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2017年9月 9日 (土)

国宰と国司~2つの「県知事さん」

あるサイト(院長日記)で,
「701年、大宝律令で文武天皇は、国宰を廃止し、国司を制定しました。」
という件(くだり)を見た。

ということは,7世紀末までは九州王朝の時代,
8世紀初頭からは大和政権の時代と考えられるわけだから,
(実際「続日本紀」は,大宝元年が最初の年号であると書いてある=建元)

国宰・・・九州王朝が置いた「県知事さん」
国司・・・大和政権が置いた「県知事さん」

こう考えていいのだろうか?
「日本書紀」には国宰という言葉は登場しない
(「なかった」ことにさせられた)らしいので,
ますますそんな気がしてきた。

「県知事さん」がいたということは,その治める「県」
=国があった(もしかして66国?)ということで,
その県庁は「国府」などと呼ばれたと思われるから,
政教一致の当時,その近くに置かれた寺を「国府寺」などと言っただろう。
そこに聖武天皇は「七重塔を作れ。そうすれば金泥のお経をプレゼントしよう」
と命令を出し,その後いろいろ改名されていき,「国分寺」となっていった・・・。
そんなふうに思うのですが,ご教示いただけたら幸いです。

PS 評制の廃止で,以下のようになったということですが,それもよろしいですかね。

国宰 (くにのみこともち) → 国司(こくし=くにのつかさ)・・・「県知事さん」
評督(こおりのかみ) → 郡司(ぐんし=こおりのつかさ)・・・「市長さん」
助督(こおりのすけ) → 里長(りちょう=さとのおさ)・・・「町村長さん」

院長日記

http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c762.html

盗まれた「国宰」(正木裕さん)

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou90/kai09004.html

8年ほど前の論文ですね。「古田史学会報」90号(2009年2月16日)
私が思いつくくらいだから,当然もうすでに論文が出ていますよね。
でも,「-8年」と思って頑張ります。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥さんへ

そういえば、

「守護」と「地頭」

もそのようなものだったと
記憶にありますが・・・

肥さんへ

諸国レベルではなく、国家(朝廷)レベルも考えて良いのではないでしょうか。

太宰(たいさい、だざい)→太政大臣(大宝律令)

なお、太政大臣は天智紀にすでに登場しています(近江律令か)。
また、太宰が何時の時代にあつたかはわかりません。
朝廷レベルでもあったのではないか、という提起です。

 先日NHKBSの「英雄たちの選択」「壬申の乱」を見ていたら、出演していた学者が(国立民族学博物館の教授だったと思う)、「国宰」と諸国の長のことを呼んでいましたので、歴史学会でも「続日本紀」や他の史料に基づいて、大宝律令以前の国々の長のことを「国宰」と呼んでいたというのが、定説になっているのかもしれません。
 書紀には、国司と国守という用語が出てきます。
 国守は、たとえば書紀継体紀に出てくる、おそらく筑紫君磐井が付いていた朝鮮百済での官職に○○国守があり、またしばしば蝦夷やその北の粛慎討伐で出てくる阿倍引田臣比羅夫の官職として「越国守」があります。
 日本ではいきなり、のちの66ヵ国の国ができたのではなく、これは律令制度の導入によってできた「令制国」と呼ばれており、それ以前は、たとえば国々の支配者として「国造」「国君」という称号が出ており、彼らの律令制下の統治範囲が、令制での郡の規模に相当することから、律令制が敷かれる前の国とは、のちの郡程度の広さの地域だったと思われます。磐井が統治していた百済の国は二郡と書いてありました。
 ということは「国守」が統治していた範囲は数郡があつまった地域であって、のちの令制国の先駆けだったのではないでしょうか。もしかしたら書紀の国司は最初はこの「国守」と同等の地位だったのかもしれません。
 律令制が敷かれて、「国造」や「君」が支配する地域を統合して令制の国が作られた。この時の国の長が「国宰」。これが大宝律令制定によって正式に「国司」になったのでは。
 つまり日本における国の制度の変遷は
1:一郡程度の大きさの国=この長が「国造」や「君」
2:これを二郡程度に統合した初期の令制の国=この長が「国守」や「国司」
3:この郡を3.4郡から7.8郡に統合してつくった令制の国=この長が「国宰」
 このように変化したのではないでしょうか。
2:の時期が筑紫君磐井の時代です。6世紀の前半。磐井がすでに朝鮮で「国守」であったことや、磐井の墳墓にある石人から、すでに初期の令制が施行されていることがわかります。
3:の時期が律令制の導入期。この最初が、書紀孝徳紀の大化二年の詔。これはおそらく九州年号の常色二年の詔だと思う。ただこの前後の詔を見ると、のちの国司の権限である、検断権(裁判・警察権)はなく、諸国の調査(租税の納入状況や新しい制度や戸籍導入の進行状況の検査・役人の勤務状況の検査)だけしかなく、これを都の天皇に報告し、報告に基づいて処罰する(=検断権)は天皇にしかなかった。これが650年頃、七世紀の中ごろの話です。この時に九州王朝の畿内だけに国司が派遣され、畿内と他の王国の中の九州王朝の直轄地にだけ「評」制が施行された。本来この詔にある「国司」は「国宰」であり「郡司」は「評督」であったのではないでしょうか。
 この時期には近畿天皇家の版図には評制は施行されなかったと考えています。評制が実施されたのは九州王朝の直轄地である畿内八か国(九州と瀬戸内)、そして同じく直轄地であった東国(たぶん美濃以東)。この間にあるの今の近畿地方の、大和・山背・近江・河内が当時の近畿天皇家の畿内で、これに越前・尾張・伊勢・伊賀・紀伊が付属していたのではないかと考えています。
 つまり九州王朝の直轄地は、西は播磨以西、東は美濃以東だったと。その播磨以西の中に、有力な同盟国である吉備の版図があるはず。そして美濃以東の中に、同じく有力な同盟国の上毛野の版図があるはず。
 これは木簡に評の文字が出てくる地域を確認するとわかると思います。
4:701年の大宝律令制定が第二次の律令制施行だと思います。
 ここで令制国66か国が定められ、国の長が正式に国司に、そして国を構成する評が郡に代わって、郡の長が郡司になったのだと思います。

 したがって諸国に国府が置かれたのは、3の時期。書紀孝徳紀の時期で七世紀の中ごろ。そして大化二年の詔には諸国に駅を置き駅鈴を置いたとあるので、この時に全国的な軍事道路網が制定され以後半世紀ほどかけて作られたのではないでしょうか。
 また国府にはそれぞれの国の行事としての仏教行事をつかさどる国立寺院として僧寺・尼寺のセットが置かれた。
 この動きは七世紀中ごろには確定していたが、その先駆けは6世紀末かもしれませんね。中国に隋王朝が出現し、東アジア国際秩序が再編成期に入った時期。当然統一されていなかった朝鮮半島と日本列島の国々は、隋に従うのか戦うのかという究極の選択をさせられた。九州王朝は隋に対抗する道を選んだことは「日出るところの天子・・・」の国書で明らかですから、当然列島内の中央集権化の道を選んだと思います。
 このため列島内の他の王朝、東は毛野や大和、そして吉備など、さらにそれ以外にも九州王朝の分家はたくさんあったと思うので、それぞれが隋に従うのか、そして隋と対抗すると決めた九州王朝に従うのか対立するのか、選択を迫られたでしょう。
 こういう国際情勢と国内情勢の中で令制の国は次第に形作られたのだと思います。

 ただし例示した1・2・3の段階はいきなり進んだのではありません。少しずつ次の段階に進むので、たとえば2で作られた「国守」は、阿倍臣が「越国守」と記されたのは3の段階にはいった直後である白村江の戦いの前哨戦の中ですから、この時期にはまだ九州王朝は、全国に令制を敷いて、全国に令制の国を置ききっていないことがわかります。
 ということで時代の変化は複数の制度が同時並行していることは忘れないでください。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 太宰(たいさい、だざい)→太政大臣(大宝律令)

なるほど,国家レベルでも「書き換え」があったということですね。
まだほかにもありそうですか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

行政機関の名称変更だけでなく,どの時期のものか,どれぐらいの規模のものかなど,
総合的に考えていく必要があるのですね。すごく勉強になりました。
「全国を支配する」ということが,いかに大変な事業であるということを頭に置きつつ,
古代史を研究していきたいと思いました。長文のレクチャーをありがとうございました。

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