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2018年1月 2日 (火)

大善寺・玉垂宮からの「薬師寺の移築」の仮説について

「原薬師寺」が福岡県の大善寺・玉垂宮(付近?)から
藤原京の「元薬師寺」へ移築されたとする室伏志畔氏の仮説に付き,
そのいきさつが書かれているものを見つけました。
それをアップします。

特に「いきさつ」の部分は,後半に付けましたので,
そこを読んでいただければと思います。

だいぶ前に古田さんとご一緒した旅行で「鬼夜」を見学した。
その時には,まさか薬師寺のことに関係するとは思っていなかった。


大善寺玉垂宮の鬼夜

http://www.nponia.com/page40-oniyo.html

吉山旧記(薬師寺旧記)

https://hanzan-qazwsxedc.jimdo.com/紀氏王権の成立/吉山旧記/

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※ 神武と卑弥呼と神功 邪馬臺国年表/大善寺玉垂宮と久留米の古代史より

  『吉山旧記』は、江戸時代に入る直前、関ヶ原の戦い(1600年)かその翌年に元の宮司の家柄の吉山家が、
巻物だった本を冊子本に摸し替えた時の書写ということである。この吉山旧記は、別名薬師寺旧記ともいわれる。
この大善寺玉垂宮の宮司の家柄は、代々代わっていて、吉山家が就いたり薬師寺家が就いたりして、
現在は、隅(くま) 家が就いている。吉山旧記の事を別名、薬師寺旧記というのは、薬師寺を名乗られた時の宮司が吉山家と決別して、現在は、鹿嶋市に居られる。その原本は、そこの鹿嶋市にあり、ここ大善寺玉垂宮には無い。
  
 薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。
  
 これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑紫の廃寺が、 大和王朝の東遷 である。筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である。
  
 その廃寺の時にこの筑紫にあった寺を解体して、新し都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材は一辺も出土しない。出土されるのは礎石と瓦だけである。つまり。礎石と瓦は重たくて運べなかった。木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。
  
 天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる。そのお寺が移される時に当時の薬師寺の住職だった方(親子二人)が抗議の自殺をする。何故自殺したのか判らなかったが、どうやらお寺を無理やり奪われた為らしい。彼らはその事を忘れない為に「吉山」と姓をわざわざ「薬師寺」という姓に改めた事も残されている。その廃寺における悲劇の内容が、吉山旧記に書かれている。それくらいに吉山旧記に記されている内容は、すごい歴史の一コマである

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 「吉山旧記」はその成立が近世初期。問題となっている奈良時代とその前の時期からは800年以上も後世のもの。したがって古代史の史料として使う際は、後世の伝承としてあつかわれる。
 この記録の古代史部分の記事の信憑性は他の信頼できる古代史料との照合が不可欠。
 まずここを押える必要あり。
 次に「吉山旧記」に大和政権が薬師寺移転を命じたと書かれているのか否かだ。
 肥沼さん提示の史料では、「吉山旧記の別のところに」とされただけで原文の提示はない。
 ネット検索してみると、九州古代史の会 ニュース№128(2006年7月16日)の兼川 晋 「雄略・継体・欽明・敏達・用明・天武と斎宮」の末尾近くに、久留米の玉垂宮にあった薬師寺が奈良へと移されたと記録された「吉山旧記」の一節が引用されている。7ページだ。
 http://kyusyu-kodaisi.sub.jp/qpdf/0607.pdf
 「吉山久運嫡子秀丸。次男竹丸、安泰弟子とす。足白(夜明なり)へ唐渡薬師尊像を安置し、傍らに一寺を建立して薬師寺と号す。(夜明村〇〇〇〇原野也) 白鳳九年、安治住す薬師寺へ同年九月廿三日安泰上人遷化。持統二年三月十五日吉山久運死去。秀丸死去。既に相続なし。薬師寺安治還俗して、第二十二代 薬師寺安治と改名す。薬師寺の姓はじまる・・・・」
 しかしここには薬師寺移転の記事はない。
 その次の論者の解説がある。
 「吉山旧記」によると唐来の薬師尊像は天智天皇八年(669)に入唐し十年(671)に帰国した安泰和尚がもたらしたもので、白鳳九年(671)には薬師寺に吉山久運の次男竹丸が安泰の弟子・安治として住み込んでいた。同年九月廿三日に安泰和尚は遷化する。持統二年(688)三月十五日、大和政権は薬師寺の飛鳥移転を命じてくる。これに抗議して吉山久運、長男秀丸は自裁する。失われた九州の薬師寺の名を、せめて家名にとどめることにして安治は還俗し、吉山姓に改めた。

 これでは史料にならない。
 「吉山旧記」の記述を論者が拡大解釈して都合の良いように解釈した可能性があるからだ。

 「吉山旧記」の来歴やその記述の信憑性批判がまず必要。
 そして「吉山旧記」原文にあたって、室伏氏らが言っている記述が本当になされているのか確認することが必要。史料の解釈ではいけない。史料原文にどう書いているかが問題。

 この「薬師寺」の塔の心礎断片と言われるものも、その写真・実測図、そして来歴が必要だ。現地ではこの心礎断片がなんという寺のもので、その寺の来歴がどうとらえられているかの確認が必要。

 こうした手続きを経ないで歴史を論じても科学とは言えない。彼らが「幻想史学」と標榜する所以です。
 信じるのではなく、ご自身で確かめてください。これが学問の常道です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「学問の常道」を少しずつ学んでいきたいと思います。
命あるうちにできるかわかりませんが・・・。
今後ともよろしくお願いいたします。

 本件については川瀬さんのご意見にわたしも賛成です。礎石の彫り込みの直径がもし同じであっても、両礎石に何らかの関係があるかどうかは調査論証の対象であり、移築の証拠ではありません。以前からこの室伏さんの意見には学問的手続きがなされておらず、賛成できないと感じていました。
 また、古代寺院遺跡から木材が出土しないのは一般的傾向であり、瓦や礎石が出土するのも一般的傾向です。木材は腐食しますので、現代まで残る方が珍しく、再利用のため抜き取られるという例も少なからず知られています。ですから、重い礎石と瓦を残して、柱だけは移築したというのも論証の対象であり、結論ではありません。
 このような室伏さんの方法論は自らいわれているように幻想であり、「史学」というためには学問的論証が必要です。ですから、川瀬さんの御批判は真っ当なものと思います。
 吉山旧記についても同様で、わたしは同コピーを持っていますが、移築の記載など皆無と思います。同書の史料批判は古田先生と検討したこともありますが、当時も不十分なままで、あまり進んでいなかったと記憶しています。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

期せずして,川瀬さんのご意見と古賀さんのご意見が一致しました。
「正しいものは正しい」「正しくないものは正しくない」と是々非々でいくところが,
古田史学の素晴らしいところですね。
もし室伏志畔さんがこのブログを読んでいただいていたら,
コメントしていただけるとうれしいです。

 古賀さんからも的確なご指摘を頂きました。ありがとうございます。
 肥沼さん。古賀さんが「吉山旧記」のコピーをお持ちのようですから、ぜひコピーして頂いて内容を確認してください。
 これが「薬師寺は九州からの移設」論を検証する第一歩です。
 第二歩は、玉垂宮の本殿の裏にあるという、塔心礎の断片の調査です。
 玉垂宮の北側には大善寺という神宮寺があって、明治の廃仏毀釈まであったようです。ということは、この久留米地域の地誌(江戸時代は地誌がたくさん書かれた時代です)に大善寺のことがいかに記述されていたかを確認できるはずです。その記述の中に「古い昔の塔心礎」の記事がないか探してみてください。
 室伏氏の論では、奈良の本薬師寺の塔心礎とこの玉垂宮の塔心礎断片の塔心柱の直径が同じであるという事実が提示されているだけですので、この断片の来歴を調べ、本当に奈良時代以前にこの地にあった「薬師寺」という寺の塔心礎であるかどうかを確認する必要があります。
 退職されてからの課題が一つ出てきましたね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 退職されてからの課題が一つ出てきましたね。

期せずして,「退職してからの課題」が登場ですね。
それでこそ「退職した甲斐」があろうというものですが,
となると,「久留米行」も必要となってくるかもしれません。

〉  古賀さんからも的確なご指摘を頂きました。ありがとうございます。
 肥沼さん。古賀さんが「吉山旧記」のコピーをお持ちのようですから、
 ぜひコピーして頂いて内容を確認してください。
 これが「薬師寺は九州からの移設」論を検証する第一歩です。

ということですので,古賀さん,ぜひ「吉山旧記」のコピーをお送り下さい。

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