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2017年11月 4日 (土)

白山神社と牛頭天王像

昨日は,大失敗した。
せっかくの正福寺の「地蔵まつり」に,
カメラを持っていき忘れた。

合唱コンのビデオのダビングを2時間分して家を出発した。
白山神社と古鎌倉街道を見学しながら,正福寺に向かった。
正福寺には何回もいっているが,その建築と木彫りのお地蔵さんの件で,
国宝になっている東村山市の文化財である。
しかも,11月3日は地域おこしで盛り上がる「地蔵まつり」であった。
晴天のため,入間基地のブルー・インパルスも空を飛んでいる。

そんな中カメラを持たないみじめな私がいた。
まるで,バットを持たずにバッターボックスに入る打者のようなものだ。
あるいは,マウンドに球を持たずに上がった投手のような・・・。
チャンスの神様に後ろ髪はない・・・。
昔の人はよく言ったものだ。

本日は白山神社と古鎌倉街道の案内板,
そして正福寺の写真をリベンジしてくるが,
「地蔵まつり」でにぎわう境内の様子(数百人)は,
1年後までお預けということになってしまった。

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しかし,転んでもただでは起きない肥さんとしては,
牛頭天王について,考える時間はもてた。
これは,九州王朝以前の支配者(出雲王朝,出雲朝廷)のことを
表しているのではないかと。
7世紀半ばに造られた東山道武蔵道だが,
何もないところに巾12mの高速道路をいきなり作ることはできないだろう。
幅1~2間の道路はすでにあって,それを拡張したのが軍用道路ではないかと。
そして,その元の道路を造った建設主は,出雲王朝・出雲朝廷ではないかと。
だって,弥生時代前半と思われる時代に,出雲に地方の支配者たちは集められ(神無月),
中央の支配(大国主?出雲では10月のことを,「神在月」と言うそうだ)を受けたからである。
そして,スサノウは古事記で乱暴者に扱われているが,
実は出雲王朝の主人(もしかしたら「天王」と呼ばれていたかも!)
それを九州王朝が「国譲り」で奪い取って,支配権が移動し,「天皇」となり,
大和政権は「昔から日本列島の支配者であった」という日本書紀のストーリーから,
「天皇」と名乗ってきた。(実際に名乗れたのは,文武天皇からで,持統までは大王だったが)

出雲王朝の天王 → (九州王朝の天皇) → 大和政権の天皇

というように,支配者の名称は変容してきたのではないかと思ったわけである。
これは単なる妄想か,それとも今まで誰も考えなかった正解か,
それは後世の人が判断するであろう。
今はインターネット的には良い時代なので,2017年11月4日の真夜中に,
私がそのように考えたことをアップして,皆さんに読んでいただける時代である。

そんなひらめきがあったのは,次のいくつかの学習が元になっている。

(1) 支配者は,以前の支配者のことを悪く言う。(牛頭ごず)
(2) しかし,地元の人は「祭神」として,あがめている。(天王の呼称を残す)
(3) 支配者としても,地元の信仰心までは支配できないので,祭神や末社としての扱いを
 「見て見ぬふり」をすることとなる。
(4) 周辺の東山道武蔵道の沿道に広がる「天王森」は,昔の出雲王朝の領地であったことを表す。

福岡県に伝わる鬼夜の火祭りでは,鬼は闇に隠れて逃げることが出来ていたり,
同じく福岡県のある神社では,ニニギの侵入を拒む前支配者の動作が行事に残っている。

白山神社が出雲系の神社であるとするなら,牛頭天王は出雲の関連のものである。
大国主が「国譲り」のあと,神となって,出雲大社に祀られたというが,
それが地方ではこのような形で祀られたのではないか。

自転車で暗い夜道を走らせながら,私の頭はそんな妄想(あるいは,ひらめき)が,
去来していたのでありました。(これも白山神社に祀られていた石彫・牛頭天王像が,
とても格好良く,立派な表情で,簡単に「悪者」とは思えなかったからであった)

東村山の白山神社

https://tesshow.jp/tama/emurayamakiyose/shrine_kumegawa_hakusan.html

白い参拝記

http://893ginger.blog55.fc2.com/blog-category-124.html

牛頭天王信仰とその周辺

http://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/8e57770e6b0c9148c1deccec54edcd4f

ウィキペディア「出雲大社」に興味深い記事があった。
「祭神の変化」というものである。

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祭神の変化

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では
「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、
この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。

やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、
鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。
鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、
中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。

14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。
八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、
1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には
「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。
また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、
寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、
出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、
仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。
これに併せて祭神は須佐之男命から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

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要するに,大国主神≒素戔嗚尊というわけで,
説明板によれば,「牛頭天王は,素戔嗚尊と同体」というのですから,
牛頭天王像は出雲の支配者像と言って良いのではないでしょうか。
(「神仏習合の結果,そうなっていった」というサイトもありました)

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