦宮は下関市の長府にあったと考えられているので、ここを中心にして上・中・下の関があったと考えると、西から上関・中関・下関と、今の地名とは真逆でないとおかしなことになります。それとも宮に一番近い箇所を下とし、遠い箇所を上としたのでしょうか。
前のコメントに「上宮、中宮、外宮の在り方を考えると」とありますので、ここらあたりもご説明願います。
投稿: 川瀬健一 | 2018年2月16日 (金) 12:25
上、中、下。は位置を表しいるのだから、自分の近くを「上」と呼ぶのは考えられないと思います。
投稿: 肥沼さん、上城です。 | 2018年2月16日 (金) 15:26
上城さんへ
二度目のコメントでますます上城さんのお考えが理解できなくなりました。
きちんと詳しくご説明ください。
豊浦宮の東側に、西から順に下関・中関・上関が存在するが、なぜこれを豊浦宮中心のものと考え、九州王朝時代の名残だとご判断されるのかを。
「自分の近くを上とは呼ばない」。でも「上」と名付けたのが宮に居するものではなく、宮に居するものを敬った下位の者が付けたと考えれば、中心に近いところを『上』とするのではないですか。近世の話で恐縮ですが、私の家のそばに東海道の脇街道の大山街道というのがあります。東に行くと江戸は多摩川を渡ってすぐです。その渡船場の宿場町・二子宿は、江戸に近いところから、上町・中町・下町となっています。つまり中心である江戸に近い方が上。
投稿: 川瀬健一 | 2018年2月16日 (金) 23:58
川瀬さんへ 上城さんへ
コメントありがとうございます。
昨日上関を調べているうちに,かつてこの地に
「熊毛王国」というのがあったということを知りました。
(前方後円墳が多いので九州王朝系か)
当然九州王朝の守りの砦ではなかったでしょうか。
それが7世紀に大和政権に滅ぼされたそうです。
すると,九州王朝の守りの砦は,一挙に大和政権の拠点(フロンティア)となり,
大和の版図を広げていくきっかけだったのはないか。
ということで,大和から離れたところに上関があるのではなくて,
大和の版図のところに上関は置かれたと言えると思います。
詳しくは,本日の「かつて瀬戸内に熊毛王国があった!」をお読み下さい。
投稿: 肥さん | 2018年2月17日 (土) 06:52
上関、下関の名前が古文書に出るのは室町時代の大内氏になってからです。
また、中関は上関、下関に肖って毛利氏が1760年代につけた名前です。
投稿: | 2018年3月 7日 (水) 02:04
名無しさんへ
コメントありがとうございます。
ということは,少なくともその頃にはにぎわっていたと・・・。
まさか「名前を付けてからにぎわった」というのも変ですからね。
投稿: 肥さん | 2018年3月 7日 (水) 03:06