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2018年1月30日 (火)

大嘗祭はいつから行われたか?

長崎県の平野さんから,
大嘗祭についてご質問があったので,
古田武彦氏の講演録からその部分を引用させていただく。
正解は,「持統天皇から」で,
褒美だけやったのは,「天武天皇」です。

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市民の古代第13集 1991年 市民の古代研究会編
  古田武彦講演録

大嘗祭と九州王朝の系図
古田武彦

大嘗祭はいつから行なわれたか

 去年(一九九〇年)の十一月から十二月にかけて、ぶつかりました問題、大嘗祭ですね、この問題について話させていただこうと思います。これもくわしく話すと長くなるんですが、なるべくキーポイントをついて、時間を短縮して大嘗祭の問題をお話し、そして新しい問題に入りたいと思います。

 去年の十一月に大嘗祭が行なわれたことはご存知の通りです。私は正直いって、初めはあまりこの大嘗祭に対して強い関心を持っていなかったんです。なぜかというと、現在行なわれている大嘗祭というものは、大体明治に作られたものであると。つまり明治に、いろいろそれ以前の文献や儀式や、また外国の儀式も参考にして、そこで考えられたものである。そういう意味じゃ、明治にどんなふうに考えたか、ということの史料にはなっても、古代もこうだったという古代史の史料には、ちょっとむずかしいんじゃないかと、こういう感じを率直にいって持っておりました。ところが、それが実はとんでもない私の認識不足であったことを、十一月の終わりに知ることになったわけでございます。結論から申しますとね、大嘗祭の問題を知らずしては、『日本書紀』は読めないと、読んでいないということが、わかってきたわけでございます。

 なぜかと申しますと、国学院大学院友会編の『大嘗祭を考える』という本の中に、歴代の大嘗祭の記事が書いてあります。それによりますと、第四十代の天武が最初なんですね。また岡田精司さんの「“即位の礼”と大嘗祭」によると、その次の持統が最初である、と書いてある。史料的にいうと、『日本書紀』で大嘗祭が明確に出現するのは、実は持統なんです。持統というと『日本書紀』の一番最後の天皇なんです。最後の天皇で初めて大嘗祭の記事がまともに出現する。この意味ですね、皆さんどこを見ても解説なかったでしょう。新聞見ても週刊誌見ても、たくさん出た単行本見てもどこにも書いてなかったと思います。ところが事実はその通りなんですね。

 ではなぜ天武からとなっているのがあるか、というと天武のところには変な書き方がしてある。
「十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おおにへ)に侍(つかへ)奉(まつ)れる中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)及び神官の人等、并て播磨、丹波、二つの国の郡司、亦、以下の人夫等に、悉(ことごとく)に禄(ろく)賜ふ。因りて郡司等に、各爵一級を賜ふ」。

 つまり大嘗祭に参加した人たちにご褒美をやったという記事がある。これが明確に『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初なんですね。清寧の時にも出てきますけれども、これは史料批判上、写本によって、ない写本もあってあやしいので、それは省略しますが、明確に出てくるのは天武天皇。ところが天武天皇のところには明確とはいいましても、大嘗祭をやったという記事がない。大嘗祭に参加した人に褒美をやったという記事だけである。変ですよね。

 大嘗祭をやらないのに参加した人に褒美をやるってことはあり得ないんです。これは非常にクエッションつきなんです。クエッションがつかないのが持統で、
「十一月の戊辰に、大嘗(おおにへ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞を読む」。

 ここで、初めて「大嘗す」という言葉が出てくる。そして初めてで最後。“最初の終わり”、という言葉がありますが、『日本書紀』で「大嘗す」という表現がピシャリ出てくるのが持統のこの項が最初で終わりなんです。これの意味を、誰も何もいわない、知らん顔している。ま、問題のあることに気がつかないか、気がついても解けないから知らん顔をしている、ということに私はおそまきながら気がついたわけです。

大嘗祭は中心権力者が行なう

 さて、これに対して私のほうから見ると、この記事のあり方というのは非常に筋が通っているんです。なぜかというと、まず問題をこう立ててみましょう。なぜ、神武から天智までは「大嘗す」という記事がないのか、と。書けば簡単でしょう、二字ですよ。漢字で「大嘗」と書いてあったら“おおにへす”と仮名ふって読むんですからね、二字でいいんです。二字を何で惜しんだんでしょうね。神武のところに大嘗となぜ書かなかったか。いや神武までいかなくても、天智でなぜ書かなかった、孝徳でなぜ書かなかった、推古でなぜ書かなかった。誰か答えられますか。天皇家一元主義に立つ以上は解答不可能だと思いますよ。

 実際は、やったんですが書き忘れたんだろう。こんな答えあります? 他のことならともかく、その天皇にとって大嘗祭というのは絶対大事なことでしょう。それをうっかり歴史官僚が書き忘れたなんてことがあるんですか。書き忘れてすますことがありますか、私には考えられないですね。他のことならいざ知らず、こんな大事なことを、しかも二字ですむことを、何で書いてないのか。しかも『日本書紀』は造作が多いという定評になっているじゃないですか、津田左右吉以後ね。それじゃ、やってなくても「大嘗す」と造作して書いたらどうです。他のことを造作したり物語を造作する暇があったら、二字を書く位の造作、何でしないか。何か完全犯罪をすすめてるようで気がひけますけど、そういいたくなる。

 答えは、正確な答えは一つだけですね。つまり、天智以前には、近畿天皇家は大嘗祭を行なっていなかった。なぜか。大嘗祭とは中心権力者が行なう新嘗祭(にいなめさい)である。新嘗祭はね、どこでもやれるわけですよ。新嘗祭の記事はこれまでにも出てくるんですよ、『日本書紀』の中で。ところが大嘗祭となると新嘗祭とは違うんで、中心権力者の新嘗祭なんです。だから当然、天皇家が中心権力者ではなかったからである、と、こういう答えに論理的になってくるんです。

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コメント

 問題はこの天武と持統の時の大嘗祭が誰のためになされたかということ。
 天皇に即位したのは近畿天皇家では持統の次の文武が最初です。日本書紀の即位したとのきじはこの書物が書かれたときに書き換えられたもの。実質は近畿の大王となったということ。
 ということは、大嘗会の参加者に褒美を出した天武のときは、九州王朝の天皇の大嘗会に近畿天皇家の神祇官が出席したので、天武が褒美を出したと読めます。そして持統の時には、持統が九州王朝天皇のための大嘗会を主催したと読めます。
 持統の時には九州王朝は完全に傀儡王権と化していたのではないでしょうか。
 私は天智の近江宮も天武の大坂の「難波宮」、そして天武・持統によって作られた藤原宮もみな、傀儡となった九州王朝天皇のための宮だと考えます。
 つまり近畿天皇家の天皇のために近畿天皇家が作った宮は平城京が最初。
 同じように、天智や天武、そして持統の時代には、彼らは独自の律令を持っていなかった。彼らが施行した律令は九州王朝の物。おそらくそれは古賀さんらが主張しているように、近畿天皇家では孝徳の時代に出されたもの。出された場所はおそらく博多の難波宮。そしてこの律令の元で作られた都が太宰府。その宮は、日本書紀で味経宮と書かれた宮だ。
 そして九州王朝最後の天皇のための宮である藤原宮で即位した文武のときに、近畿天皇家としての初めての律令が施行された。大宝律令だ。
 また近畿天皇家による近畿天皇家の天皇のために挙行された最初の大嘗会は文武の時だ。
 白村江の戦い以後の九州王朝と近畿天皇家の関係はこう読むべきだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうござすいます。

なるほど。その方がよさそうですね。
ONラインにもかなっていますしね。

日本書紀・・・九州王朝の時代まで
続日本紀・・・近畿天皇家の時代以降

これで両書も時代区分ができるわけです。

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