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2017年9月17日 (日)

古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?(改訂版)

本日は,台風18号の接近で外に出られないことを予想して,
『古代に真実を求めて』への投稿文を作ることにした。
とはいっても,研究論文とはいかずフォーラム(エッセイ等)に分類されると思うが,
5年前に「古田史学会報」に掲載されたものを,いろいろな方のご指摘をいただき,
改定したものである。これを読んで,お気づきになったことがあったら,
コメントしていただければ幸いです。
明日は,「古代道と駅鈴」について書いてみたいと思います。

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古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?(改定版)

                  当時・所沢市(現在は東村山市在住) 肥沼

はじめに
 
私が参加している「たのしい授業ML」の横山稔さんの情報から
NHK・BS2で2年前に放送された
「古代日本のハイウェー~1300年前の“列島改造”」
という番組を観ることができた。(2009年放送。2012年再放送)
良さそうな番組だったので,BSを受信できない環境の私は,
念には念を入れ3人の方に録画をお願いした。
番組はよく取材されていて,なかなか興味深いものだった。
そして,この古代日本ハイウェーの建設を命じたのが,
天智天皇か天武天皇かといったくだりで,
私はまず最初のひらめきが来たのだった。

太宰府と吉野ヶ里をつなぐ高速道路 

というのも,かつて古田武彦氏を案内役に北部九州を旅行した際,
太宰府と吉野ヶ里は高速道路で結ばれていて,
軍隊を素早く大量に移動することができたと聞いていたからだった。
それを思い出した私は,番組の「誰が作ったかは不明だが,
このような6300キロにわたる長いハイウェーを作るということは,
何か緊急性のある事情があったのでは・・・」というヒントをもとに,
「これは九州王朝が建設した古代日本ハイウェーではないか」
という仮説がむくむくと膨れ上がってきたのだった。
 
古代ハイウェーは廃棄された~吉野ヶ里遺跡の建設と廃棄 

続いて番組を観ていると,「その古代日本ハイウェーは
100年後には廃棄された」という情報が入った。
ここで私の体の「アドレナリン」は最大限となった。
かつて栄えた遺跡が数百年後に廃棄された例を,
私は他に知っていたからだった。その名は,吉野ヶ里遺跡!
これも古田武彦氏から学んだテーマだが,
卑弥呼は「親魏倭王」という金印をもらったというが,
これはある意味「反呉倭王」だというのだ。
三国志の時代,内陸部の蜀が襲来する心配はないが,
中国南部の呉とは海を隔ててひとつながりという状況。
すなわち,有明海からの侵入に備えるために,
吉野ヶ里遺跡は作られたのだった。
幸いその後呉は滅んで,平和が訪れた。
しかし,かつて建設した軍事施設は,平和の時代には逆に不要なものだ。
いや,魏に仕える倭国としては,魏にあらぬ疑いをかけられ,
「おとりつぶし」ということにもなりかねない。
だから,「軍事施設としての吉野ヶ里は廃棄されたのだ」と。

白村江の戦いと唐の占領軍の来日 

それは,数百年後再び現実となった。
7世紀後半の白村江の戦いの敗北とその後の唐の占領である。
唐の司令官の立場に立って考えてみてほしい。
せっかく戦争に勝って倭国に来てみたら,太宰府の前に水城はあるし,
山上には神籠石の籠城用施設はあるし,全国に張り巡らされた
6300キロにも及ぶ軍事用の古代日本ハイウェーがあった。
さて,あなたならどうするだろうか。
そのままにしておくだろうか。
私なら,「これは何事だ。まだ我が唐に逆らう気か。
一日もはやく取り壊せ」と廃棄を命じるだろう。
でなければ,また倭国は息を吹き返し,戦いを挑んでくるだろうから・・・。
そして,まず東の天子の「象徴」としての石人・石馬の破壊。
同時に武装解除としての神籠石遺跡の撤去が行われたのではなかったか。
石人・石馬や紙籠石遺跡の破壊ぶりを見るに付け,戦後第一の仕事はこれだったと思われる。
だが,6300キロにも及ぶ古代日本ハイウェーについては手は付けられなかった。
あまりにも労力の必要な水城や道路は,短期間の作業では終わらないからであろう。
7世紀の第3四半期(651~675年)に建設したと考えられる東山道武蔵路も,
8世紀半ば(750年)には使われなくなったり,
古代日本ハイウェーは,道幅も縮小(※1)されたり,ルート変更(※2)されたりして,
歴史の闇に葬り去れたようである。
中央の命令を伝えたり,税を納めるための直線道路は,
庶民の生活道路としては「不便な道」だったのかもしれない。

現代の高速道路と古代日本ハイウェー 

ところで,現代高速道路は,総延長が6500キロだそうである。
これと古代日本ハイウェーの6300キロは,まことに「瓜二つ」の数字だ。
いや,似ているのは,長さだけではない。
土を段階的につき固めていく版築工法や土の下に落ち葉や木の枝をしいて
土の重みで道路が崩れないようにする方法
(現在は敷網工法という似たやり方をとっている)など,
高い建設技術の結晶が古代日本ハイウェーなのであった。
(同様の方法は,太宰府を守る水城でもすでに使われていたようだから,
きっと九州王朝の持っていた技術だったのだろう)

研究前史1~狭山市に食い込んだ奇妙な土地の話 

社会科教員として「身近な地域」の単元で活躍してくれる所沢市の地図。
かつて「地図さがしっこ」などを楽しんだ2万5000分のその地図には,
実に不思議な地形が載っていた。
数10m×1キロ近く,所沢市が狭山市に食い込んでいるのだった。
自宅に近いこともあって,自転車で訪問したところ,
そこはフラワーヒルと呼ばれる昔の高級住宅街があった。
うわさに聞いていた高級住宅街を「発見」した私は,
その時それで満足してしまい,それ以上に追求しなかった。
「なぜフラワーヒルが,南北に一列で並んで建てられているのか」
という疑問が当然湧いていいはずだったのに・・・。
そしてそれは,木本雅康著『古代官道の歴史地理』(同成社・古代史選書9)によると,
九州王朝が作った「東山道武蔵路」の一部だったのだった。

研究前史その2~灯台もと暗しの「東山道武蔵路」の授業 

上に書いたように,わが所沢市には「東山道武蔵路」という
古代日本ハイウェーが通っていた。
今のように東海道から入ってくるルートではなく,
東山道の群馬方面から南下してくる道である。
その東山道武蔵路について,私はかつて同じ所沢市内の
玉田厚先生の授業プランで授業したことがある。
道幅12mの古代の道路が30年近く前(1989年)に,
所沢市内の南陵中学校の校庭から発掘されていて,
当時だいぶ話題を呼んだのを知っていたからだ。
その授業はなかなか楽しいものだったが,
「どうせ大和政権が奈良時代に作った道だ」と思い,
自分の研究している古田武彦氏の九州王朝説と結びつけられなかったのが,
返す返すも残念であった。

東の上遺跡(埼玉県所沢市)

http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/t-mimage_Folder/s-saitama_Folder/azumanoue1.jpg

30年近く前から参加した古田武彦氏の九州王朝説の研究 

ところで,私は30年近く前に『吉野ヶ里の秘密』という本で古田氏に再会した。
(高校生の時『「邪馬台国」はなかった』にチャレンジしたが,
あえなく「討ち死に」していらいの再会である)
『吉野ヶ里の秘密』以降は,まさにその遅れを取り戻すかのような渉猟ぶりで,
本屋に表彰してもらいたいぐらい著書を読み,講演会に出席し,
旅行の企画に参加した。
飽きっぽい私にしては,仮説実験授業(今年度実践36年を迎えた)につぐ
長い取り組みである。

「古代日本ハイウェーの建設と廃棄」の仮説 

ということで,私の古代官道についての仮説は,以下のようなものである。

(1) 唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である
   「古代日本ハイウェー」の建設を命じた。(7世紀半ば)
(2) 662年か663年,白村江の戦いで倭国(九州王朝)が大敗北。
(3) 九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。
 そして,律令制の衰えによって,地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)(※3)

おわりに

こうして,古代日本ハイウェーは地下に埋もれて,今日に至ることになった。
昨今古代道が各地で発掘され,注目されるなかで,
誰が建設し誰が廃棄させたのか,謎のまま「こういう大事業を行えるのは
大和政権のみ」のような流れになることを心配し,
また一方こちらの方が大切だが,
九州王朝説の大事な試金石としてこの古代日本ハイウェーに挑戦してみた。
みなさんの叱咤をお待ちしている。

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※1 道幅は8世紀が9~12mだったものが,9世紀には6m程度に狭まる傾向があると
木本雅康著『古代官道の歴史地理』(同成社・古代史選書9)にある。

※2 コース変更の例として,「続日本紀」718年5月7日の南海道の付け替えの場合や
「続日本紀」771年10月27日の東山道→東海道への所属替えの記事がある。
南海道の場合については,「古田史学会報」136号(2016年10月)の
西村秀己氏の「南海道の付け替え」で貴重な発見を知った。
これまでは,土佐の国へ使いを出そうと思っても,瀬戸内側を通り伊予経由でなければだめだった。
ところが,これ以降は阿波を通ればすぐ土佐だからだ。(九州王朝の役所が伊予にあった?)
これで,333キロの旅程が半分以下の148キロになったという。土佐日記の帰路もこれだった!
また,東海道への所属替えは,上記の『古代官道の歴史地理』で知った。
「誰が作ったのか書いていないのに,付け替えや所属替えをする」などという「主語不明」の場合,
もしかしたら九州王朝やその天子がやった事業かもしれないと疑う習慣がついた。

さらに,西村さんより「崇峻天皇の国見」問題を教えていただいた。ありがとうございます。
「日本書紀」に,興味深い記事があるそうだ。
崇峻天皇が国見のために,三道に使者を派遣したというのだ。
(太宰府を拠点とした北陸道,東海道,東山道のみ記述)
つまり,太宰府が中心だから,山陽道・山陰道などが登場する必要がないのだ。

                  ー→ 北陸道(越などの諸国の国の視察)
                /
九州王朝(太宰府) → ー 東山道(蝦夷の国の境の視察)
                \
                  -→ 東海道(東の方の海の浜にある諸国の境の視察)

この話の構成から見ても,九州王朝の視点で書かれているといっていいと思う。
やはり古代日本ハイウェーを作ったのは九州王朝であると考えられる。

また,これらの道が軍用道路といっていいと多元的「国分寺」研究サークルで共同研究して
下さっている山田春廣さんからアドバイスいただいた。
そういえば,古代官道の管轄は兵部省でした。

「肥沼さんの「古代官道は九州王朝の軍用道路である」との仮説に従って
『日本書紀』を探してしたところ、例証に近いと思われることを天武紀(壬申の乱)で見つけました。
「東山軍」、「東海軍」が出てきます。東山道と東海道の方面軍だと思われます。
次の表題でブログに載せておきました。発表するほどのことではないので、
興味を持たれたらのぞいてみてください。
「○○道」はやはり軍管区であった
― 天武紀の証言 ―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/05/post-72f3.html」

※3 これも多元的「国分寺」研究サークルで共同研究して下さっている川瀬健一さんより,
仮説(3)の問題点を指摘していただき,このように直してみた。感謝いたします。

※ 東山道武蔵道の東の上遺跡からは,7世紀第3~第4四半世紀の須恵器が出土している。
 この時期以前に,この道が作られていたことを証明するものだと思う。(川瀬さんからのご教示で
 思い出した。ありがとうございます)

※ さらに川瀬健一さんより,欽明紀・皇極紀・孝徳紀に出てくる駅馬も,古代日本ハイウェ―や
 駅鈴と関係が深い旨,アドバイスいただいた。この時期の記事が「日本紀」からの盗用とすれば,
 九州王朝内の事件であり,その交通に古代日本ハイウェーが利用された。当然当時の首都である
 北部九州(大宰府等)は早くから交通網も発達していたと思われる。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥様

1300年前に建設されていると言う仮定が正しければ、古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路だっただろうと思います。

仮に、大和政権がこれだけの道路建設をしているなら、日本書紀や続日本紀にその旨の記載がない理由が説明できません。
九州王朝の建設であり、且つ、大和王朝の業績として換骨奪胎する事が唐に対して憚られた。出来なかった。業績そのものを無視するしかなかった。と、思います。

天智天皇が、白村江の敗戦後に、唐への防御として建設したと言う説があるようですが、態々、敵国の大軍が進軍しやすいような道路建設をする事はありえないと思います。

ただ1点疑問点があります。

①>唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である「古代日本ハイウェー」の建設を命じた。(7世紀半ば)
「7世紀半ば」に建設を命じたのでしょうか?
この頃は、神籠石遺跡や水城等の建設を行っていた時代だと思います。一大国家プロジェクトです。6300kmのハイウェイも間違いなく一大国家プロジェクトです。この両者を同時に行えば、国内の体力を相当疲弊させるだけなのは、誰の目にも明らかではないと思います。
また、7世紀半ばに命じた6300㎞ハイウェイの建設が、白村江の敗戦前に出来上がっているとは考え難いのではないでしょうか?それも、全て手作業です。

ここまでしっかりした道路ではなくても、下地があったとは考えられないでしょうか?例えば、難波宮。副都を難波に置いた前後、博多と難波に直通のホットラインを作っていた。それを下地に山陽道は整備されたとは考えられないでしょうか?
良いアイデアが出てこないのですが、その他の街道にもある程度の下地があり、それを再利用・再整備・拡大整備したと考える方が自然ではないかと思います。

この点は、下層部や上層部の科学的解析から、建設年代を特定する他ないと思いますが。

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

確かに何もないところにいきなり「幅12mの直線道路」を全国に作ったとは考えられず,
特に北部九州や九州王朝の版図と思われる播磨あたりまでは山陽道などが整備されていたと思われます。
ただし,そういうところばかりでなく,私の地元の東山道武蔵道などは,当時人家もあまりなく,
4車線ほどもある幅広い道路が「無人の荒野」を走っていたようなところもあります。
道路と周囲を区別する側溝が印象的です。↓こんな感じです。

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 (12m幅=4車線ほどもある道路・・・JR西国分寺駅の近くで300mほどにわたり再現してあります

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なお,水城や神籠石遺跡は,大陸や半島勢力の侵攻に備えて,かなり古くから作られていたと考えられます。
内倉武久著『太宰府は九州王朝の首都だった』(ミネルヴァ書房)によると,水城は5~6世紀頃から築造が始まっているそうです。(観世音寺に保管されていた水城の木樋は,430年±30年の測定結果です)
また,古賀達也さんが,「古賀達也の洛中洛外日記」(第262話 2010/05/08)に「大野城築城の時期」ということで,こんな話を書かれています。
 「第260話などで紹介しました赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について-朝倉橘廣庭宮の記憶-」ですが、さすがに現地の専門家らしく、参考にすべき知見が数多く含まれた示唆的な論文でした。・・・大野城の築城時期についても、出土した「孚石部」刻銘木柱が年輪年代測定から最外層が648年であり、伐採年もその付近と考えられ、従って大野城築城時期も『日本書紀』記事の664年(天智4年)よりも溯ることを考慮すべきとされています」と書いていました。

大雑把に言うと,水城は100年以上前から取り組まれていて,それを補強した。
大野城(食料倉庫がある籠城用?)や古代日本ハイウェーの拡張・新造が10数年前からということになるでしょうか。

肥様

返信ありがとうございます。
内倉武久さんや古賀達也さんの調査を忘れてコメントしてしまいました。

>大雑把に言うと,水城は100年以上前から取り組まれていて,それを補強した。
>大野城(食料倉庫がある籠城用?)や古代日本ハイウェーの拡張・新造が10数年前からということになるでしょうか。

なるほど。
個人的には、神籠石遺跡や水城、古代ハイウェイ共に100年以上前から取り組まれていて,拡張・新造が10数年前から行われたのではないかと思います。

>私の地元の東山道武蔵道などは,当時人家もあまりなく,4車線ほどもある幅広い道路が「無人の荒野」を走っていたようなところもあります。

ここが不思議な点だと思います。
西海道や山陽道、山陰道の様に明らかに博多(大宰府)を終着点としている街道と、東海道や北陸道他の様に直接博多(大宰府)を終着点としている街道とは思われない街道では、時代や目的が違うように思うのです。
特に、東北方面なら、ハイウェイを整備するより、海路の充実を図る方が効率的と思われるのですが、如何でしょうか?

肥様がお住いの武蔵野の国の古代ハイウェイと西海道や山陽道の古代ハイウェイが同じ時代・目的だとするよりは、時代と目的が違うと考える方がリーズナブルと思うのです。

基本的には、「古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路」だと思いますが、軍用道路の目的は、時代と場所によって違うかも知れないと思うのですが、如何でしょうか?

通りすがりの素人さんへ
コメントありがとうございます。

ご質問の「時代と場所」の違いも大切ですが,直進性や道幅の統一から考えて,
同じ権力主体の事業と考えているわけです。
また,「海路」にも興味はありますが,
証拠がありませんので,とりあえず陸路で研究します。
もちろん北部九州(西海道)が中心で,続いて山陽道という順で,
地方には薄くということだと思います。
特に,博多湾ー太宰府間は何本も通っていて,
「1つを塞がれても,また別の道を利用できる」というしくみになっているようです。

私としては,細かなことはともかく「建設主体が九州王朝である」ということ=
大和政権が作ったものではないということが認知されることにより,
九州王朝説を強化できると思っていています。
それが6300キロという圧倒的な長さ(+広い道幅・直進性)の古代官道の魅力なので。

なにより「自分たちが作った」と大和政権は主張できない。
これは国分寺も同じで,聖武天皇は「七重塔を作れば,金泥のお経を与える」=
金堂や回廊や講堂を作れとは書いていないのを,
勝手に学者たちは「741年の聖武天皇の詔」を「国分寺建立の詔」と決めつけているわけです。
これも母体となる九州王朝の国府寺に,七重塔を付け加えようとしたものと私は考えており,
多元的「国分寺」研究の主要テーマとなっています。

肥沼さんへ・駅馬の情報です。
 ●駅馬の書紀における出現例

1)書紀欽明紀の卅二年
  夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。

 欽明天皇が危篤になったが、皇太子が不在であったので、駅馬を走らせて召し返したとの記事。
 しかし戻った皇太子に天皇が述べたことは「新羅を打倒して任那を立てよ」。この記事は近畿の王欽明の死の話ではなく、九州王朝の天皇の死の話だ。
 このときすでに都を中心に官道ができており、駅が置かれそこには駅馬が置かれていたということ。当然それを使用するための駅鈴もあったはず。
 欽明32年は571年に比定されている。

2)書紀皇極紀元年春正月
 乙酉、百濟使人大仁阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛馬來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。

 百済に遣わしていた大仁阿曇連比羅夫が1月29日、筑紫の国から駅馬に乗って来て言上した。「百済国は天皇が崩御されたことを聞いて、弔使を派遣し、私は弔使に従って共に筑紫に至りましたが、私は陛下の葬儀に出たいと望み、一人先に戻りました。しかし百済国の者に聞くと、今大乱が起きていると言います」と。

 書紀はまるで百済が舒明の死を聞いて弔使を送り、百済への使いであった大仁阿曇連比羅夫がともに筑紫まで戻ったが、舒明の葬儀に列したいと思った大仁阿曇連比羅夫は先に駅馬で都に戻り、そして百済で大乱が起きたと報告したかのように記述している。
 しかし舒明の死は前年の10月9日。三カ月も経っている。
 そして書紀に依れば舒明の喪葬の最初の礼が行われたのは皇極元年の12月13日であり、21日に遺骸を葬っている。
 この書紀皇極紀の元年の記事でいう天皇の死は、記事が百済国の内紛などと密接に関係していることから、近畿の王舒明ではなく、九州王朝の天皇の事だと思われる。
 この時百済の弔問使と百済への使臣が付いたのは筑紫。ここから駅馬で大仁阿曇連比羅夫は一人都に戻った。
 外国使臣が付く場所は筑紫の難波である。そこから都まですでに官道ができており駅もあった駅馬も駅鈴も備えられていた。外国使臣が筑紫についたと言っていることから、九州王朝の都は筑紫のそれも難波から離れた所にあったと思われます。
 それはどこだろうか。
 筑紫のずっと山間部。後の筑前と筑後の境にある太宰府なのか。それともさらに奥地なのか。ここは不明だが。
 皇極元年は642年に比定されている。

3)孝徳紀の大化二年の改新の詔。ここに駅と駅馬・伝馬・駅鈴が出てくる。

 書紀欽明紀に依拠すれば、すでに571年には駅馬の制が定められています。ということはすでに都を中心に官道が設けられ駅が置かれていたということ。
 ここを起点に考えてみると、大化二年の詔の実年代が常色三年だとしても、これはすでに一部で設けられていた官道と駅・駅馬・伝馬・駅鈴の制度を全国化するという意味だととれますね。

●原稿への意見
 よくできているとは思います。
 ただ古代官道の発掘結果から、この官道の建設年代が推定されていると思います。その例を探せないでしょうか。東山道武蔵路についてはたしか、おそくとも七世紀の第四四半期との結果だったと思いますが。もっと早い例が他の地域にはないのでしょうか。
 書紀の記事と考古学的発掘成果があれば、古代官道は九州王朝が作ったとの仮説は証明できると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

出土物として~東の上遺跡の側溝から7世紀第三~第四四半世紀の須恵器が出ています。(忘れていました。)

駅馬について~駅馬には当然駅鈴が必要と思われるので,付け加えておきたいですね。欽明紀などの九州王朝内の話で,場所も博多湾ー太宰府間(何本も古代官道があるので)のことのように思えます。

いろいろありがとうございます。

駅についての情報です。

●駅の書紀における出現例(駅馬を除く)

1)神功紀
 五十年春二月、荒田別等還之。夏五月、千熊長彥・久氐等、至自百濟。於是皇太后、歡之問久氐曰「海西諸韓、既賜汝國。今何事以頻復來也。」久氐等奏曰「天朝鴻澤、遠及弊邑。吾王歡喜踊躍、不任于心、故因還使、以致至誠。雖逮萬世、何年非朝。」皇太后勅云「善哉汝言、是朕懷也。」増賜多沙城、爲往還路驛。

 新羅を討って百済・任那を確立した後の出来事。百済に派遣した二将軍が帰国したのでそのわけを問うと、「天朝の威光は遠く我が国まで及び、百済王はこのことを歓喜して、使節を返すことでその誠を示そうとしました。云々と」。そこで皇太后はその百済王の言と返された使節の言を喜び、「我が気持ちだ」として多沙城を賜り、往還の駅とした。
 これは神功皇后の事績となっているが、同じ時期の九州王朝の王の事績であろう。古田さんは神功皇后の事績に付けられたということは、この王は女王だったのではないかとしている。
 この時期にすでに百済・任那から倭国までの官道があり、駅の制度が設けられていたことを示している。神功皇后には卑弥呼と一與の事績が同じく付せられていることから、三世紀の中ごろから末の人物と思われる。
 この時期既に官道と駅の制度が、少なくとも朝鮮半島にはあったということだ。

2)崇峻紀
 五年十一月丁未、遣驛使於筑紫將軍所曰「依於內亂、莫怠外事。」

 筑紫の将軍所に駅使を遣わして曰く「国内の乱れによって外事を怠ることなかれ」と。 この国内の乱れとは何かがよくわからないが、崇峻即位の直前に、いわゆる蘇我物部戦争があった。その原因は仏教を受け入れるか受け入れないかのように書かれているが、ここは九州王朝の外交路線に従うか従わないかの問題と思われる。時は、中国における隋王朝による中国統一の前後であるから。
 崇峻元年=588年 隋による南方陳の討滅=589年(開皇9年)。高句麗と百済はすでにこの8年前の隋朝成立にすぐさま応じて遣使しているが、九州王朝は静観。隋に遣使したのは開皇20年。しかも対等外交を主張。
 これに応じるか応じないかの内乱、近畿天皇家を二分する内乱だったのでは。蘇我氏はその出自から見ても九州王朝が派遣した豪族。物部氏は神武以後近畿天皇家に従ってきた豪族。
 この近畿天皇家内の内乱に伴って、物部氏の資人、捕鳥部萬を巡る戦乱があったと書紀は記す。場所は物部守屋の宅があった難波付近と。
 書紀はこの難波を近畿の難波であるかのように記すが、この捕鳥部萬を討ったのが、「朝廷」の命を受けた「河内国司」とある。当然これは九州王朝。そして九州にも河内はある。現在原発で問題になっている薩摩川内。書紀宣化紀に那の津の官家に諸国の屯倉の籾種を集めさせた勅令が出ているが、その中に「阿蘇臣」に命じた地域として「河内国茨田郡」の屯倉がある。九州の阿蘇地方の豪族がわざわざ近畿の河内の屯倉のもみを運び出しにくるわけもなく、この河内国とは阿蘇の近くだと考えられる。したがって薩摩川内はその候補地。
 物部氏の資人、捕鳥部萬を巡る戦いとは九州王朝の中枢である那の津の難波と南部九州をも含む広域での戦闘だったのではないかと考えられます。だから戦闘が終わった後で物部氏の資人、捕鳥部萬の遺体は「斬之八段、散梟八國。」された。この八国と私は当時の九州王朝の畿内八か国だと考えています。九州島と瀬戸内。
 河内国と国司と言っても、この国はまだ後の郡程度の広さであり、国司と言っても後の郡司程度の権限だったと考えます。
 したがってこの崇峻紀五年の記事は、近畿天皇家の内紛に伴う九州王朝畿内における戦闘を踏まえて、九州王朝天皇が、筑紫にある将軍所に駅の役人を遣わして、「内乱があったが、外事(朝鮮半島のこと)は怠るな」と命じたものと考えます。
 この時も九州王朝の都と筑紫(おそらく那の津)の間には官道が設けられていたことを示す記事です(これより前の欽明紀にもありますが)

3)推古紀10年から11年の記事
 十年春二月己酉朔、來目皇子、爲擊新羅將軍、授諸神部及國造伴造等幷軍衆二萬五千人。夏四月戊申朔、將軍來目皇子到于筑紫、乃進屯嶋郡而聚船舶運軍粮。六月丁未朔己酉、大伴連囓・坂本臣糖手共至自百濟、是時、來目皇子臥病以不果征討。

十一年春二月癸酉朔丙子、來目皇子薨於筑紫。仍驛使以奏上、爰天皇聞之大驚、則召皇太子・蘇我大臣、謂之曰「征新羅大將軍來目皇子薨之。其臨大事而不遂矣、甚悲乎。」仍殯于周芳娑婆。乃遣土師連猪手令掌殯事、故猪手連之孫曰娑婆連、其是之緣也。後葬於河內埴生山岡上。

夏四月壬申朔、更以來目皇子之兄當麻皇子、爲征新羅將軍。秋七月辛丑朔癸卯、當麻皇子、自難波發船。丙午、當麻皇子到播磨。時、從妻、舍人姬王薨於赤石、仍葬于赤石檜笠岡上。乃當麻皇子返之、遂不征討。

 新羅征討のための2万5千の軍を率いて筑紫に赴いた來目皇子が、そこで病に罹って薨去(推古11年春二月・603年)。この知らせが直ちに駅の役人をもて奏上されたと。
 この新羅征討の事件は近畿か九州かと悩むが、來目皇子の兄の當麻皇子が代わりに征新羅將軍となって筑紫に向かった行路に「自難波發船。丙午、當麻皇子到播磨。時、從妻、舍人姬王薨於赤石」とあって、このため當麻皇子が戻ったために新羅征討は中止されたとあります。
 この航路が、難波⇒播磨⇒筑紫の予定であったことを考えると、近畿天皇家の事績と考えられ、九州王朝が新羅征討を行う際に、近畿天皇家にも出兵が命じられたものと思われます。
 その征新羅将軍の來目皇子が筑紫で薨去したとき、この情報が飛鳥まで駅使をもってもたらされたということは、この七世紀初頭にすでに筑紫から飛鳥まで官道が設けられ、駅が置かれたことを示しています。


4)書紀斉明紀 斉明四年

 十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善己而欣然報答之曰、吾年始可用兵時矣。甲申、有間皇子向赤兄家登樓而謀、夾膝自斷。於是、知相之不祥、倶盟而止、皇子歸而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁、圍有間皇子於市經家。便遣驛使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子與守君大石・坂合部連藥・鹽屋連鯯魚、送紀温湯。舍人新田部米麻呂、從焉。於是、皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天與赤兄知、吾全不解。

庚寅、遣丹比小澤連國襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚、臨誅言、願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國、坂合部藥於尾張國。

 いわゆる有間皇子の反乱の事件。
 斉明が10月に紀国の温湯に行っている間、飛鳥の宮の留守官の蘇我赤兄が孝徳の息子有間に謀反をそそのかしたという事件。これが露見してすぐさま官軍が有間の家を囲み、この情報はすぐさま紀国の温湯にいる斉明まで駅使を持って知らされたとの記事。
 斉明四年=658年。飛鳥と紀国との間にも官道はあり、駅の制度が設けられていたことを示す記事だ。

 以上、官道と駅の制度の淵源と、その広がりを示す記事だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

かなり早い時期に官道と駅が整備されていたことが,
「日本書紀」の中には書かれているのですか!
とても今回の「古代日本ハイウェー」では負いきれないかもしれませんね。
これらの可能性を示唆して,続編でということにはできないでしょうか?

肥沼さんへ

 せっかく書紀孝徳紀の大化二年の改新の詔に、駅と駅馬と駅鈴が定められていることを記して、やはり古代官道は九州王朝が作ったものだとしたのですから、最後に日本書紀を精査してみると、さらに古い時代から官道と駅があったことを示す記事があることを提示して、これらを精査すると、古代官道の紀元はさらに古くなる可能性があると結んで置いたらどうでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

では,こんな風にしたらどうでしょうか。
「川瀬健一さんが日本書紀を精査されたところによると,
さらにもっと古い時代から古代官道の起源を見出すことができるそうである。
(川瀬さんの挙げられた神功紀の駅等と例を挙げる)
これらを九州王朝の史書からの盗用とすれば,北部九州および九州王朝の版図では,
さらに古い時代から「古代官道」=古代日本ハイウェーの痕跡が見出せるものと考える。」
といった結びでいかがでしょうか。

肥沼さんへ

 それで良いと思います。
 神功紀・欽明紀・崇峻紀・推古紀を挙げておくと良いと思います。これらはすべて書紀孝徳紀の大化二年の改新詔以前の、駅・駅馬に関する史料ですから。

 ただこう書くと、古代官道は九州王朝が唐との決戦に備えて作ったという肥沼仮説が崩れることはわかっておられますか。大化二年の詔だけならこう結論づけることもできますが、それ以前100年ほど前からあるのですから。
 これらの書紀記事を史料としてつかうと、大化二年の詔は、古代官道の全国化だったと位置づけられます。
 つまりこれまでは九州王朝の版図だけであったのを、全国統一国家を作って唐と対抗するために、全国の国府を都と結んだ官道を建設したと。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

そうなってしまいますかねえ。
まあ,真実がそうなら仕方がないのですが・・・。
一応まだ「九州王朝の史書からの盗用だとすれば」として,土俵際で踏ん張っているので,
仮説としてはまだ許されるのかと思うのですが。
そうなると題名を変えなくてはいけませんから。

まだ,世の中的には,九州王朝が作ったものということは認知されていないわけで,
インパクトを考えると「古代日本ハイウェーは,九州王朝がその版図で作り始め,
白村江の戦いを目前に全国化していった」というのでは,
冗長でよくわからないと思う次第です。
何かいい題名がありましたら・・・。

肥沼さんへ
 題名は今のままで良いと思います。
 官道はもとももと中央集権化にとって不可欠なもの。最初から軍事道路としての側面も持っているし、官吏や伝令の派遣や税の輸送のためでもある。
 そして中央集権化とは、日本列島の場合は、隣の中国に強大な中央集権国家、隋・唐が相次いで出現したことへの対抗措置なのですから。
 神功紀はともかくとして、欽明紀の年代は、朝鮮半島で高句麗と百済・新羅が激しく戦い、倭国は百済を支援していた時期。崇峻紀はまさに隋成立の時期。推古紀はその隋とどう対応するのかそして混乱の中で隋が滅び新たに出てきた唐とどう対応するかの時期です。
 見事に官道の整備の過程は、中国における統一国家形成に対応しているでしょ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

これまでずっと隋や唐のことは歴史の時間に教えてきましたが,
東アジアの情勢がこれほどダイナミックに変貌する時期,
自分の国がそれにどう対処していくのか,
当時のリーダーたちは本当に悩んだことと思います。
川瀬さんのおかげで,それをようやく知ることができました。
不勉強な私ですが,今後ともよろしくお願いいたします。

肥さんへ

「日本史」という学科(受験科目)がありますが、
これは一種の虚構(の学科)です。
人は常に国際関係の中に置かれており、
「世界史」しかないのです。
これを部分的に切り取って「~(国)史」と称しているだけです。
つまり「日本史」として見るのは逆立ちしてみているのと同じです。
常に国際関係の中でみなければ「歴史」ではありません。
私はそう考えています。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど,その通りですね。
皇国史観や一元史観に陥らないためにも,
歴史は「世界史しかない」というという視点が重要です。

そこで考えたのですが,小学校の歴史教科書と中学校の歴史教科書。
前者には「世界史がない」のです。だから,それで教わってくると,
自然と「大和一元史観」になってしまう気がします。
私の作った授業プラン〈「邪馬台国」はどこだ!〉をやると,
最初の方では,大和に弥生時代の考古出土物が多い
と考える生徒が多くて不思議だったのですが,
その原因は小学校の歴史教科書には「世界史がない」
というところから来るのかもしれません。

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