薬師寺東塔の擦銘
法隆寺釈迦三尊像の光背銘により,
私たちは大和政権ではない人間関係(おそらく九州王朝の)を知ることが出来ると同時に,
法隆寺が九州から移築されたのではないかとする考えを持つことが出来た。
そのほかに事例がないかとアンテナを立てていたところ,
室伏志畔著『誰が古代史を殺したか』(世界書院刊)に,
薬師寺の東塔の擦銘のことが出ていることを知った。
(P138~140)
さらに拡大して
太宰府(大善寺・玉垂宮の原薬師寺) → 藤原京(本薬師寺) → 平城京(京薬師寺)
「この私の原薬師寺の九州からの移築・移坐の幻視は,
大善寺た玉垂宮の境内に残る原薬師寺の礎石断片(写真26)に残る
心礎址をかたどった新聞紙が,飛鳥の本薬師寺址に唯一残る
円形の九六センチの直径をもつ東塔の心礎(写真27)にピタリ一致したことで,
その後の完全な移築・移坐をもって本薬師寺が完成したことを私はほぼ裏付けた。」
(P138)
もし上の擦銘が,『日本書紀』の内容と矛盾するものであり(文献的証明),
そして,新聞紙を当てた心礎の共通した直径(考古学的証明)でいいのであれば,
薬師寺の移動説の証拠にならないだろうか。
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もうすこし画像が鮮明で銘板の文章が読めれば良いのですが。そしてどういう状況で出てきた銘板かが知りたいですね。ここが分れば肥沼さんの疑問にお答えできますが。
室伏氏の本を購入すれば良いのでしょうが、「幻想史学」なるものを標榜する氏の論説を読もうという気が起きませんので。
ネットで検索しても室伏氏の本以外この情報が出てきません。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 2日 (火) 00:34
追伸
前の書き込みをしたあと念のためにネット検索をさらにしてみたら、問題の「東塔の擦銘」については、室伏氏が古田史学会報にも書いていたことがわかった。2002年 8月 8日 No.51 である。
銘文本体もネットで手に入った。
これらを読んでみて、「東塔の擦銘」が、当初掘られていたものを改竄したとの説があることに基づいて室伏氏が展開した説であることがわかった。
もともとこの薬師寺は当時天武の皇后であった大田皇女の病気回復を願って建立されたが、大田の死後皇后となった持統(以前は中宮であった)が天武の死後権力を握り、本来天武の後継者であった大田が生んだ皇子大津を殺して自らの子の草壁を後継にした。しかし薬師寺の法輪の擦銘には「皇后」と彫ってあったので都合が悪いから「中宮」に書き直させて史実を改竄。書紀はこの改竄に基づいて薬師寺は皇后であった持統の病気回復のための寺だと書いたと主張した。
そして大田皇女は天智の娘ではなく、天武を近畿に引き入れた多氏の娘だと室伏氏は説いている。
というものですね。室伏の説は。
肥沼さん。この東塔の擦銘については学会で長く論争されているようです。これを読んでからではないと室伏説が正しいかどうかはわからないですね。
そしてこの説は、薬師寺が藤原京⇒平城京に移設されたことに関するもの。
肥沼さんが興味を引かれたのはその前でしょ。
つまり 、太宰府(大善寺・玉垂宮の原薬師寺) → 藤原京(本薬師寺)
この大善寺に残されているという半月型の塔心礎石についても調べないと何とも言えませんね。
大善寺・玉垂宮とは久留米市にある寺のことですよね。
ぜひご自身で検証なさってください。人の説を丸ごと信じるのではなく自分で調べ判断しよう。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 2日 (火) 01:23
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
さすが「検索王」の川瀬さんですね。
私が先のコメントの返事を書いているうちに,
もう次の段階に進んでしまわれました。
なので,この薬師寺・三重塔の擦銘については理解されたと思います。
〉 「幻想史学」なるものを標榜する氏の論説を読もうという気が起きません。
私もこれまでの室伏氏の本は難解で,「幻想史学」というものにも懐疑的だったのですが,
氏も74歳となり,「これが最後の本」のような感じで,これまでの総集編的な内容となっています。
それが読んでみようと思ったきっかけです。(川瀬さんのおっしゃっていた,法隆寺以外での
考古学的な寺院の移築や仏像の移坐の証拠探しのためもあります)
氏によると「通説と九州王朝説の文献実証史学の行き詰まりを,記紀の指示表出ではなく,
幻想表出(吉本隆明の云う自己表出)から歴史復元を試みるところに,実証史学と一線を画す
幻想史学のの提唱の意味がある」とのことです。
古田武彦氏の九州王朝説に学んだうえで,その埋めきれない部分を幻視(私は想像力みたいなものと考えますが)で補いつなげていく,という感じでしょうか。「幻想」というと「妄想」みたいに思われてしまうと思いますが,「直観」みたいなものに近いかもしれません。
九州王朝内にしても,1つの団体としてとらえるから,九州VS大和と「一元史観」になってしまうのが,
九州王朝内にも「多元史観」を用いて解き明かしていく(太宰府=倭国勢力VS豊前勢力)。
また,それ以前の日本列島へ大陸・半島からの人々と文化の渡来についても,
何度とない攻防の末,その最後に出雲勢力(その内部にも多元史観を働かせてみる)が登場して,
それをさらに九州王朝が乗っ取り・・・という感じでしょうか。
この冬休みは,室伏志畔著『誰が古代史の殺したか』(世界書院)をメインの読書と決めましたので,
また学んだことを「夢ブログ」」で書かせていただくつもりです。
今年もよろしくお願いいたします。
投稿: 肥さん | 2018年1月 2日 (火) 02:08
室伏氏の書がなぜ難解なのか。 読んではいないが、「幻想史学」論を踏まえればわかる。
「通説と九州王朝説の文献実証史学の行き詰まりを,記紀の指示表出ではなく, 幻想表出(吉本隆明の云う自己表出)から歴史復元を試みるところに,実証史学と一線を画す幻想史学のの提唱の意味がある」、これが氏の「幻想史学論」だと理解して考えてみる。
要するに室伏氏は文献史料で論証または実証できないところは、自分の「幻視」で補うというのだ。肥沼さんがいみじくも言い当ててしまったが、「幻視」とは「幻想」であり「妄想」である。要するにこの考えの根拠となる史料(文献でも考古資料でも)は示せないが、「こうであった」のは「確かなことだと私は想う」ということだ。
肥沼さんは「直観」と言われたが、これは「直観に基づく仮説」と言い換えて良いと思う。
室伏氏の論の根幹部分が「直観に基づく仮説」だらけなので、理解しにくいのだろう。もちろん「直観に基づく仮説」を頭から信じてしまえば、氏の論は分かりやすいのだと思う。
「古田史学」に集う人の中から、室伏氏のように、文献や考古資料で論証または実証できないことを堂々と「史論」として発表する人がたくさん出てきた。肥沼さんが「信奉」される米田氏もその一人だ。
今の「古田史学の会」や「多元的古代の会」「東京古田会」などは、これらの古田亜流からは距離を置いて、あくまでも古田さんの文献や考古資料に基づく実証史学の方法論に依拠して古代史を、古田さんの「九州王朝論」を発展させる形で考究しようとする人たちで作られたものだと私は理解している。
しかし古賀さんらの最近の傾向は、「幻想史学」と同類の方向にどんどん進んでいるように思う。史料を恣意的に改変する方向にいっているからだ。室伏氏が金石文である薬師寺東塔の擦銘を「改竄されたもの」と史料を示さず断定しているように。だから「室伏流」に立つ「九州古代史の会」との交流も始めた。
私はあくまでも、歴史学が科学であれば、文献史料や考古史料に基づいた実証史学の方法論によって、史料で論証または実証するのが、歴史学の方法だと思います。ただし論証を、古賀さんらのように「史料に依拠しなくても論理的にそう考える以外外にない場合にはそれは論証されたと考える」というような緩いとらえ方はしません。ある事象を実証できる史料がない場合でも、周辺の関連する諸史料群から論理的にその事象が事実だととらえられるなら、「論証」されたと理解します。 あくまでも大事なのは直接実証できる史料か間接的に実証できる史料がなければ、歴史学とはいえないのです。
もっとも歴史を「新しい歴史教科書を作る会」のように、科学ではなく物語だととらえてしまえば、そこには史料は不要です。自らが見たい物語を事実として歴史と言ってしまえば良いのですから。「幻想史学」はこれと同類の危険性を持っています。自分の見たい古代史像を事実としてしまうという危険性を。
今回の薬師寺の件でいえば、藤原京⇒平城京に寺が移設されたことは確実です。今までも論争での論争点は、すべての伽藍が移設されたのか、一部だけかだった。発掘によって中門は移設されてさらにその規模を拡大して再建されていることがわかっている。東塔はそのまま移設。問題はのちに焼失してしまった西塔が移設か新設かだった。でもこれも発掘によって西塔も移設と確定。薬師寺は全体が移設された。
今後肥沼さんが実証または論証しなければいけないのは、この藤原京の本薬師寺が、この地での新設なのか、他からの移設なのか。そして移設ならばそれはどこからかだ。室伏論の大善寺・玉垂宮からの移設説を論じるには、室伏氏があげた大善寺にあるという一部欠けた塔心礎の存在の確認と薬師寺の塔心礎の比較論証が不可欠。そして大善寺・玉垂宮が原薬師寺だという文献史料の存在があるかないかだ。
こうした九州からの移設を示す史料があるのかないのか。ここを明らかにする必要があります。この史料の所在を論じないで、室伏説をただ信奉してしまっては、「古田史学」からの逸脱です。
肥沼さんには、古田さんの実証史学に立つのか、室伏らの「幻想史学」に立つのかが問われていると思います。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 2日 (火) 15:05
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 こうした九州からの移設を示す史料があるのかないのか。ここを明らかにする必要があります。
この史料の所在を論じないで、室伏説をただ信奉してしまっては、「古田史学」からの逸脱です。
こいうい史料は,「大変残りにくい性格の史料」であると思います。
とりあえず「吉山旧記」(薬師寺旧記)をアップしますので,ご検討下さい。
〉 肥沼さんには、古田さんの実証史学に立つのか、
室伏らの「幻想史学」に立つのかが問われていると思います。
そういう「踏み絵」みたいなことを言われてしまっては困ります。
私にも「読書の自由」がありますので。
投稿: 肥さん | 2018年1月 2日 (火) 16:41
肥沼さんは私の言ったことの意味がわかっていないですね。
室伏氏や米田氏は、自分の論説を書くとき、明確な証拠を提示できないときは、「そうに違いない」という言い方で、証拠の提示をスルーしてしまいます。
彼らの論説は思い付きとしては良いところに目をつけています。
問題点は、きちんと史料を挙げて論証していないこと。したがって彼らの本を読みそれを紹介する際には、
①どういう仮説を彼らは提示しているのか
②この仮説を証明するために彼らはどんな証拠(文献・考古資料)を挙げているのか
③彼らが示した証拠で十分に仮説は証明できているのかできていないのか
この三点に注意して読みかつ紹介しないといけないと思います。
肥沼さんはこの②と③の作業をせず、①に酔ってしまっている。多くの「古田ファン」がしばしば陥るところです。ここを注意してくださいと言う意味です。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 3日 (水) 15:31
追伸
薬師寺の「九州からの移設論」で大事なことを記すのを忘れていました。
室伏氏は、薬師寺東塔の法輪路盤の銘(擦銘)が、この寺が平城京に移設されて組み立て終わったあとに、塔の上に登って新たにこの銘を刻んだという、通説派の理解に何の疑問を呈していません。
あんな高いところに上ってわざわざ銘を掘るでしょうか。
通説派の論拠は、銘文が行が曲がっていることや、銘を掘る際に「めくれ」が生じていることだけ。
法輪の露盤に銘を掘るのは、塔の心柱の天辺につけるまえに、工房でなされるものです。
したがってこの銘は、東塔が藤原京に有った時から掘られていたと考えるべきです。
こうなると、この銘文は、九州からの寺自体の移設を仮説として導入すると、九州にあったときから掘られていたと考えるべきです。
このためこの銘文にある「清原宮馭宇天皇」とは天武天皇ではありえません。
第一この九州王朝論からすれば天武は天皇ではなく大和の大王にすぎない。
第二に天武紀を私が検討した際に、天武が即位したという「飛鳥浄御原宮」を造立したという記事はなく、この宮の造立記事は天武15年にあたる朱鳥元年秋9月20日だ。天武が即位(大王に?)した宮は岡本の宮だ。
第三に、金石文の解読を、この塔の造立移設よりのちの史料である日本書紀の記述に従って読むこと自体が間違いだ。
九州王朝論者ならば、薬師寺東塔の法輪路盤の銘分を日本書紀から切り離して読んでみる必要があると思います。室伏氏はここまで踏み込んでいない。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 3日 (水) 15:45
もう一つ「薬師寺の九州からの移設論」を検証するための作業がありますね。
通説派の人たちがいかに薬師寺を認識しているかの確認です。
よくまとまった本があります。白鳳文化研究会編の『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』(2008年冨山房インターナショナル刊)です。
西の京の薬師寺が移設なのか新設なのかについての考古学的知見や東塔の法輪露盤銘文についての論考など、通説派からの最新の知見が満載です。
あと現在東塔の解体修理が行われていますので、ここからの知見も随時発表されるでしょう。塔の心柱の年輪年代法による測定や、塔の心礎の状況確認(仏舎利孔があるかないか)など興味は尽きません。
これらも退職後の古代史研究の課題の一つですね。
投稿: 川瀬健一 | 2018年1月 5日 (金) 12:55
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 これらも退職後の古代史研究の課題の一つですね。
そんなにもホットな話題(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』や「現在東塔の解体修理」)が満載とは,
ちっとも知りませんでした。
でも,それに出くわしたということは,やはり私は「何か持っている」のかもしれませんね。(笑)
さっそくその本を注文してみます。
貴重なアドバイス,ありがとうございました。
投稿: 肥さん | 2018年1月 5日 (金) 21:33
肥さんへ
肥さんは私のブログを閲覧してらっしゃるはずです。
「薬師寺東塔(裳階付三重塔)」の秘密― 「凍れる音楽」のリズム設計 ―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/11/post-9416.html
ここに次のようにありますよ。
【追記(2017/11/09)】採寸した図は、白鳳文化研究会編著『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』(2008年5月30日、冨山房インターナショナル)13頁に掲載されている「薬師寺東塔復原正面図『薬師寺東塔に関する調査報告書』より」図です。
投稿: 山田 | 2018年1月 7日 (日) 00:49
山田さんへ
コメントありがとうございます。
その本はが来週には届くと思いますので,
それまでのお楽しみとします。
もうすでに三学期がスタートしてしまったようです。
また忙しい日が始まります。
投稿: 肥さん | 2018年1月 7日 (日) 02:11