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2018年1月18日 (木)

豊後・伊予間の「国境」

『続日本紀』(講談社学術文庫)の716年の記事に,
以下のような件がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

豊後・伊予二国の境界は,従来戌(じゅ。兵士の屯所)を置いて,
往き来することを許しませんでした。
しかし位階の高下や身分の尊卑によって,区別があってもよいと思います。
五位以上の官人が使いを遣わして,
往来をさせることを禁止の対象にすべきではないと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

確か「多元」にある方が「国境ではないか」と書かれていた。
私もそうかもしれないと思って,手持ちの『続日本紀』にメモしておいた。
と同時に,九州王朝の中心地・太宰府からは距離があるから,
ずいぶん神経質に警戒したものだとも思っていた。

ところが,豊後王朝(九州王朝の兄弟王朝?
九州年号には「兄弟」がある)がもしあったとすると,
豊後水道は本当に「国境」の役割をしていることになる。
決して敵の侵入を許してはならない場所なのだ。

私は古田史学の方々とはよく太宰府方面を旅行したが,
最近興味をもっている豊後方面には一度も足を踏み入れたことがない。
ぜひ一度訪問してみたい。

東九州には,見るべきところが多そうだ。
各所を回るのには,自転車が活躍するかもしれない。

【行橋市】

御所ヶ谷神籠石(国の史跡)
ビワノクマ古墳(県指定史跡)
椿市廃寺跡(市指定史跡)
平尾台(カルスト台地)

【宇佐市】

宇佐神宮
虚空蔵寺
法鏡寺
弥勒寺
四日市廃寺
小倉池廃寺

PS 亡父の若い頃勤めていた会社が日本鉱業で,
佐賀関に巨大な精錬工場があるらしい。
大分県を訪問したら,一度見てみたい。
例の「国境」は佐賀関かもしれないし・・・。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

大宰府言、豊後・伊予二国之界、従来置戍、不許往還。但高下尊卑、不須無別。宜五位以上差使往還、不在禁限。

「大宰府が申すに」とありますので、九州の統治が別であった時が「従来」なのではないでしょうか。
九州は、ある時期、「施政権返還前の沖縄」のような状態になっていたとも考えられますね。
何の証拠もない妄想ですが・・・。

 伊予と豊後の境の話は、霊亀二年の五月十六日の条で、大宰府が言上したものですね。
でもこの言上は不思議です。
 なぜなら伊予と豊後の境が、従来兵士の屯所が置かれていたということは、これは陸上にあった証拠ですよね。それと境にある島にでも置かれたものなのでしょうか。
 現在の愛媛県と大分県の境は豊後水道です。
 愛媛県側からは伊方原発のある長い半島が西に延びて、大分県側の佐賀関(この地名そのものが不思議ですね)のある半島に地形的には続いている。二つの半島の間が豊後水道。その海に高島という島があります。
 今の県堺は昔の国境が基本です。
 この「続日本紀」にいう伊予と豊後の境とはどこなのでしょうか。
 大分県(豊後国)がわの「佐賀関」という地名が一つの手掛かりになるのかもしれません。
 そしてもう一つ、これほど厳しく往来を禁止していたということはたしかに「国境」の可能性がありますね。でもこう考えるうえで「豊後王朝」というキーワードの設定は不可欠でしょうか。
 まず考えなければいけないのは、九州王朝と近畿天皇家の国境がどこにあったかということ。
 時代とともに変化していると思いますが、白村江の戦いのあたりでは、四国は近畿天皇家の版図に入っていたように思います。伊予水軍も近畿天皇家の軍として出陣したようですから。とすると豊後と伊予の境界は九州王朝(「日本国」)と近畿天皇家(「倭国」)の境界であったかもしれませんね。
 そしてこの二つの王朝が敵対したのは、白村江の戦いに近畿天皇家が参加せず本家を裏切ったこと。ここらあたりではないでしょうか。国境警備が厳しくなったのは。
 この「続日本紀」の記事は二つの王朝の統一(倭国による日本国の吸収⇒新日本国へ)から15年後のことですから、上のような理解も成り立ちます。対立が解消されたから国境警備が解消されたと。
 続日本紀の先の記述の最後に(国境の件と続いて隼人の都への派遣の六年制への転換の件)、「ともにこれを許された」といあるのはそういうことかと。
 第一「豊後王朝」を設定しても、その東の国境を厳しく警護する必要性をどう説明されます?そして第二に豊後王朝の西の国境をどこに設定しますか?
 九州王朝自体を多元的に見るのは必要ですが、あまり安易に「九州王朝内に独立した他の国があった」と考えない方が良いと思います。それよりは、九州天皇家内部に幾つかのことなる流れがあってそれが離合集散対立していたととらえた方が良いと思います。

肥さんへ

佐賀関に水揚げされる関鯖というのもありますね。

肥さんへ

九州に本拠があったときの倭国(文字通りの九州王朝)において、
東山道や東海道から九州(畿内)に入る前に「関」があったと考えるのは自然で、
門司・下関(東山道の関:筑前→豊前⇔長門→・・・)や
佐賀関(東海道の関:筑前→豊後⇔伊豫→・・・)と思われます。
唐が筑紫都督府を設置して九州を支配した時には、
この関が厳しく警護されたと思われます。
この延長上に日本国の令制「大宰府」による統治が行われたのではないでしょうか。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

私たち現代に生きている者たちにとっての「関」のイメージと,
古代の人たちにとっての「関」のイメージでは,
かなり違うのではないかという気がします。
文字通り「命を懸けても守らなければならない場所」
だったのではないでしょうか。
現実の例で言うと,北朝鮮・韓国の「国境」に近いかもしれません。
それが何か所かあったのではないか。(佐賀関や下関はその候補ですね)

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

九州王朝内の2つの流れ(兄弟王朝)ということで,
平時には対立していなかったと思います。
最大の決裂は,筑紫王朝の方が白村江の戦いに突っ走り,
それに対して,唐と通じてでも存続を図ろうとした
豊後王朝(のちの日本国の母体)の別行動かなと思います。
室伏志畔氏の言い方を借りれば,
筑紫は「倭国王統」で,豊後は「倭国皇統」ということになります。
これを「兄弟王朝」と表現した訳です。

 豊後王朝を後の日本国の母体とするということは、
天武がこの豊後王朝の出たと、
肥沼さんは考えれおられるということでしょうか。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

豊後か筑紫かはっきりしませんが,
「大皇弟」という名称からして,
九州王朝の人なのかとは思います。
確か天智天皇の4人の娘たちを奥さんにしているのではないでしたっけ?
そんなことは「本当の兄弟」ではないということの現れだと思いますし・・・。

 天武について肥沼さんのような見解を表明するかたは古田史学関係にも多数おられます。かくいう私も前はこう考えたこともありました。
 でも本当にそうなのでしょうか。
 天武・大海人皇子は書紀では一貫して天智・中大兄の弟として描かれています。
 そして「大皇弟」との表記ですが、書紀孝徳紀に初めて出てきたときには「皇弟」と表記されています(中大兄が孝徳と争って九州・日本国の難波から、倭の都に母や孝徳の妻は群臣を引き連れて戻ったときです)。
 それが天智紀でいきなり「大皇弟」と表記が変わります。
 表記が変わった最初は、天智三年春二月に「天皇が大皇弟に命じて冠位の制度を変えた」きじからです。でもこの記事は私は天智三年ではなく天智二年春の出来事で、九州王朝の天皇が大皇弟に命じて冠位制度を改めた記事を書紀編者が一年あとに編入したと考えています。なぜならこの三年の記事に出てくる冠位が二年に唐や新羅と戦うために朝鮮に派遣された将軍の冠位として記されているものがあるからです。
 したがって天智紀の「大皇弟」という表記は九州王朝の時の天皇の弟を指すものと考えます。弟に命じて冠位制度を変えたということは、この白村江の時の九州王朝天皇は女性だったと思います。
 書紀編者はこの記事を書紀に盗用した際に、あたかもこの事績を中大兄の事績であるかのように偽造したしたため、以後大海人の表記が「皇弟」から「大皇弟」に変わったのだと私は考えます。
 したがってこの「大皇弟」との表記から、彼が九州王朝の人間だという判断は間違いです。

 また彼が兄の娘を四人も妻にした件。
 これは現代的感覚からありえないと判断されて、天武が異なる王朝からの征服者であるかのような言説がなされてきました。しかし書紀を読んでみると他にも叔父が姪を妻にした例がいくつもあったと思います。
 したがってこれも天武が九州王朝の人との根拠にはならないと思います。

 わたしは天武は書紀が書いたとおりに中大兄の弟であると考えます。
 ただしこの天武王朝が豊前の宇佐神宮をとても尊重していたので、壬申の乱の彼の勝利の裏には、豊の国の勢力が大きな働きをしたからだと判断しています。
 壬申の乱では「大分君惠尺」が活躍しています。でも彼の活躍は書紀が記した範囲のものだったのでしょうか。大分の君ですから当然瀬戸内水軍を傘下に持っていたと思うのです。この水軍が天武の勝利に決定的な役割を果たした。だから大分君の祭る宇佐神宮が天武朝では尊重されたと。
 そして天武の妻の一人は胸形君德善の娘でこの人が生んだ皇子が壬申の乱で大活躍した高市皇子です。
 壬申の乱でかった天武には九州王朝とつながる勢力(胸形君も大分君も九州王朝の王族だと思います)がいたとみるのは正しいと思いますが、天武自身がそうだという判断は間違いだと思います。

追伸・訂正
 書紀に天皇が姪を娶った例がほかにあったとしましたが、間違いでした。
 叔母と継母を娶った例はありましたが。
  
 大海人皇子が兄中大兄の娘鸕野讚良皇女を娶ったのは、書紀持統紀では、斉明天皇の三年とあります。そして天武紀には、大海人の妃の順として、最初は鸕野讚良皇女の姉の大田皇女であり、この后は大來皇女と大津皇子を生んでいる。
 この大田皇女が大伯皇女(大來皇女と同一人)を生んだ話は、斉明紀の7年春に、斉明が唐との戦に備えて筑紫に遷った旅の途中の出来事として書紀に記されている。
 つまり天武の妃の中の天智の娘二人との婚姻は壬申の乱より前の話だ。大江皇女と新田部皇女との婚姻の時期は不明だが。
 とするとこれは斉明の継承者である中大兄になかなか大王にふさわしい血筋の息子が生まれなかったので、皇太子の弟である大海人に中大兄の娘たちを添わせて、大王にふさわしい血筋の息子を作っておこうという企てだったと思います。
 そもそも孝徳の次は彼の息子の有間であったのを武力で中大兄に持っていくために彼を殺し、中大兄に継承する前に孝徳の前の大王皇極が斉明として践祚したのですから、中大兄にしても大海人にしても、貴族たちの多くに大王の資格ありとは認められていなかったと思うのです。
 だから彼らはしかるべき皇族の娘を后にして、大王にふさわしい血筋の皇子を儲けておくことが絶対に必要だったのだと思われます。そして不幸にも后にふさわしい皇族の娘がいなかったので、大海人は兄の娘を后にしたのでしょう。
 こう考えると、天武が兄天智の四人の娘を后にしていることは、不思議ではありません。
 以上補足です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  豊後王朝を後の日本国の母体とするということは、
天武がこの豊後王朝の出たと、
肥沼さんは考えれおられるということでしょうか。

この質問の背景には,川瀬さんの日本書紀に対する熟慮があることを知りました。
私の浅い考えで,とうてい及ぶものではありません。
しかし,生きているうちに,この国の歴史の一部でも解明して,
次の世代に伝えていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

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