« “「無位」から貴族へ大出世”の謎(4) | トップページ | あいせだの★わがままレイディオ(最終回) »

2017年10月12日 (木)

「朝賀」もなかった!

文武天皇は大宝元年の正月に朝賀を大極殿で行った。
(ただし,文武天皇の朝賀は698年が初出である。
「その儀式は常の通りであった」と書かれているが,その実施は怪しい。
なぜなら,翌年の769年も,さらに700年も行われておらず,
大化・白雉・赤烏年号のように「飛び石的」だからである。)
その様子は「続日本紀」に詳しく報告され,誇らしげである。

三月三日には「曲水の宴」も催され,
三月二十一日には大宝元号の「建元」と順風満帆。
おめでたいこと続きとなる。
だが,そこで,「ちょっと待った!」である。

701年はONラインの画期の年で,
木簡によると評から郡への切り替えも行われた。
「朝賀」については,どうなのだろう?

それに気が付いたら,あとは,歴史をさかのぼって,正月1日の記事をめくっていけばいい。
ところが行けども行けども「朝賀」の記事が出てこないのだ。
確かに,正月だ,おめでたいと言って,豪族たちと宴は開いてるものの,
「朝賀」という言葉は・・・ない。
結局持統紀にも「朝賀」は出てこなかった。
これは,例の「〇〇はなかった」シリーズか!

と思って,ウィキペディア「朝賀」を検索した。
すると,孝徳天皇のところに似たようにことはあるが,
どうもあとが続かない。
こいつは,いよいよ怪しい。

ウィキペディア「朝賀」

さらに,「大極殿」というキーワードをプラスしてみると,
「新古代学の扉」のサイト内検索で,斎藤里喜代さんの論文に出会えた。

斎藤里喜代さん「中大兄はなぜ入鹿を殺したか」(大極殿はなかった)

私の仮説・・・文武天皇の初朝賀まで,
大和政権は「大極殿での朝賀」を行えなかったのではないか。
それが701年に至り,やっと実現した。いかがでしょう。
(先日の「はじめて」記事も,「大和政権にとって初めて」ということになりますね)

ーーーーーーーーーーー701年-----------
                
 (九州王朝の年号)    大宝(初めて大和政権が年号の建元)~
 (九州王朝の律令)    大宝律令~
 (九州王朝の評制度)   郡~
 (朝賀できず)        朝賀~
 (曲水の宴開けず)     曲水の宴~
 (九州王朝の冠位)     位記~
 (九州王朝時代の国印)  新しい国印の頒付~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS ・・・ということは,大極殿で行われたクーデター事件(大化の改新)も,
その大極殿の所有者=九州王朝内の事件ということになるのかな?

« “「無位」から貴族へ大出世”の謎(4) | トップページ | あいせだの★わがままレイディオ(最終回) »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ
シリーズ「無かった!」、快調ですね。

「乙巳の変」九州王朝内説、ということになると、
西村さまの「十二門説」と合わせると、
藤原京=九州王朝の造営ということになる?
でも列島王者天子の宮殿は北闕型だから・・・
天子でない者の宮殿が藤原宮なのかな。
すみません、妄想です。

肥さんへ

斎藤里喜代さまの考察は雄大で驚かされます。
カメレオンとカメいぬ
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou41/kaihou41.html

なお、斎藤里喜代さまの
入鹿殺しの乙巳の変は動かせない
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho103/kai10305.html
に対して、西村秀己さまの反論が載っていました。

乙巳の変は動かせる
斎藤里喜代さんにお応えする
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho104/kai10402.html

書紀を検索すると、賀正礼なら出てきますね。元日礼ともある。リストを貼り付けます。
●大化二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。
●大化四年春正月壬午朔、賀正焉。是夕、天皇、幸于難波碕宮。
●大化五年春正月丙午朔、賀正焉。二月、制冠十九階。
●白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮、觀賀正禮味經、此云阿膩賦

。是日、車駕還宮。
〇白雉三年春正月己未朔、元日禮訖、車駕幸大郡宮。

●天智十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進

於殿前、奏賀正事。

 この賀正礼または元日礼は朝賀と同じことだと思います。
 大化から白雉の記事は九州王朝史書からの盗用ですので、九州王朝ではこのころ(書紀の孝徳と同時代に)こうした礼が行われていたことは確かです。
 天智10年の記事は確実に近畿天皇家のことですが、これは賀正礼を行ったということではなく、賀正礼が行われたことを報告したと読むべきでしょうか。わたしは天智の時期に近江京に九州王朝天子が迎え入れられたと考えているので、九州王朝の近江京で賀正礼が行われ、このことが報告されたと理解します。

 朝賀の儀式を近畿天皇家が主催できるようになったのは、まさしく大宝元年以後だと思います。これは確実です。そして近畿天皇家のための都に大極殿が置かれたのもまた、これ以後です。
 天智の近江京や天武の難波宮や天武・持統の藤原宮は九州王朝天子を迎え入れるための宮なので、九州王朝のためのもの。だからここには大極殿はあっても、近畿天皇家のものではありません。
 近畿天皇家のための都で大極殿が設けられたのは平城京が最初。
 だから近畿天皇家の大極殿での朝賀の儀式は、平城遷都以後恒例となっているのではないでしょうか。
 ぜひ続日本紀記事で確かめてください。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

基本的には,ONライン(古田氏の造語で,新旧の画期)の例の一つだと思います。
探せば,まだその例は他にもあると思うので,この「シリーズ」をお楽しみに!

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「「朝賀」もなかった!」(2)ということで,
701年以降の記事を追ってみました。
ご覧いただけたら幸いです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« “「無位」から貴族へ大出世”の謎(4) | トップページ | あいせだの★わがままレイディオ(最終回) »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ