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2017年10月14日 (土)

藤原京以前に「大極殿」はなかった!

上記の話を古田武彦氏の講演会で聞いたことがあったが,
それと「朝賀」がようやく結びついてきた。
つまり,大和政権は701年以降でなければ主権者ではないので,
大極殿も持てないし,それを使った朝賀も行えなかった。
だから,論理的な道筋としては,平城京(710年完成)の大極殿以前は,
「なかった」ことになるのではないかということである。

逆にその時期,日本列島で大極殿(紫宸殿)を持ち,
朝賀を行える存在があったかと言えばあったのだ。
それは九州王朝で少なくとも太宰府では可能だった。
(副都の話は,私にはよく理解できていないので,ここではふれない)

ーーーーーーーーーーーーー701年ーー710年ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藤原京以前(大極殿なし)  ONライン  平城京(大極殿あり)・恭仁京(大極殿あり)・ 長岡京(大極殿あり) 

※ 太宰府(大極殿あり=紫宸殿)     

このように,大極殿の有無についても,ONラインの700年・701年を境に分けられると考える。
ONラインをとことん使って,古代史研究を進めるべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『古代に真実を求めて』(明石書店)第九集

藤原京はなかった(古田武彦氏の講演会より)

 最後のテーマをもうします。
 今年の三月、奈良県飛鳥の天武天皇の浄御原宮跡の現地説明会に、古田史学の会のみなさんと行きました。見て驚いた。遺跡が ”小さい" の一言につきる。せいぜい一地方豪族の館程度のレベル。しかもかんじん要の「大極殿」がない。ですが学者の一部が見なしているのが東南の「エビノコ郭かく」。しかし大部分の学者がそれには賛成しない。これも、そのとおりです。「大極殿」と言う以上は、中心か北部になければならない。東南の端では位置がメチャクチャ。他にないから、ここだよ。そう言ってみても、他の学者が認めるわけもない。そういう状況です。とにかく「大極殿」がない。
 「エビノコ」というのは、先ほどお話した問題と関係がある。淡路島で生まれたのは輝ける蛭子(ひるこ)。それは恵比須(えびす)と同じであるとされている。「エビス」の「エ」は、輝けるという意味。「ヒ」は太陽の「日」。「ス」は須磨、鳥栖と同じでして住まいの「ス」。「エビス」は「輝ける太陽の住まい」という意味です。先ほどそう言いました。ここの地名は「エビノコ」とあるが、字地名としては、「エビスノコ」です。「コ」は住まいという意味です。ここにおられる神が「エビスノコ」です。この字地名は、神武や天照大神より、ズッと古い。旧石器・縄文にさかのぼる神様の名前です。それが字地名で残っている。そこに建てられていた建物は、もちろん七世紀後半ぐらいの建物です。それを仕方がないので、字地名を取って「えびすのこ」。長すぎるので、これを縮めて「エビノコ」とし、そこにあった建物を「エビノコ郭」と称した。要するに「大極殿」はなかった。
 ところが同じ時期の九州太宰府。紫宸殿があり、内裏があり、朱雀門があった。どちらが同じ時代の都であり、政治の中心なのか。これは『日本書紀』の天武紀に並んでいる官職名や詔勅があるが、あれを出したのはどちらだ。「大極殿」の無いほうが出したのか、紫宸殿がないほうが出したのか。筋から言えば、紫宸殿のある方から、詔勅を出した。それを『日本書紀』の天武紀が取り込んだ。そう考えざるをえない。
 以前から、そうではないかと予想をしてはいたが、たとえば九州年号が連続しているのもその一つですが、もう一つ踏み込む勇気がなかった。現地説明会に訪れて、このような浄御原宮の状況を見て、詔勅を出せるような状況でありえない。
 さらに、現地見学会から帰ってから考えたが、それでは藤原宮はどうか。
 もう一回藤原宮を見直した。つまり浄御原宮が天武なら、次の藤原宮は持統・文武です。あの藤原宮も「大極殿」は本当にあるのか。それを見直した。
藤原宮には何回も行っていました。たとえば有名な持統の歌、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香久山」を検証するために、香久山に反射板を置いて藤原宮から見えるか観察した。(衣は見えない。この歌は大和の歌ではない。)「ゆうざれば・・・」の歌を観察するために、鹿の声が聞こえるか観察しに行ったりしておりました。何回も行きましたが、しかしそれはそれぞれの目的のために行っているので、大極殿があるかないか、考えたことはなかった。それで、今度は藤原宮に行ってみました。行ってみると、やはり無かった。たしかに看板には「大極殿」はあると書いてある。今まで、それを見て大極殿があると疑問をもたなかった。実際に「大極殿」があると言われる所に行ってみました。その場所は一メートル半ぐらい少し小高いところ、石垣に囲まれた神社です。その鴨公(かもきみ)神社があり、そしてその先に鴨公小学校があって子供が運動会の練習をしていた。だから鴨公(かもきみ)は字地名。ですからいろいろの史料を見まして結論から言いますと、鴨公(かもきみ)神社があったところを、学者が「大極殿」と見なした。学者見なし「大極殿」。
 これにわたしは、自分に呆れました。なぜなら、都城の研究の第一人者で亡くなられた岸俊男さん。わたしは大阪で続日本紀研究会があったとき御一緒に研究し議論した仲間。わたしより先輩ですが直木孝次郎さん・田中卓さんなど同席し、わたしは若手だった。そのとき三回に一度ぐらい来られ、実直な研究をされた方として印象が残っている。だから岸俊男さんの行われた都城の研究は間違いはない。そのように受け取っていた。今回京大に行って岸さんの研究された論文を全部コピーして家で読ませていただいた。そうしますとここは都だから、やはり鴨公神社を「大極殿」と見なしている。それはそうでしょう。ここが大極殿でなかったら、鴨公(かもきみ)神社を通り越せば、全体の構図は成り立たない。そして鴨公(かもきみ)神社を図の上で除いて、大極殿を配置して藤原宮の図を作成している。後の教育委員会や博物館の学芸員は、岸俊男さんのお弟子さんですから、それに従った。ですから現地に行けば必ずある藤原宮の看板や資料集が、それを元に出来あがっている。そのことが分かってがく然としました。また岸さんの研究書の中で、中国の都城から朝鮮半島の都城まで研究されたものがある。見ると驚いたのは、いままで何か変だなと思っていたが、新羅や百済の都はあるが、今回見ると太宰府はカット。太宰府があると筋が通らない。太宰府を載せると紫宸殿や内裏、朱雀門があれば説明が付かない。だからカットされている。「日出る処天子」のように、阿蘇山をカットすれば筋は通る。これは考えない人には、筋は通る。わたしもロボットだった。これは岸さんを侮辱するために言っているのではまったくない。
 要するに持統・文武は、中心の権力者ではなかった。そして七百二年に、唐の則天武后から日本国の中心の王者と認定された。それ以後、第一の権力者の実質をもった。
 その証拠に、平城京には「大極の柴」という伝承をもつ字地名があった。そこに大極殿があった。そして八世紀の後半、わたしが住んでいる向日市、そこの長岡京にも大極殿があった。土地の所有者の方に、どうして「大極殿」と言っているのか尋ねた。『わからない。俺のおやじもおじいさんも、そのように言っていた。』という返事だった。ゴボウの良くできる畑だった。発掘に当たられた中山修一さんが長岡京を発掘して、まさに「大極殿」と言われた所に、最後の中心部である大極殿の遺構があった。
 つまり大極殿は、「大極殿」と名前が残っている。八世紀の話であっても。ですが持統や文武はその直前ではないか。彼らにとっては「大極殿」という名前は、たいへん重みのある言葉です。ですが、その浄御原宮・藤原宮には「大極殿」という名前がなかった。名前もなかった。
 しかも鴨公(かもきみ)神社について言いますと、鴨氏の中心の神社である。「公」という感じは、当て字です。鴨氏は京都では下賀茂神社・上賀茂神社が中心である。古田史学の会代表をしておられる水野さんは、下賀茂神社の八咫の烏(やたのからす)のご子孫とお聞きしていた。また同じく以前の市民の古代会長でした中谷さんの奥さんも、やはり八咫の烏(やたのからす)のご子孫とお聞きしていた。
 それはよいのですが、それでは『日本書紀』神武紀との関連はおかしかった。八咫の烏は人間ですが、神武天皇を熊野に迎えに来たのはご存知の通りだ。しかし京都からでは、悪くはないがいくらなんでも遠すぎる。空間の位置関係が問題だった。ところが鴨公神社から一山越えれば南は吉野です。以前に鴨氏の古墳だと言われていた古墳がある葛城を入れても同じです。だから吉野は鴨氏の領域です。吉野を支配している鴨氏が、神武天皇を熊野に迎えに来た。逆に考えれば、外から神武に内通したと言ってもよいでしょう。それが天皇家の成功の淵源の元となった。ですから鴨氏に足を向けては寝てはおれない。
 ですから鴨公(かもきみ)神社の南に藤原宮を造った。わたしどもは、他から来た新参かもしれないが鴨氏をバックにしている。そういうピーアールを行なった。今は簡単に言いましたが、本当はもっと説明しなければことがたくさんありますが。
 とにかく言いたいことは、藤原宮に大極殿はなかった。同じ時期に太宰府に、内裏、内裏岡、紫宸殿、朱雀門があった。どちらが中心であったか、ハッキリしている。とにかく古代史というものは先入観なしに見なければならない。繰り返し言いますが、わたしは親天皇、反天皇から出発しているのではありません。どんなに天皇家が喜んでいただいても大歓迎。あるいはどんなに天皇家が残念がっても仕方がない。そのような立場です。

※ ウィキペディア「大極殿」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A5%B5%E6%AE%BF#.E9.A3.9B.E9.B3.A5.E6.B5.84.E5.BE.A1.E5.8E.9F.E5.AE.AE.E3.80.8C.E3.82.A8.E3.83.93.E3.83.8E.E3.82.B3.E5.A4.A7.E6.AE.BF.E3.80.8D

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コメント

藤原京以前に「大極殿」はなかった!

当然、飛鳥板蓋宮にも大極殿はなかった。
しかるに日本書紀によれば、乙巳の変で蘇我入鹿は「大極殿で討たれた」と書かれている。
九州王朝説の賛同者の方々の中には、この上記のテーマから

「乙巳の変は九州王朝の事件なのではないか?」

との考えを持ったことがある方も多いのではないかと思います。
実は私もその1人です。
でも…

蘇我入鹿が討たれた瞬間、九州王朝の歴史は

「多利思北孤の王朝は偽王朝」となり
「法興・聖徳年号は偽年号」となった

と、ここまで考えるに至った方はおられないでしょうか?
蘇我馬子が物部守屋を倒したことで実権を握り、後年、入鹿が簒奪に失敗した、ということであるなら、多利思北孤は馬子の傀儡だった、と考えざるを得ないのです。
そして、そう考えるなら。
①南朝一辺倒だった九州王朝がここで突如、北朝の隋と国交を持とうとした背景がこれで説明可能になります。
②二中歴に法興・聖徳年号が記されていない理由についても説明がつきます。
③入鹿が討たれて以後、王朝の外交方針も馬子以前に戻されたであろう事から、隋書に「此後遂絶」と書かれたことの理由も説明がつきます。

私はこの近年、上記のような妄想に取り憑かれております。
大極殿があるかないか。
それだけで歴史の解釈が大きく変わってしまう可能性がある問題だと思います。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。

なるほどなるほど,それは大変興味深いお考えだと思います。
しかし,私の手には余るので,ぜひご意見をいただきたく思います。

PS この頃「夢ブログ」に流行るもの,妄想・・・と噂されないように,
ぜひ仮説と言ってくださいネ。

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