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2017年11月24日 (金)

レプリカは「本物そっくり」なのか?

私は何年か前に購入したレプリカの駅鈴を持っていて,
それが「本物そっくり」か気になった。
「本物そっくり」だからレプリカとも言えるのだが,
本当に「本物そっくり」なら,
隠岐の駅鈴はこのような形をしているからである。
写真に撮ってみたので,アップしてみる。
なんだか「突起」というより,「座りを良くしている台」
のようにも見える。
一度レプリカの製作会社に「突起までそっくり」なのか,
聞いてみたいと思っている。

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駅鈴のレプリカ(夢ブログ)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/03/post-39c6.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

吉野ヶ里銅剣,銅鏡,銅鐸,志賀島金印、そして駅鈴。
残るは金印「親魏倭王之印」レプリカだけですね。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

「おもしろ博物館ショップ」というところで
入手できるとのことてす。
1944円でした。
サイトをリンクしてみました。

肥沼さん。提示された史料は丁寧に観察しましょう。
 本居宣長記念館のサイトの隠岐国駅鈴に関する記述では、「乳状突起」と明記されています。つまり、「乳首」か「乳房」のような突起だと。
 そして隠岐国駅鈴と、さらに美濃の南宮神社の駅鈴のレプリカの写真をよく見ると、たしかに乳状突起ですよ。
 肥沼さんのお持ちのレプリカは、この乳状突起を忠実に再現していないことはたしかです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

南宮神社の駅鈴のレプリカの写真をよく見ると,確かに乳状突起です。
ただ,隠岐の駅鈴については,本居宣長博物館のサイトでは「乳状突起」と書いてありますが,
私は実見したわけではないので,「?」を付けました。
私の撮影したように,真下からの写真があったらぜひ見たいと思っています。

>,隠岐の駅れてはサイコロ型に見え, 南宮神社の駅鈴は,つぶれた六角形のように見えます。

そうでしょうか。
 南宮大社のサイト、http://www.nangu-san.com/sub5/
の駅鈴の写真と、
 島後観光のサイト、http://www.page.sannet.ne.jp/nobumi-saito/kankou/gallery/dougo/dougoE.html
の隠岐国駅鈴の写真を
ほぼ同サイズにして横に並べてみると、ほぼ同じ型の駅鈴です。

>私としては,両者は別の王朝(九州と大和)の違いと思っています

 これは肥沼さんの思い込みです。
 そっくりの形で同じく下部に乳状突起がある。しかも律令では近畿天皇家の駅鈴には刻みがあるわけで乳状突起はない。
 刻みがないから隠岐国駅鈴は偽物との説まであるが、刻みがないから九州王朝駅鈴と仮定したのだから、同じく刻みがないのだから南宮大社の駅鈴も九州王朝駅鈴と判断するのが論理的結論。
 そして南宮大社の駅鈴に関する言い伝えとして「下部の乳状突起に意味がある」と。
 つまりこれは近畿天皇家駅鈴の刻みと同じ役割ではなかったか。
 そして隠岐国駅鈴もよくみると乳状突起が下部にある。

 以上の証拠を組み合わせてみれば、隠岐と美濃南宮大社の駅鈴は同じ王朝、九州王朝駅鈴としか論理的には判断できない。

 なぜ肥沼さんはこの論理的結論を拒否するのか?
 それは南宮大社駅鈴の存在を知る前の自分の見解に拘っているから。隠岐国駅鈴が古代の駅鈴として確認されている唯一の例だという前提で物を考えているから。
 南宮大社の駅鈴の存在がわかった時点で、結論は論理的に変わります。
 確認できただけで、刻みがなく底部に乳状突起のある駅鈴が二か所で確認されている。
 そのうちの隠岐国駅鈴はその由来が定かではない。
 一方の南宮大社の駅鈴は「寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つ」と伝わっている。
 この由来の根拠となる文書などの確認は必要だが、この史料を合わせて考えるとき、隠岐国駅鈴のまた南宮大社駅鈴と同様に、「寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つ」と論理的には判断せざるをえない。

 西吉野村の駅鈴は、私が見つけた論文に絵があって「三鈷鈴」だと書かれており、以上二か所の駅鈴とは別物。おそらく密教の法具であったものを駅鈴とあやまって伝えたのではないでしょうか。これも確認が必要です。後醍醐天皇の持ち物との言い伝えもあるそうです。後醍醐天皇は自ら密教の加持祈祷を行って政敵撲滅を祈願したといいますから、その際に使用した法具とみた方が良いと想像しています。

追伸:いましがた、光格天皇と隠岐国駅鈴の論文を確認したところ、この論文に、億岐家に伝わる文書の写しが島根県立図書館に所蔵されているものが引用されていました。その中にこの駅鈴は、「吾総社神廟所蔵鈴二枚」とあり「世伝以為神物」と記されていました。
 http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm
「億岐家と駅鈴」に書かれていた由来はちょっと違うのではないかと思われます。
もともと隠岐総社の神宝というのが正しいと思います。
 ということは美濃南宮大社の例と同じだと判断すべきです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この由来の根拠となる文書などの確認は必要だが、この史料を合わせて考えるとき、隠岐国駅鈴のまた南宮大社駅鈴と同様に、「寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つ」と論理的には判断せざるをえない。

となると,論理から言うと,大和側の処置として,前王朝の駅鈴を四十八社に奉献したことになる。(2個ずつなら,96個も)
いったい何のためにそんなことをしたのでしょうか?

>となると,論理から言うと,大和側の処置として,前王朝の駅鈴を四十八社に奉献したことになる。(2個ずつなら,96個も)
いったい何のためにそんなことをしたのでしょうか?

 さあ、何のためにでしょうね。
 どの論文だったかな?交通史の論文で駅鈴を論じたところで、「中国では符を発行して駅馬を使用させていたが、日本では鈴である。その意味は何か。これは日本ではもともと駅馬は朝廷の命を伝えるためにしか使用しないもので、朝廷の命とは天皇の命。したがって神である天皇の命を伝えるということなので、同じく神聖なものと考えられていた鈴を使用したのではないか」との推論がありました。
 光格天皇が遷幸の行列にわざわざ隠岐国駅鈴を同道させたということも、これが神聖なものとの認識があったからではないか。
 だから前王朝のモノを集めても捨てたり鋳つぶしたりできなかった。
 そこで何かの機会をとらえて全国の大社に寄進したと。

 同じくネット検索で「駅鈴」を検索した時、伝馬の制度が壊れてしまって駅鈴が不要となったとき、国府近くの神社に駅鈴を奉納したとの例が確かあったと思います。

 まずは、「寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献された」ということこれ自身を史実なのか否かを確定してから出ないと、肥沼さんの疑問に答えることはできないように思います。
 もっとも隠岐国駅鈴・南宮大社駅鈴ともに九州王朝駅鈴という認識はまだ仮説に過ぎませんので、本当に近畿天皇家になってからの刻みのある駅鈴が存在しないのかどうか、ここを確認することがもう一つやっておくべきことでしょうね。
 この意味で、「日本駅鈴論」は読んでおく必要があると思います。駅鈴の写真があるようですから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 光格天皇が遷幸の行列にわざわざ隠岐国駅鈴を同道させたということも、これが神聖なものとの認識があったからではないか。
 だから前王朝のモノを集めても捨てたり鋳つぶしたりできなかった。
 そこで何かの機会をとらえて全国の大社に寄進したと。

私たちは「同じ材質なんだから,鋳つぶして自分たちの駅鈴に造り変えた」
なんて大胆にも考えたりしますが,
古代の人はそうは考えられなかったのでしょうね。
でも,鋳つぶさず奉納してくれたおかげで「九州王朝の駅鈴」が残されたとしたら,
それは歴史解明の上で大変ラッキーなことです。
ちょうどそれは,古事記が鎌倉時代に出てきてしまったために,日本書紀が相対化でき,
古田武彦氏によって『盗まれた神話』等が書かれるようになったように。
あとは,続日本紀にも出てくる「刻みのある駅鈴」の出現あるいは捜索ですね。

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