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2017年11月 6日 (月)

今後の「多元的古代」研究に向けて

私はこれまで30年近く,古田武彦氏の研究に学んできた。
今後もそれを続けていくつもりだが,
来年以降は,これまでより研究の時間も多く取れるだろう。

なにしろ平日にも,読書や調査旅行に行くことができ、
週末には研究会にも参加できるのである。
もう毎日が日曜日・・・ならぬ研究日と言っても過言ではない。

今の私の関心事を書くことで,自己紹介にもなり,
また協力も得やすいと考え,少し書いてみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) 古代官道について

誰が,何のために造ったのか,さらに深めていきたい。
「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」(2012年)できっかけはつかんだが,
西村さんの「西海道のコース変更」の発見などで自信を深めた。
さらに最近の郷土研究の「天王森」という字地名と東山道武蔵路の隣接から,
出雲王朝まで古代官道は遡(さかのぼ)れるのではないか,などと考え始めた。
だって,いきなり何もないところに,幅12mの直線道路を作るのは無理だから。
その前に,すでに「出雲街道」があってしかるべきだと・・・。(すべての道は出雲へと続く!)
そんなことを思いついた神無月(全国の神々は出雲に集められた)の次の霜月であります。

「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」(改訂版)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/09/post-5cde.html

(2) 「国分寺」について

2年ほど前に始めた多元的「国分寺」研究サイト。
川瀬さんと山田さんという論客に支えられてここまでやってきた。
それを来年度以降は,さらに推し進めていきたい。
そもそも聖武天皇は「国分寺建立の詔」を出したというが,それを読むと,
「国分寺」という言葉は出てこないのである。「国分寺」はなかった!
(これはもちろん,古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』のマネです)
そこを大和一元史観の学者たちが,日本書紀・続日本紀に騙(だま)されて,
「これこそ国分寺建立の詔だ」と信じているに過ぎない。
実際は「七重塔を造れ。そうしたら,そこに金泥のお経を入れる」という宣言だ。
ということは,それ以外の寺の伽藍があったはずで,それが九州王朝が設置した
国府寺ではなかったかという訳である。(学者たちは国府付属寺院と言っているようだ)
実際「詔」は8世紀半ば(741年)に出されたものだが,各地の「国分寺」は
古式の7世紀の伽藍配置をとっていたり,7世紀後半の白鳳瓦が出土したりしている。
スタートラインは100年遡(さかのぼ)らせるべきなのに・・・。
皆さんの近くにも「国分寺」はあると思います。ぜひ多元的「国分寺」研究にご協力を!
(以下に,「国分寺建立の詔」をリンクしてあります。「国分寺」という文字はありますか?)

(再録)「国分寺」はなかった!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2016/02/post-4336.html

「国分寺建立の詔」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html

(3) その他「夢ブログ」で取り上げてきた数々のこと

その他にもいろいろ研究したいことはたくさんある。
まずは,古代官道かかわって駅鈴こと。誰が,何の目的で作ったものなのか。
次に,『続日本紀』の「はじめて」記事のこと。大和政権にとっては「初めて」では?
さらに,無紋銀銭・十二弁の菊花紋・上野三碑・多賀城・観世音寺式寺院など、
これまで「夢ブログ」で取り上げてきた数々のこと。

「肥さんの夢ブログ」古田史学

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/cat6963771/index.html

私の命があとどれくらい続くのかわからないが,
命ある限り多元的古代の研究を続けていきたいと思う。
(明日、不整脈と心エコーの精密検査を受けてきます。
健康でないと研究はできないので・・・)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さん。私も古田先生と出会って36年になります。69才、古田先生の学問の方法を伝えて行きたいと思っております。健康ご留意下さい。それと、「日本書記」で「郡」が出現するのが、「推古記」であることが、気になっています。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

私が今59歳なので,上城さんは10歳先輩ですね。
今後ともよろしくお願いいたします。

〉 それと、「日本書記」で「郡」が出現するのが、「推古記」であることが、気になっています。

へー,そうなんですか。どういうことなのでしょうね。

「日本書記」では、「評」は「郡」に書き換えられていますが、推古記に出てくる「郡」も「評」の書き換えである可能性があり、そうすると、「評制」の開始は推古記の時代、「アマタリシホコ」の時代かもしれないと考えられることになります。きになります。

 推古紀の郡とは、筑紫国嶋郡のことでしょうかね。
 その後には、近江國坂田郡、難波大郡、出雲国神戸郡とでてきますね。
 つまりこれらの国ではこの推古の時代、つまり6世紀末から7世紀初めにはすでに「評」制度が施行されていたということを示していると私は理解しています。
 でも日本書紀全文検索で「郡」の語で検索すると、日本国内の「郡」出現の例はもっと前で、淸寧紀において、播磨国赤石郡、丹波國余社郡、山背國葛野郡が出てきます。
 これは継体の時代の直前の武烈の前ですから5世紀末から6世紀初めになります。
 これをどう理解するかですね。
 やはり評制度の施行は5世紀末まで遡ることができるのではないでしょうか。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

いったいどういうことなのでしょうね。
私には皆目見当がつきませんが・・・。

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