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2017年10月 2日 (月)

「刻み」のある駅鈴と「刻み」のない隠岐の駅鈴

気になる「はじめて」記事の副産物。
以前から探していた「刻み」のある駅鈴の記事が,
『続日本紀』の720年に2カ所出ていたので書いておく。

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(1) 三月二十三日 按察使が京に向かう時や,所管の国を巡行する時は,
伝馬に乗ることと,食糧を支給することとする。
よって常陸国に十剋,遠江国に七剋の駅鈴を,伊豆・出雲の二国にも駅鈴をそれぞれ一つ宛を支給した。

(2) 五月二十三日 伊豆・駿河・伯耆の国に,三剋の 駅鈴を一個宛支給した。

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「刻み」の数が多いほど使える馬の頭数も多かったようだ。

ところで,例の隠岐の駅鈴にはこの「刻み」がないらしく,
偽物との疑いを掛けられているらしい。
多元的「駅鈴」研究にとっては,「刻み」のない方が九州王朝のもので,
ゆえに壺の中に隠し,「他言無用」だったと考える。
『続日本紀』のように「刻み」のある駅鈴は大和政権になってからのもの。   

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 ちょっと質問です。
 近畿天皇家の時代の駅鈴は、刻みの数で使える馬の数を指示していたようですが、九州王朝時代の駅鈴には刻みがなかったとして、どうやって使える馬の数を指示していたのでしょうか。木札を持たしたり紙に書いた命令書を持たしたのでしょうか。
 どう考えても、駅鈴に使える馬の数だけの刻みをいれた方が合理的です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

もちろん使える馬の数を書いた書類や札があったのではないでしょうか。
そして,それは偽造される可能性があった。
なので,大和政権はそれを防ぐために「刻み」を入れたのではないかと考えます。
それなら,非合理→合理的の流れにも合います。

『続日本紀』705年4月22日の記事に,
「大宰府に飛駅(早馬)のための鈴(使者のしるし)を八個と伝符(伝馬を使用できる証明書)十枚を与えた」とあり,
最初は駅鈴と証明書が使われていたということだと思います。
つまり,当初駅鈴には「刻み」はなかったと。
もしあったら,伝符とダブることになりますので。

 しかし704年の記事にある駅鈴に刻みがなかったとすると、大宝令と齟齬がでます。
 ここをどう考えるのか。
 一つの仮説は、この時期にはまだ九州王朝時代の駅制度のままだったという考え。つまりこの時与えられた駅鈴は刻みのない九州王朝時代のものだったと。
 こうした例を丁寧に掘り起こすと、駅鈴に実際に刻みが入れたものに交換した時期がわかりますね。

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