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2018年1月 5日 (金)

古田史学と幻想史学と文学と

私は大学は法学部に入学したのだが,
大学1年の夏休み前には「司法試験」へのチャレンジをあきらめ,
文学の読書や映画の鑑賞に励むことにした。
(だって,1日10時間法律の勉強をして,
それでも現役で合格するのは難しいとのことだったので)

それは36年間の教員生活の最後に来て,
間違った選択ではなかったと思っているのだが,
とにかく,大学の4年間ロシア文学やフランス文学の長編を渉猟した。

例えば,トルストイの『戦争と平和』は,夏休みの最初の読書として,毎年読んだ。
(文庫本で4分冊。約2000ページ)
最初はカタカナの長い名前に慣れなかったが,そのうち慣れてきて,
次第に内容を楽しめるようになった。
なので,毎年これにはチャレンジして,合計4回読んだことになる。
大学を出てからは『戦争と平和』の読書は36年間で数回だから,貴重な時間の使い方ができた。
『戦争と平和』以外にも,ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』,
フランス文学ではスタンダールの『赤と黒』や『パルムの僧院』,『ゴリオ爺さん』などを読んだ。
それらは,学生時代お世話になった,そして今もお世話になっている
赤門塾の長谷川宏先生の読書会の影響があっただろう。

なんでこんな話から入ったかというと,
「夢ブログ」で長らく私が批判されてきた古田史学への取り組みが,
そこに原因があるのかもしれないと思ったからである。

文学を読む時は,その作者の表現の隅々まで読み逃さないように読んでいき,
自分の感性との共鳴を図ることが主目的である。
歴史学は,それとは反対に,「書かれていることの矛盾点を見出し,
批判することによって学問に資する」という形をとるのが常態なのではないか。そんな気がしてきた。
そういう意味では,私は悪い意味での「文学読み」をしているのかもしれない。
室伏志畔氏の幻想史学の表現は,文学的だと思うから。(もちろん,歴史学として正しいかどうかは別だが)

よく「愛の世代ズ」のてるちゃんから,「また川瀬さんからコテンパンにやられましたね!」と言われるのだが,
川瀬さんのやりたいことと私のやりたいことのズレを指摘されているのだと思う。
(歴史研究の方法として,もちろん川瀬さんのやり方が正しいとは思っています)
批判されてみれば,そうあるべきとは思えるのだが,私自身がそういう学び方をしてきていないので,
たびたび川瀬さんのひんしゅくを買ってしまい,同じことを繰り返しているのかもしれない。
例の「また肥さんの「悪い癖」が始まりましたね」というセリフは,読者の皆さんは何回もお耳にしたことだろう。
それは川瀬さんの時間を奪うことにもつながるので,私としても大変申し訳ないと思っている。

私は仮説実験授業のように,たのしく歴史学も構成できないものかと思っている。
「たのしい」という意味は,読者にも仮説を立て,選択肢を使って考えてもらい,
最後は統計やグラフで結論を出すようなイメージだ。(相手に納得してもらうことが大切)
文字で長々と論証するのとは違って,「中高生でもわかる表現」で相手に知らせる。
もちろん難しい内容すべてをそうすることはできないと思うが,
少なくとも「夢ブログ」で歴史のことを扱う限りは,できるだけそのようにしていきたい。
(本当は新しい「歴史サイト」を作るといいのだが,ココログは3つまでしかできないので,誰か作って!)

今も『古代史を殺したのは誰か』の読書は続いているが,
私の中で気が付いたことを「備忘録」として書いておく。
私は今,古田史学>幻想史学>文学みたいな形で,イメージしている。
これは決して,文学を貶(おとし)めている訳ではなく,「領域」みたいなものとして。
なので,室伏志畔氏自身も,「自分のやっていることは,古田史学とは違う」という意味で,
幻想史学といった表現をしているのだと思う。(未完)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

『誰が古代史を殺したのか』『薬師寺の向こう側』も今読んでいます。
『日本古代史の南船北馬』を初版で読んだことを思い出しました。
彼が古田史学を離れたのは、科学より文学が好きだからではないでしようか。彼が「幻視」と言っているのは十分に仮説(少なくとも作業仮説)といえると思いますが、科学は「検証」という時間・手間のかかる地味な作業に耐えねばなりません。
文学は、自由に想いを飛翔させることができます。
科学より先に真実を言い当てていることもあるかもしれません。彼は文学が好きなのだと私は思います。
私は、妄想は好きですが、数学・論理学・物理学をはじめとする科学がそれ以上に好きです。
『誰が古代史を殺したか』の読後感想を期待しています。

>文学を読む時は,その作者の表現の隅々まで読み逃さないように読んでいき,
自分の感性との共鳴を図ることが主目的である。
歴史学は,それとは反対に,「書かれていることの矛盾点を見出し,
批判することによって学問に資する」という形をとるのが常態なのではないか。そんな気がしてきた。

 歴史学(というか科学の論説を読むときは)についてはそのとおりです。武蔵国分寺の研究論文を三人で精査する作業をしていたとき、肥沼さんは、当該論文の「論理構造」を分析していないことに気が付きました。つまり「当該の論文はどのような発掘事実を指摘してどのような仮説を提示しているのか、この発掘事実で仮説は証明されているのかいないのか」を把握していないことに気が付きました。
 ようするに、科学の論文を読むのに慣れていないのです。(法学部であればゼミで法律理論とその適用の論文を一杯読んでいるはずですが。法律学は論理の積み重ねです。)。言い換えれば論理的に考えるという作業に不慣れなわけ。

 だから著者の主張にただ共感してしまうだけでおわる。

 僕は文学はあまり読みませんが、でも文学作品を読むのは著者と共感することが目的なのかはちょっと疑問です。「おもしろそう・・・・」だから読むのじゃないか。その結果として著者の描写に共感することもあるし、疑問を持つこともあるだろう。
 このところ歴史研究のために、古典文学を読むことが増えている。物語や和歌や俳句も含まれる。でも歴史の史料として読んでいるので、常に分析的に読む。
 文学の中で僕が一番好きなのは推理小説だ。これは常に分析的に読まないとわからない。著者が仕込んだ事件を解くためのヒントにいかに早く気が付くか。著者と読者の戦いのゲームです。
 このせいでしょうかね。普段からあまり、流行歌にも興味がないのは。歌で感動するということがない。音楽なら器楽曲だし、平家物語を語っていても感動よりも作者の意図を分析してしまいます。

 「古代史を殺したのは誰か」。ぜひ分析して読んでください。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

もしかしたら,そうなのかもしれません。
今半ばに到達したところですが,室伏さんは
吉本隆明さんの「グラフト(接ぎ木)国家論」が気に入っておられるようで,
それが「共同幻想論」とつながっている感じがしました。
室伏さんは「吉本さんの考えを古代史に適用したらこうなりますよ」
という主張をしているみたいですね。
また読みながら考えていきます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「古代史を殺したのは誰か」。ぜひ分析して読んでください。

私もそのように思います。
そういう意味では,いい時期に課題を与えていただいたのかもしれません。
「どっちに転んでもシメタ」と板倉聖宣さんは言っていますが,
私が成長するチャンスととらえるならば,そうなのでしょう。

今ちょうど半分読んだところですが,室伏さんは吉本隆明さんの「グラフト(接ぎ木)国家論」
というのがお気に入りのようで(「共同幻想論」と同じようなものか),
「それを古代史に適用するとこんなふうになりますよ」,という主張なのかなと思っているところです。
さらに読書を続けます。

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